第二部
「それならあそこの骨董屋で売ってたよ」
「あっさり見つかったね」
ポーロの手袋。
「あーあ、でもお金が足りないや」
「まけとくよ。毎度あり」
「これでもう一文無しよ」
「若い身空で・・」
「何に使うの?」
「いい? 物にも記憶ってものがあるのよ。その人が持っていた記憶。それを辿ればその人に行き着けるってわけ」
三人は街角に立った。
「絶対に手を離さないでね。行くわよ」
エレヤもロッシーナもシンディにしっかり掴まった。
「妖精の(ー)物語」
光に包まれた。
飛んだ。
「風?」
「いいえ、飛んでるの!」
ソラフルハハが下に見える。
ほうき星になったように海も山も越えて直滑降した。
降りた所はどこかの林の中だった。
川のそばで釣った魚を焼いている男の後ろ姿。
「居た!」
「シッ!」
「隠れてるやつ出てこい」
「シンディ!」
「妖精の(ー)物語」
ポーロが光に包まれた。
思った時、光が消えた。
「魔法が、効かない?」
「シンディ、ロッシーナ、逃げるのよ!」エレヤは二人の手を掴んで、走り出した。
ポーロが追いかけてくる。
何か叫んでるが、聞き取れない。
シンディが足を止めた。はずみで、エレヤもロッシーナも転んだ。
「ちょっと待って。あの人、まさか・・」
ポーロがそばまで追いついてきて、止まった。
エレヤはロッシーナを助けて立ち上がらせた。
シンディとポーロが聞き慣れない言葉で喋っている。
シンディが戻って来た。
「びっくりした。スエル語よ。私たちウィザードの言葉。あの人はウィザードじゃないって」
ポーロは手を上げて敵意が無いことを示している。
「普通の言葉は喋れるの?」
「うん」
「こんな所でウィザードに出会えるとはな」ポーロは黒い光沢のある革のジャケットを着ている。
「いきなりこんなことしてごめんなさい。助けてほしいの」
「ムスクのヒンク? あんなのが見たいのか」
ポーロが釣った魚をごちそうになっていた。
「じゃあ、取り引きしよう。俺はお前さん方を責任を持ってムスクのヒンクに会わせてやる。俺もこれから行くとこがある。そいつにウィザードの力が必要なら来てもらう。それでいいか?」
ポーロから持ち掛けられた話に三人はこくこくと肯いた。
「どこへ行くの?」
「クレタ島だ」
朝が明けて、焚き火を消すと、ポーロを先頭に歩き出した。
ポーロは無口だ。
14歳の女の子たちにとっては。
「これからしばらく歩くぞ」と言ったきり、かなり歩いた。
「寄り道しよう」ポーロが森の脇道に入った。三人はくたくたに疲れ切っていたので、何も言わず後を付いて行った。
「何か見えるか?」ポーロは険しく切り立った崖を覗いた。
エレヤもロッシーナもシンディも座り込んでいた。
ただ岩があるだけだ。
「あそこをよーく見ろ。顔のように見えるだろう」
苔むした土くれ。
そう言われればそう見えなくもない。
「あれはミゾウ。太古の昔、この世界を食べ尽くしたと言われている神だ。今は深い森の中で眠っている。この世界は二度生まれたんだ」
シンディも肯いた。
「嘘のようなホントの話。私も聞いたことがある」
「何でそんなこと」
「全てを知ってしまったから、じゃないか」ポーロが言った。
「二度あることは三度ある、かもな」
ポーロは振り向いて、笑った。
「孤独病の蔓延だ」
「俺はある国の王から派遣された。孤独病の蔓延を防ぐためにな」
ミゾウと呼ばれた赤土の下で小休止をしていた。
「その話はどこかでしてやる」
何度めかの野宿の時。
エレヤはポーロに聞いてみた。
「ねえ、どうして旅なんてしてるの?」
木を削っていたポーロはポツリと「この世の終わりを見たいと思わないか」と呟いた。
「あなたも死んじゃうじゃないの」
「俺は死なない。死ぬ気がしない」
「ふーん」
「死んだらつまらん」
エレヤはシンディの方へ寄っていった。
ロッシーナはもう寝ていた。
「ねえ、シンディはずっと旅で、さびしくなったりしない?」
「そういうの、旅愁に駆られる、って言うんだって」
「旅愁、か」
「旅に出た時のさびしい思い」
「何作ってるの?」
「ポーロの真似してるだけ」
「ふーん」
エレヤはつと横を向いた。
月はいつも見ている。
旅に手紙は届かない。
三人はポーロも呆れるほど元気に歩いていた。
「ドングリ!」
「ようやく冒険らしくなってきたわね」
「もう行くぞ」
「ポケットから溢れそう」ロッシーナは旅の途中で見つけたあれこれをポケットに詰め込んでいた。
三人とも服はくたびれてきていた。
「ムスクのヒンクはこの森だ」
「やった」
「まだ誰も来てないよね」
「そのようだな」ポーロは地面を見て確かめる。
立ち木がいっぱい並んでいる日当たりのいい森だった。
ポーロはロッシーナとムスクのヒンクを探すエレヤとシンディを座って見ている。
「お前さん、いつから盲目なんだ?」
「生まれつきよ」
「そうか・・」
ポーロは煙草を取り出し吸った。
「その暗闇が役に立つ時が来るかもな」
「?」
「いや、何でもない」
「いたいた! そっちよそっち!」
「どこ?」
「シンディの方よ! また逃げちゃった!」
「すばしっこいのねー」
「追いつめよう!」
「俺らも行くか」
「はい」
ムスクのヒンクは紫色の毛足の長い動物だった。
震えている。
木の根元にじっとして動かない。
怯えている。
「モップみたい」エレヤは言った。
「私、触ってみてもいい?」ロッシーナが手を近付ける。
「やめとけ、噛み付かれるぞ」
「なんか、いじめちゃったみたいね」
「うん。もう止そう」
四人はそろそろとムスクのヒンクから遠ざかった。
「私、待ち合わせしてる人がいるのよ」
「いつまで待つんだ」
「さあ、そこまでは・・」
「ここに来る確約でもあるのか」
「・・」
「ここまで歩きづめじゃない。ちょっと休もうよ」
「エレヤもかわいそうだし、シンディの力も必要なんでしょ」
「・・一週間だ。それまでに来なかったら置き去りにするぞ。俺は近くの村にでも買い出しに行って来る」
「はーい」
「ポーロって可愛いとこあるよね」
ポーロが戻って来た。
「誰か一人付いて来い」
「私、行くよ」エレヤは立ち上がった。
「食料はいい。お前はこれで毛糸玉を買って来い」
「毛糸玉? どのくらい」
「ありったけ」
「ムスクのヒンクの餌は」
「あいつは木の皮を食べる」
落ち合った場所ではポーロも毛糸玉をごっそり抱えていた。
「誰も来ないよ」
三日目。
食料はポーロが採って来ていた。
ムスクのヒンクは懐かない。
ロッシーナは毛糸を編んでいた。
そこにガヤガヤと人の声がした。知らずに隠れていた。
一団の中にコーゼがいた。
一団が罠を張って、走り出した。
私達と同じように追いつめようとしてるんだ。
コーゼも走っている。
ついにムスクのヒンクが罠にかかった。
キーキーと鳴くムスクのヒンク。
「止めなさい! ただの臆病な動物じゃないの」
一団が一斉にこっちを見た。
「エレヤ」コーゼが言った。
「どうしてここに?」
「私が見つけたんだから!」
ポーロがナイフで罠を切り落とした。
「こういうのは気に食わんなあ」
「エレヤがそう言うなら」コーゼが調査団に説明していた。
皆も渋々承諾してくれたようだ。
コーゼがエレヤに近付いて来た。
「太陽号に乗るんだ!」
「太陽号?」
「前、言ってたもっと大きな計画さ。それに乗れば分かるんだよ。ソラフルハハも月が太陽に刺さった理由も」
「どうして?」
「ハウリッカで君を待ってる」
コーゼは調査団と共にまた行ってしまった。
「この旅が終わったら、また会おう」とコーゼは言った。
ムスクのヒンクは怖がって二度と出て来なかった。
「約束だ。今度は俺に付き合ってもらう」
「クレタ島ってどこなの?」
「ルー砂漠を越えた先だ」
四人はまた歩いた。大量の毛糸玉を持って。
「エレヤ、どうする気?」
「何とかなる」
「ルー砂漠をお前さん方が越えるのは難しいな。どこかで砂漠の民と出会えればいいが・・」
「地図も無しでよく覚えてるわね」
「一度通った道は忘れない」
「来たことあるの?」
「何度かな」
ポーロの世界地図はどうなってるのかしら。
エレヤの腕につかまっていたロッシーナが足を止めた。
「風が変わった」
「いい鼻だ」
足元まで草があるのにそこから先は延々と砂漠が続いている。
「足をとられないように」エレヤはロッシーナと体を密着させた。
「待て。ここから先を歩くのは無茶だ。誰か探してくる」ポーロ一人だけが歩き出した。
少し経ってから、ポーロが小脇に長い板のようなものを抱えた少年を連れて来た。
頭にターバンを巻いている。
「砂漠の民のジンだ。お前らはこいつに連れてってもらえ」
「ポーロは?」
「歩く」
「ポーロ? あいつが?」ジンはビックリしていた。
「いいOパーツだ」ポーロは板を叩いて歩き出した。
ジンは露骨に嫌そうな顔をした。
「しょうがねえ。前金もらっちゃったもんな。乗ってくれ」ジンは板を下に伏せた。
エレヤ、ロッシーナ、シンディの順で後ろにまたがった。
ジンが一番前に乗ると、浮いた。
地面スレスレを飛んでいく。
途中でポーロとすれ違った。
ポーロは軽く手を上げた。
「ポーロも乗ればいいのに」
「あいつなら大丈夫さ」
ルー砂漠は所々で砂時計のように空から砂が降ってくる。
照り返す砂が眩しい。
「Oパーツって?」
「あってはならないもの。昔の文明の遺産だとか、そんなふうに言われてるね」
ジンはもう追い越したポーロの方を向いた。
「気を付けた方がいいぜ。あいつは冒険者というより盗人さ。めぼしい物は根こそぎさらって行く。秘密や知られたくない事をね。だから、お尋ね者なのさ」
「暖かい風」ロッシーナには聞こえなかったのかエレヤの体に掴まり言った。
オアシスが見えてきた。
「あそこで一休みしよう。どうせあいつを待つんだろ」
オアシスに降り立った。
そこには小さな村が出来ていた。
エレヤは立てかけられたジンのOパーツを撫でていた。
「父さんが見たらよだれ垂らすな」
「おいしい水!」ロッシーナが泉の水を飲んでいた。
「こんなにもらったよ」ジンはオアシスの人たちにポーロからもらったビノを分け与えていた。
「掘り出し物だよ。それは」ジンがエレヤに声をかけた。
「ルー砂漠はどこを掘っても何かが出てくる。宝の山さ」
「宝探しみたいで楽しそうねえ」シンディが泉に足を浸して言った。
「どういうわけか上から砂が降るから、また埋もれてしまうけどね」
「あれ、ソラフルハハみたいだけど」エレヤは絨毯の刺繍を指差した。
「砂漠の民はソラフルハハを信仰しているんだ。雨をもたらすってね。雨乞いもするよ。一度も降ったためしはないけどね」ジンは笑った。
「らくだには乗らないの?」
「乗るよ。時々ね」
「お若いの」老人が話しかけてきた。
「服がそんなに汚れとるんじゃ大変じゃろう。ここで洗濯していきなさい。ここにはいっぱい水があるのでの」
「そうね、ポーロも大分引き離したし、今の内洗っちゃおう」
三人は砂漠の民の服を貸してもらって昼寝をした。
エレヤの煙草色のヘリンボーンのジャケットとシナモン色のズボン、白いシャツ、ロッシーナのデニムのコートと下着、シンディの熊の毛皮がサンサンと日に照らされ風に揺れていた。
どれもみな、すりきれて、穴が空いていた。
夜になった。
ポーロは来ていなかった。
「ポーロ、まさか、先に行っちゃったんじゃ」
「またすぐに追い付くわよ」
三人はそのまま寝た。
久しぶりに柔らかい毛布に包まれて寝た。
長い月。
サラサラと砂の降る音と風を切る音。
「へー、旅してるんだ。ポーロと一緒に?」
「ひょんなことから」
見渡す限りキャメル色。
砂以外何もない。
空は晴れ渡っている。
小麦色に日焼けした三人はそろそろ砂漠に飽きてきた。
途中のオアシスで三回休憩を取ったが、どこでもポーロとは会わなかった。
一個のオアシスの泉はもう枯れていた。
「長いのねー」
「とりあえず反対側まで送るように言われたけど、それから先は知らないぜ」
「きっとポーロが待っててくれるわ」
「その毛糸玉は何に使うんだい?」
「さあ?」
「あっちに何か見えるよ」シンディが指差した。
歪んだように曲がった木が見える。
霧の中に浮かんでいるようだ。
「気味が悪い所だな。降ろしていいのかい?」
「ええ。きっとそこよ」
ホバリングして停まった。
「ポーロ?」
いないみたいだ。
「気を付けなよ」手を振ってジンが去っていった。
「寒い」ロッシーナがギュッと手を握った。
「クレタ島って言ったから、島なんでしょ。ロッシーナ、潮の匂いはしない?」
「しないわ。この霧の匂いで鼻が詰まりそう」
「ポーロ、どこ行ったのかしら」
「不気味な所ねー」
「湿地、みたいね」
鳥の声が響く。
湿原はどこまでも暗く深い。
「おーい、ポーロー」
こだまする声も寂しそうだ。
梢から人が飛び降りてきた。
エレヤもロッシーナもシンディもギョッとした。
ポーロだった。
「道が変わってる。ここはいつもそうだ」
「やっと会えたね」
「ひょっとして私達のこと見てた?」
「ああ、毛糸をなくされちゃ困るからな」
「イジワル」
「じゃあ、ポーロが持ってよ。これ全部」
「まあそう言うな。その毛糸が文字通り命綱になるかも知れないんだぞ」
「どういうこと?」
「おいおい話してやる」
「一人じゃ持ち切れないからって」
三人はクスクス笑った。
霞の中から一軒の小屋が見えてきた。
水際にはボートが一隻。
ボートの上には中年の男性が櫓を握っている。
台の上には少女が一人座っている。エレヤ達と同い年ぐらいのお人形さんみたいな女の子だ。
葬式のように真っ黒な服を着て、黒い瞳が印象的なその少女は、エレヤ達を見ているのに何の挨拶もしない。
「来た」その少女はボートの上に声をかけ、おじさんが下りてきた。
「よく来たな」ポーロを知っているみたいだ。
「渡るの? 渡らないの?」抑揚のない口調の女の子は憂鬱そうだった。
ポーロが肯くと、女の子は小屋に何か取りに行った。
「ヨゼフ。この海の水主だ」
「水主?」
「船頭のことよ」
「おい、これに名前を書け」
女の子が持って来たノートに名前を書く。ほぼ、白紙だった。
「義務だからな」とポーロもノートに名前を書く。
「舟の用意をする」ヨゼフはそう言ってまたボートに戻っていった。
「どういうご関係?」
「古い仲間だ」
「よろしくお願いします」ボートに乗り込むと、ヨゼフは毛糸玉の山を見て肯いた。
「ポーロさんの古い仲間だって」
「ただの昔馴染みさ」ヨゼフはそれ以上何も語ろうとはしなかった。
ポーロにもヨゼフにも過去があったらしい。
夜が暮れて舟が出た。
女の子は岸に置いてきた。
舟の上では重苦しい沈黙が支配していた。
ヨゼフのかく櫓の音だけがただチャプチャプと時を刻んでいた。
「ジェノアを覚えてるか? ヨゼフの娘だ。孤独病にやられてる。ヨゼフもだ。もう手遅れだな」舟の上でポーロが言った。
エレヤはジェノアの病的な美しさを思った。
朝靄の中から悲鳴のような歌が聞こえた。
三人ともその音で目を覚ました。
ポーロは起きていて、ヨゼフも櫓を漕ぎ続けていた。
「クレタ島が近い」一人言なのかポーロが呟いた。
海岸に着いた。
「海岸から林を抜ける」
ヨゼフは岸で待ってるらしい。
「ある神話によると、」砂の上を歩き出した時に、ポーロが話し出した。
「昔々、あるところに――」
ロッシーナは松ぼっくりを拾った。
「王は、神に雄牛を願った。そのあまりの雄牛の美しさに王は約束を違えて、違う雄牛を返した」
林に分け入る。ザッザ。ザッザ。
「神は怒り、その后に呪いをかけた。雄牛に恋をする呪いをな」
ザッザ。
「ある日、思いを募らせた王妃は名工に雌牛のハリボテを作らせて、ついに雄牛と交わってしまった」
ザッザ。
「王妃は妊娠し、その子を産んだ。その子は半分は人、半分は牛の姿だった」
ザッザ。ザッザ。
「アステリオスと名付けられた。星、の意だ。だが、民衆はその王の牛、ミノタウロスと呼んだ」
ザッザ。
「ミノタウロスは次第に凶暴になり、人肉を好んだ。困り果てた王は名工に迷宮を作らせ、そこにミノタウロスを閉じ込めた」
「非道い。ミノタウロスは何もしてないのに」ロッシーナが声を荒げた。
「寓話ね」シンディは言った。
ポーロは肯いた。
「そうだ。寓話だ」
林を抜けた。
「ここが寓話の故郷だ」ポーロが言った。
荒れ果てた大地に遠く巨大な鉄塊のようなものが見えた。
「ここにも昔文明があった。孤独病の蔓延で死に絶えた」
「いつの話?」シンディが怯えたように問うた。
「さあな。俺にも分からん。ミゾウが唯一食べ残したものだ」ポーロはまた足を進めた。
「もう言葉は通じない」エレヤ達は黙って付いて行った。
グルリと取り囲まれたそびえ立つ壁。
円型のように見えるが大き過ぎて確かめようが無い。
半分だけ屋根が付いてる。
黒い壁。
「何で出来てるの?」
「鉄と煉瓦」
巨大な壁の切れ間から中に入る。
入口に楽園のタペストリーが掛けられている。
「そこに毛糸の端を結んでおけ。伸ばしながら歩くんだ。一生出られなくなるぞ」
高い高い壁が立ちはだかっている。
自分が今どこにいるのかも分からない。
迷宮だ。
「真っ暗」
「離さないでよー。離さないでよ」
「血なまぐさい」ロッシーナの声が聞こえた。
「終わりのない孤独」ポーロの声が聞こえた。
「究極の孤独だ」
毛糸の端と端を結んでは歩き、結んでは歩きを繰り返した。
「どこにいるの?」
「この迷宮のどこかだ」
「待って!」ロッシーナの声が響く。
「音がする・・」
三人とも耳をそばだてた。
何か、叩く音がする。
コンコン、コンコン、と、ミノタウロスのノックの音だけが迷宮に響いている。
「まだ希望を持ってる!」ロッシーナがポーロに詰め寄るのが気配で分かった。
「逃がしてあげて!」ポーロがロッシーナを振り払うのも。
ロッシーナの泣き声も。
先頭のポーロはミノタウロスのノックの音をたよりに歩を進める。肩同士を掴んで三人も付いて行く。
僅かに日の光が届く所でミノタウロスは壁に寄りかかり、耳を塞いでうずくまっている。
巨大な人、頭は牛。
熱い息を吐いているのか、息が白い。
何よりも深い闇はミノタウロスの目にあった。
「これ以上近づくな。孤独病に罹るぞ」ポーロが止めた。
「かわいそうじゃないの!?」ロッシーナがポーロに詰め寄る。
ポーロはロッシーナの肩を掴んだ。
「奴は死ぬ事も出来ないんだぞ!」
「人を殺すなんて私が許さない!」
「奴は人間じゃない。人間じゃない人だと思え」
「人間じゃない人はあなたよ!」
「奴を閉じ込めておくのか? 見殺しにするのか? 奴を殺さないとジェノアも助からないんだぞ!」
ロッシーナは言葉も失くし、足がガタガタ震えていた。
エレヤもシンディも同じであった。
ロッシーナがひざまずいた。
間近にいると感じる。
えも言われぬ不安、恐怖。
いたたまれない戦慄。
息が詰まりそうな孤独。
身動きできない。
目を開けてるのも辛い。
立ち上がる勇気さえない。
ポーロがロッシーナの肩から手を離し、ナイフを取り出して立ち上がった。
「どうして行くの?」
「もう後悔したくないんだ」ポーロは振り向かずに言った。
「どうしてあなたは平気なの?」
答えない。首を振るだけ。
ポーロはミノタウロスに飛びかかった。
ミノタウロスは頭をもたげ、ポーロを見た。
ミノタウロスは何の抵抗もしない。
ポーロはナイフをミノタウロスの首に突き立てて、裂いた。
喉まで貫いた時、ミノタウロスが何か言った。
「なぜ、お前は人間なんだ・・」
「命乞いか?」返り血を全身に浴びながら、ポーロは涙を流していた。
ミノタウロスは断末魔に慟哭の音を上げた。
ポーロは、ミノタウロスの首を、切り落とした。
ポーロは角を持って、ミノタウロスの生首を持って来る。
「どうした? ウィザード」ゴトンと生首を目の前に置いた。
ロッシーナは怒りで手が震えてる。
「非道い」
三人は泣きじゃくって、しばらくは立ち歩くこともできなかった。
毛糸を手繰って外に出られたのは、夜になってからのことだった。
「いたいけな少女たちに何すんのよ!」エレヤは怒っていた。
ロッシーナはまだ泣いている。
シンディは一人でブツブツ唱えていた。
エレヤはロッシーナの隣に座った。
二人とも黙っていた。
「目が見えないってどんな世界?」
「・・死んでしまいたい世界」
ロッシーナはちょっと笑った。
「瞼って温かいのよ」
ロッシーナは何回もため息を吐いた。
「ため息ついた分だけ幸せになれる」
「そっとしておくのが一番だ」ポーロが言った。
エレヤ達はそれを無視した。
鉛のような曇り空は少しずつ雲が流れていくようだ。
ポーロがミノタウロスの迷宮の入口に掛けられていた楽園のタペストリーを剥がして、丸めて持って来た。
「いい値がつくだろう」
ロッシーナはポーロと同じ舟に乗るのも嫌がった。
ポーロは血染めの服を海水で洗っていた。
ヨゼフは楽園のタペストリーを広げて見ていた。
薄い日が差していた。
靄も薄くなったようだ。
ポーロはロッシーナと一番遠く離れた舳先に立って海を見ていた。
ロッシーナは思い出したように泣き出した。
海が澄んできた。
ジェノアが出迎えてくれた。
ジェノアが舟を舫う。
ジェノアの服はよく見ると花の刺繍がされていた。
「ねえ、私達と一緒に来ない?」
ジェノアの表情が一瞬、華やいだ。
「仕事があるから」
「だって、ミノタウロスはもう・・」
ジェノアは首を振った。
「人が戻ってくるから」
「明るい海が見られるよ」
「ここも直にそうなるわ」
楽園のタペストリーはヨゼフとジェノアの小屋に掛けられた。
「これからどこへ行くの?」
「ハウリッカ」
「エレヤ?」
「太陽号に乗るの!」
「ハウリッカか。遠いわね」
「どこ?」
「あっち」ジェノアは漠然と指を差した。
「ありがとう」
ジェノアの口からため息が漏れた。
「元気でね」エレヤはジェノアの冷たい手を握った。
ジェノアは目を細めて笑った。
「元気でね」
「お手洗いどこ?」
ジェノアが小屋にロッシーナを連れていった。
「太陽号、か。ねえ、エレヤが欲しいものって何なの?」
「私が欲しい物? それは・・」
エレヤは少し考えた。
「ロッシーナの目」
ハンカチで手を拭きながら出て来たロッシーナは顔色が悪かった。
「大丈夫?」
ロッシーナが目を伏せた。
「人でなし!」
ポーロは下を向いた。
「あばよ」
わざと違う道を選んだのだろう、ポーロは姿を消した。
「ここはよく雨が降るから、早く行きなよ」ジェノアが背中を押した。
ジェノアの言っていた方角に進むと、小さな街があった。
「ここはハウリッカですか?」
「さあ・・。ここはハテナだよ」
「ハウリッカはどこですか?」
「知らない」
「愛想が無いわねー」
道行く人に聞いても、「知らない」
「分からない」
「さあ・・」と言うばかりであった。
夢遊病のように漂う人達は皆虚ろな目で、知らない、分からない事は口に出せないらしい。
「こんな街、一秒だって居たくない!」エレヤは声を上げた。
「私、服買う。服くらい買えるでしょ」ロッシーナが言った。
「服? どうして」
「こんな血の付いた服、着られると思う!?」
「血なんて付いてないよ」
「付いてるわ! 私には分かるの」
ロッシーナは洋服屋に入った。
「とびきり上等なのちょうだい」
「お金はどうするの?」
「決まってんじゃない。使い果たすのよ」
結局、ロッシーナはコーデュロイのカーディガンを買った。
デニムのコートはエレヤの麻袋に詰めた。
「早く出ようよ。この街から。頭が変になりそう」
「喉乾いたから水だけでも飲んでこうよ」
誰一人遊ぶ人のいない公園で、水飲み場の蛇口をひねった。
「しょっぱい水」
「ねえ、これお酒じゃない? 変な匂いがするよ」
「お酒飲んだことないから分かんない」
「私も」
「私は食前酒を何杯か・・」
「何か頭がくらくらするよ」
「早く出よう」
「嫌な気分になっちゃった」
しゃっくりが止まらなくなった。
「ねえ、どれくらい歩いた?」
「ヒック、そうねえ・・」
「足がふらふらする」ロッシーナの足がおぼつかない。
「目まいかしら。街が見えるような」
蜃気楼みたいにかすんで見える。
「黄砂みたいねぇ・・」シンディが眠そうに言った。
「シラフ・・」エレヤは街の名を読んだ。
「俺はシラフだ!」怒鳴り声が聞こえた。
「ねえ、おかしいよ、ここ。みんな酒に酔っ払ってる」
道に寝ている人も座り込んでいる人も皆、へべれけに酔っているようだ。
「とてもシラフじゃいられない」ニヤニヤ笑って男が言った。
街には、「惜しい事ばかり繰り返すのだ」とか「君も嘲うだろうか」と標語みたいに立て札が立っていた。
「後ろ見て!」
街の入口がなくなっている。
「出られない!」
「どうしちゃったの?」
「見て! エレヤ!」
私達がいた。
まだデニムのコートを着ているロッシーナの姿があった。
「過去と未来が入れ違ってる!」シンディが絶句した。
もう一組、あちらからも私達の姿が。
「あれ? でもロッシーナがいないよ」
「夢でも見てるんじゃないの?」
空はかすんで、太陽も月も見えない。
「時計が止まってる・・!」
どこの時計もちぐはぐに針を差していて、止まっている。
三人のお腹がグーグー鳴った。
「とにかく何か食べなきゃ」
三人は開け放された家に入った。
誰もいない。酒の瓶が転がっている。
「お邪魔します」
台所。
「ゆで卵でいい?」エレヤは卵を取って、お湯を沸かした。
「出来た。出来たよー」
テーブルについていたロッシーナもシンディもおまちかねだ。
卵をテーブルの角で叩いても、割れない。
ゆで卵がフルフル震えてる。
殻が割れる。
雛が孵った。
三人とも絶句した。
「何よコレ?」
「どうなってるの?」
「この街じゃ何をしてもダメなんだ」
三人は逃げ出した。
小屋に入って、鍵を閉めた。
シラフでは日が暮れない。
「ねえ、もう二日くらいいるんじゃない?」
「燻製しか食べてない」
「しょうがないじゃない。それしかないんだから」
「ロッシーナ、今日の天気は、何?」一人窓辺に立っていたロッシーナに声をかけた。
「雨ね。雨。雨の匂いがするわ」
「しめた! 雨でこの黄砂が晴れたら出られるんじゃない?」
「そっか!」
雨が降り出した。
三人は外に出てみた。
街が見渡せる。
「あっちが出口だ!」
三人は走り出した。
酔っ払った人達が追いかけてくる。
「どうにかしてよ!」
「怖い!」
「妖精の(ー)物語」シンディから蝶のような翅が生えた。
「いかづち!」
空から稲妻が降ってきた。
「今の内に逃げて!」
酔っ払った人達が四方八方に逃げて行く。
「ふるえているものはみんなひつじのよう」ウットリしてシンディが陶酔している。
「また自分の魔法に酔ってる・・!」エレヤはシンディの腕も引っ掴んで、走った。
「お腹減ったー」
また森だ。
ソラフルハハが見えた。
今日はラッキーだ。
「何だろう? 薪の匂い」
「こんな森の中で?」
「わっ!」
森にポッカリと空いた草地で、下半身は馬、上半身は人という人が何頭か群れていた。
「ケンタウロス! 森の賢人と言われている方々よ!」シンディが走り寄って握手をしていた。
弓矢を持った男が近づいてくる。
エレヤはミノタウロスのことを話した。
「とうとう・・」とその男は言って、俯いた。
「我も獣人、彼も獣人・・ミノタウロスも我等に生まれ変わろう」
ロッシーナは弓を引きしぼるように糸切歯を見せた。
「何か食べる物ない?」
「悪いが、人間の食べるものはないな」
「ハウリッカって遠い?」
「この森を抜けたらすぐだ」