第一部
ソラフルハハ
森川 めだか
私が産まれた時に、祖母が言ったらしい。
「ほらご覧よ。ソラフルハハがあんなに綺麗に見えるよ。この子はきっと綺麗になるよ」
冬毎に雪だるまが大きくなるように私は成長した。
ものごころつく前に祖母は亡くなっていた。
エレヤはドウィ家の一人娘としてピーバーという田舎街で生まれ育った。
エレヤはいつも、頭の上、遥か天空に、白い星を感じていた。
風が天使の手を借りて、髪を揺らして振り向かせ、運命を教えるのも、エレヤはまだ知らなかった。
ソラフルハハが見えれば、見えない日もあった。
三日月が太陽に突き刺さっている。
私はそれを不思議と思わなかった。
それが当たり前だったから。
祖母は三日月が太陽に突き刺さるところを見たらしい。
父は機械工で、いつもお風呂上がりに、お手製のドライヤーで髪を乾かしてくれる人。
母は、今日あったことを全部話せる人。
幼いエレヤは何も秘密を持たなかった。
エレヤは負けず嫌いだった。それを秘密にする程、負けず嫌いだった。
サスペンダーを肩に回して、リザとよく遊びに行った。
リザは無二の親友だ。
ピーバーに学校はない。
母に読み書きを教えてもらうのも、遊びの内の一つだった。
エレヤは父の、「子供は放っといたら勝手に育つ」の下、「放牧主義」で育った。
遊び疲れたエレヤは、草原に寝ては夜空を見ていた。
エレヤはピーナッツ形の目をしている。
星が見える。
夜空に一杯。
ソラフルハハが見えればラッキーだった。
月はバナナのようで、そこだけ光っていた。
草原で寝たまま、エレヤは眠ってしまうこともあった。
知らなきゃ、と思った。
全てのことを。
だって、私が私として生まれてきたんだもん。
神様を探しに行かないと。
エレヤはそれを秘密にした。
どう言葉にしていいのかも分からなかったから。
隣町アルコットフィードに巡業サーカスが来るというのでリザと見に行った。
よその町からもアルコットフィードに集合したんじゃないかという程、子供達がいっぱいいた。
そこには気の弱い男友達のティントンも来ていた。
「ティントン」
「おい、聞いたか? 魔法使いの話」
「えっ、何?」エレヤは身を乗り出した。
「山の向こうに住み着いたんだって。今度一緒に行ってみようぜ」
「一人で行けないんだ。怖いから」リザがからかった。
色んな曲芸を見て回ったが、エレヤは魔法使いの話が気になって仕方がなかった。
エレヤはつねづね疑問に思っていた。どうして人は魔法が使えないんだろう、と。
占いテントがあった。
「入ろうよ」リザの手を引いた。
「怖いな・・」
中に入ると老婆がいた。
老婆に椅子に座るよう促された。
リザに促されて、エレヤは椅子に座った。
「えっと・・」
リザと顔を見合わせた。
二人は何を占ってもらうか考えていなかった。
「定めが大き過ぎて見えにくいね・・」老婆は眉間に皺を寄せた。
「言いたい放題言ってごらん」
「全てを知りたいの」
老婆は微笑んだ。
「名前は?」
「エレヤ。ドウィ・エレヤ」
「エレヤか・・。運命は不意に訪れるものだよ」
「運命って?」
「運命は駆け引き。定めは時に理不尽、不条理なものとなる」
「よく分かんない」
「運命は約束、定めは誓い。あやまってはならないよ」
老婆がボソッと「約束は願い、誓いは祈り」と呟いた。
「不思議そうな顔をしてるね。なるようになるのが運命なら、なるようにしかならないのが定めさ」
「タロットも使わないの?」
「きっといいことがあるよ」老婆はエレヤを見て笑った。
「もう怖いよ。出よう」リザが私の手を引っ張った。私は立ち上がった。
「旅の者は目を開くだろう」薄暗いテントから出る時、老婆が言った。
「えっ?」私は振り返ったが、老婆は下を向いたままだった。
リザの私の手を握る手がいつもより強かった。
家に帰ってからも、あの老婆の占いがエレヤの頭のどこかで釣り針の様にひっかかっていた。
私とリザはティントンと「魔法使いの家」を見に来ていた。
今、草むらに隠れている。
家というか山小屋だった。屋根の上で風見鶏が回っている。
「おい、見ろよ、あっち。ソラフルハハだ。今日はラッキーだな」
小屋の煙突からは白い煙が昇っている。その向こうにはソラフルハハの尾が遠く見える。
「うるさい。ティントン」リザが言った。
「おい、誰が行くんだよ」ティントンがヒソヒソ声で話す。
「あんた、男の子でしょ。あんた行ってよ」
「私が行く」エレヤは立ち上がった。
「さすが、男勝り」ティントンがコソッと言った。
リザがティントンの頬をつねっていた。
郵便ポストが置いてある。
こんな所に届ける人っているのかしら。
「キロク」「ウメ」と書かれてある。
後ろではリザとティントンが固唾を呑んで見守っている。
「ウメ!」子供が飛び出して来た。
あやうくぶつかりそうになったところを、男の人が引き留めた。
「おや、これは、コーゼの友達かい?」
コーゼ?
「いや、私は、・・あなた魔法使いなんですか?」
キョトンとした男の人と女の子。
「いえ、違います。僕はそれを研究しているだけなんですよ」
「よかったら、おウチどうぞ」女の子が言った。
「この子はウメ、私はキロク。コーゼもその辺にいるはずなんだけどなあ・・」キロクは辺りを見回す。
リザとティントンも出て来た。
「魔法使いじゃないんだって」
「なーんだ」
キロクの家は、中に壁がなかった。
ウメはまだよちよち歩きで、時々走ったりする。
キロクが赤いコーヒーを勧めてくれた。
「コーゼって子もいるんだけどね、僕の見習い。どこ行ったのかな」キロクはガウンを着て言った。
「君たちと同じ年頃だよ」
「どっから来たの?」
「バージエから」
「都会!」
「私も行ってみたい」
「私もー」
「抱っこ」
「ハイハイ。見学していくかい?」
フラスコやら天秤やらが点在していた。
「何を研究しているの?」
「魔法とか、役に立ちそうなことをね。今は錬金術」
「どうして街に住まないの?」
「万一のことがあったら困るからね」
キロクはウメをあやしている。
「錬金術って何?」
「何にも知らないのね。ティントンは」
「錬金術は魔法の基本です」
「狭いのねー。自分で建てたの?」
「はい。二晩かかりました」
「どうしてここなの?」
「放浪するつもりが、ピーバーに着いた時、ウメがここがいい! って。ウメをおんぶして、途中でコーゼとも出会ってね。天啓みたいなものだと思ったんです」
「お腹減ったー!」
「ハイハイ。もうこんな時間だよ。君たちももう帰らなきゃ」
「はーい」
帰り道を歩いていると、沢で洗濯物をしている男の子を見た。
思いつめた顔で、真っ白なローブを着て洗い物をしている。
同年代ぐらいの子だ。
あの子がコーゼ?
エレヤは見なかったフリをして、通り過ぎた。
時々、リザもティントンもエレヤもキロクの所へ遊びに来ていた。
色々な神話や伝承が聞くことができた。
エレヤには、キロクが本物の魔法使いじゃないことが物足りなかったけれど。
コーゼとも親しくなっていた。
二人きりで出かけることもしばしばだった。
「神様なんかいやしない」とコーゼは言った。
「妹がいたんだ。死んだんだ。どこも悪くなかったのに・・」
「何て名前?」
「君とも仲良くなっただろうな・・」
「ねぇ、あなた、私のこと好きでしょ?」
「女の人はいい香りがしますね」
コーゼは唇を引き結んで、エレヤも赤くなった。
「弟!?」
「占い商のおばあちゃんに聞いたから確かだよ」何か誇らしげに母が腹を撫でた。
エレヤ、14歳の時だった。
それから、数日後。
「ムスクのヒンクを探しに行くんだ! 調査団に選ばれたんだよ!」
「ムスクのヒンクって何?」
「幻の珍獣さ! そいつを捕まえれば、きっともっと大きな計画にも参加できる!」
「コーゼの求めてることって何なの?」
「僕は知らないことを知りたい」
コーゼは俯いた。
「エレヤには悪いけど・・」
「妹さんと関係があるの?」
「僕は、・・何も知らなかったから、ただ見ているだけしかできなかった」
「ずっと前から決めてたの?」
「待ってたんだ。キロクさんが推薦してくれて・・」
コーゼが去った後、エレヤはぼんやり立ち尽くしていた。
初恋はもう二度とやって来ないんだな、と思った。
ソラフルハハはその日も来ていなかった。
祖母のロッキングチェアーに腰かけて、ゆらゆら揺れていた。
肘掛けのそばには父のパイプが置いてある。
朝、歯磨きをしていると、開け放った窓から知らない風が吹いてきた。
誰かが鳴いている。
洗面台の鏡には、ドライヤーを持って、おでこを出している自分がいた。
殆ど無意識の内に、ブルネットの腰までの長い髪をポニーテールにして、白い卵を取って、スクランブルエッグを作った。
スクランブルエッグをかき混ぜていると、足元を見た。
私の旅立ちはいつも足元にある。
「焦げてる」
テーブルにつくと、呟いた。
テーブルを片付けて、席を立った。
キロクの所へ来ていた。
コーゼはもういなくなっていた。
荷物をまとめて出て行ったらしい。
「久しぶりだね、エレヤさん。元気にしてた?」
照れ臭いので肯いて、「元気にしてた?」とウメに聞くと、「もー、まったく!」とウメが首にぶら下がった。
「――そのこと、ご家族は知ってるのかい?」
「これから話す。出し抜いてやるの」
エレヤは立ち上がって、もう一回、腰に手を当て、「出し抜いてやるの!」と言った。
「旅に出るって言ったって。何しに?」
夕食の席であった。
母が聞いた傍で、父はパイプをふかして聞いている。
「わがままなのは自分でも知ってる。でも、行きたいの」
「あのねぇ、エレヤ・・」
父が手で制した。
「エレヤ、お前の言ってることはよく分かる。昔からそういう子だったからな。でも、今エレヤが出て行けば、それは家出と同じ事なんだぞ。分かるな?」
エレヤは泣きそうに肯いた。
「せめて弟が産まれるまで待てないの?」
「だって・・」
「だって、何?」
「だって、・・だって、何も知らないで産まれて来て、何も知らないで死んで行くなんて、あんまりよ! あんまりだわ!」エレヤは泣き出した。
父も母も黙った。こうなるとどうにもならないことを知ってるのだ。
「行商で路銀を貯めるの。行く先々で売っては買って、売っては買ってを繰り返すの」やっと落ち着いてからエレヤは言った。
母はハーとため息を吐いて、父を見た。
「弟が産まれるまでには帰って来る。約束するから」
父は肯いた。
「で、最初の行商では何を売るんだ?」
「父さんの作った機械」
その日は買い物に出かけた。
もちろん、旅に出る支度をするためだ。
「汚れの目立たない服?」母からそう言われたので、もらったお金を握り締めてあちこち回った。
煙草色のヘリンボーンのジャケット。
シナモン色のズボン。
どっちも少しだぶだぶ。
ボンサック。
着古した白いシャツを何枚かとサスペンダー。
「靴は?」
「履き慣れた靴の方がいいから・・」
「そんなズックで・・」
父と一緒にモカシンを買いに行った。
「靴だ! 旅の靴だ!」
アンクルまでのモカシン。
父さんが時々使うお祖父さんのハンチング。
姿見に映してみた。
ポニーテールが決まってる。
「たくさん作ってよ。うーんとお金になりそうなやつ」
「エレヤ、いつからそんな商人になった」
父さんのラボはいつもいい匂いがする。
「どうやって使うの?」
「ほら、こうすれば。懐中電灯だ」
趣味で作ったあれこれを麻袋に詰めた。
「ちゃんと売ってくるからね。父さんの機械なら安心だ」
「もっぺん、確認するぞ。危ない所には行かない、知らない人にはついていかない、困ったらすぐに帰ってくること。いいな?」
「耳にタコができたわ」
旅立ちの前夜。
「お腹大っきくなってないみたいだけど」
「これから大きくなるんだよ。・・お父さんに何か言ったら?」
「うん」
父は横になって愛用のパイプではなく煙草をフカしていた。
「父さん」
「ん?」
「・・ううん。何でもない」
エレヤは自分の部屋に入った。
弟ができたら二段ベッドかな。
「どっから持って来たの?」
「母さんのへそくりだよ」
「半分でいいよ」
「全部持って行きな。用心に越したことはないよ」
「十倍にして返すね」
「父さんの機械がそんなに売れるはずないよ」
「あっ、ひどいんだ」
エレヤと母は笑い合った。
「土産話、楽しみにしてる」
「体、大事にね」
「エレヤもだよ」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」父も母も玄関先まで見送りに出た。
いつまでも手を振っていた。
エレヤは空を見上げため息を吐いた。
ソラフルハハがすぐそこまで来ていた。
「リザ!」
「やっぱり行くんだ」
「・・うん」
「荷物になるから、何もあげないよ」
リザは私の手を握った。
「私、行かないよ。怖いもん」
リザは笑った。
「エレヤだったら大丈夫だよ」
リザの手がいつもより冷たかった。
「心配しないで。リザ」
リザと抱擁を交わした。
リザが背中を押した。
エレヤは振り返り、肯いた。
ボンサックを肩から提げて、街を出た。
アルコットフィードとは逆方向に歩いていた。
ペイハーズという街があるはずだから、とりあえずそこへ行こう。
ムスクのヒンクがどこにいるのかも分からないのだから、大きな街を探して歩いていくしかない。
それでなんとかなるんじゃないかな。
白い月。
どこからでも月が見える。
日が照ってる。
ソラフルハハはピーバーの方に止まったきりだ。
私も急がなきゃ。
エレヤは足を早めた。
だんだん道なりに街が見えてきた。
ペイハーズだ。
垢抜けた街。
確か領主の名前をとってペイハーズだ。
「わー」思わずエレヤは走り出した。
目の前に槍が下ろされた。
「わっ」
見ると、掘っ立て小屋の中からおじさんが覗いている。
「何すんのよ」
「お嬢ちゃん、こっから先は通せない。見てみな、貴族さん方が集まってるんだ。二、三日はよそ者は入れないんだ」
「何しに?」
「さあな、俺は知らない。ただの雇われだからな」
「ちょっと待ってよ。ここ通れなければどこへも行けないじゃない」
「山を越えていったらいいんじゃないか?」
エレヤはむっつりとした。
「とにかく、ここは通せない」
いいこと考えついた。
「ねえ、おじさん。お腹空いてない? 私もうペコペコだ」
「そうだな。もう昼だからな」おじさんはチラリと腕時計を見た。
「ね? 私、朝から何も食べてない」
「俺だって同じだよ」
「じゃあさ、私が奢るから、あそこで何か食べよう」エレヤは近くに見える街の中の食堂を指差した。
「いや、それはいけねえ。街に入ることになるじゃねえか」
「せめて何か食べさせてよ。見て分かるでしょ? 私、旅してるんだ」
おじさんは黙り込んだ。
「しょうがねえなあ」おじさんは槍を立て、立ち上がった。
「賑やかだねえー」
馬車や華やかな装いをしている人が街を歩いている。
「おい、よそ見するな。変に思われるぞ」
おじさんと食堂に入った。
「らっしゃい」
「何にする?」
「何でも頼んでもいいのか? そうだなあー・・」
「ちょっと私の頼んで来るね」
エレヤはそのまま逃げ出した。
「無銭飲食?」
「まあ、野蛮ねえ」
エレヤは身を潜めていた。
「こっちにも女の子が一人いるはずだ」
「手分けして探そう」
「いたぞ!」
えっ?
エレヤは顔を出した。
「見つけた!」
エレヤは駆け出した。
馬車に飛び乗った。
「どこだ?」
豪華な装飾。
父さんの方が偉いんだからね。
エレヤは麻袋を撫でた。
いきなり、馬車が動き出した。
「誰か、止めて! 止めて! 止めて!」
馬車は暴走して、人々が逃げて行く。
エレヤは放り出された。
エレヤは領主のお館に連れて来られていた。
「話を聞いて!」
「おとなしくしろ!」
「よりによって、侯爵の馬車に盗みに入るとは、」
「私は何も盗んでやしない!」
「食べ逃げだって、」
「私は何も食べてない!」
「お止しなさい! 何事です」
「お嬢様・・」兵士二人は敬礼をした。
私と変わらないくらいの女の子が階段を下りてくる。
「その者は?」
「はっ。無銭飲食と盗みの咎で連れて参りました」
「本人は否定しているではないか」
「しかし、怪しいものです」
「声からすると、私と同じ少女ではないか」
兵士は俯き黙った。
「もう、よい。下がってよい」
「はっ」
エレヤ一人が残された。
「あのー・・」
その白い瞳は動かない。
この子、見えないんだ。
「名前は?」
「エレヤ」
「私はロッシーナ。連いて来て」
至る所に張り巡らされている手すりにつかまり、ロッシーナは歩く。
長い廊下。
事情を知ったロッシーナは大笑いした。
ロッシーナの部屋に着くと、大きな天蓋で覆われたベッドにロッシーナは腰を下ろした。
「今度は私の番ね」
ロッシーナはふとため息を吐いた。
「何でこんなに貴族たちが集まって、あなたが入れないようになってたかってことだけど・・」ロッシーナはまたため息を吐いた。
「私の結婚相手を探すため・・」
ロッシーナはため息を吐いて、「みんなウソばっかり」と呟いた。
「早すぎない?」
「そういうものなのよ。特に私はね。私のことを思ってのことなのよ」
「そんな・・」
「ねえ、ソラフルハハってどんな色してるの?」
「水色」って言っても分かんないか。
「・・きれいな色?」
「うん。空と同じ」
「私、見たことないんだ。ソラフルハハって見えたらラッキーなんでしょ? 私、だからツイてないんだ」
「そんな事ないよ、一緒に見に行こう」
「え?」
「一緒に旅しよう」
「エレヤ・・」
ロッシーナは首を振った。
「足手まといになるだけだもん」
エレヤはロッシーナの手を取って、立ち上がらせた。
「あきらめないで」
「ねえ、ソラフルハハのこともっと教えて」
「えーとねえ、目もあって、口もあって、・・大きなツチノコみたい」
「お腹が平たい蛇のことよね?」
「そう。雲みたいに空を流れてるの」
「雲とは違うわ。匂いで分かるの」
「ほら、私よりロッシーナが知ってる事があったじゃない!」
「許してくれるかしら」ロッシーナは俯いた。
「まずは形から入れよ。旅の支度をしよう」
「ねえ、まだ?」
「もうコルセットもしなくていいのね」
コルセットが布の陰から放り出された。
仕切りから出て来たロッシーナは褪めた藍色のふくらはぎまでのコートを着ていた。
「変わった織り物ね」エレヤは触ってみた。
「デニムっていうの。とっても丈夫で、着易いの」と言って、ロッシーナはクルクルと回ってみせた。
「冒険に行くのにぴったりでしょ?」
「後は鞄ね」
「持っているじゃない」
「え?」
ロッシーナはテディベア柄の小ぶりなトートバッグを手に持っていた。
「可愛いんでしょ?」
「お弁当でも持って行くつもり!?」
「私これしか持って行かない」
「お買い物に行くんじゃないのよ」
「お気に入りなの」
ロッシーナは鼻歌を歌い始めた。
「あと、これ、適当なところに付けて」ロッシーナは服の胸を引っ張った。
エレヤは渡された瑪瑙のカメオのブローチをロッシーナの胸に付けた。
「これ、お母様からいただいたの。私の亡くなったお祖母様の横顔なんだって」ロッシーナはカメオを指の腹で撫でた。
夕食の席。エレヤもお呼ばれしていた。
ロッシーナの服と話を聞いて、ペイハーズ一家に見られ、気まずい沈黙の中にいた。
ロッシーナが泣き出した。
「ペイハーズの名に恥じぬよう・・」
エレヤはステーキを切り分け続けていた。
「思い詰めなくても、結婚話が嫌なら、そうと言ってくれれば・・」
ロッシーナは首を振り続けた。
「友達が、できたから」
エレヤもフォークとナイフを置いた。
「何のお役にも立てません」
ロッシーナの父も母も兄も肯くしかなかった。
あくる日の朝。
「お付きもなしで外に出るなんて生まれて初めてかも」
ロッシーナは大きく伸びをした。手には赤と白の縞々模様のステッキを握っていた。
森の道に入る。
ここからは道が悪い。
エレヤはロッシーナの手をギュッと握った。
「家出? お父様がそう言ったの?」
「うん。私もそう思ってる」
「お父様は何してる人?」
「エンジニア」
「そういえば、オイルの匂いがする」
エレヤは自分の服をクンクンと嗅いだ。
「廃油の匂いよ。嫌んなっちゃう」
「エレヤ」
「ん?」
「ありがとう」
「何が?」
「私、諦めるとこだった」
「一緒に歩こうか」
「うん。どこへ行こう」
「まずはバージエを目指す。あそこなら大きな街だから何か分かるかも」
木の根が階段のように続いていた。
森を抜けると教会があった。
「ちょっと休んでく?」
「うん」
長い椅子に座る。
祭壇には何も祀られていない。
「無人ねえー」
「寂しい所ね」
地図があった。
「何て読むのかなあ、エルキー? もうすぐ海だからそこが港みたい」
「そういえば潮の香りがするような」
「じゃあ、それを目印に進もう。案内はロッシーナよ」
「任せて。地図も忘れないでね」
汚ない港。
魚の死骸。
波止場。
「ねえ、おじさん。バージエに行きたいんだけどねえ」
「あー? おいら耳が悪いからそんな小さな声じゃ聞こえないよ」
「ねえ! おじさん! 私達、バージエに行きたいんだけどねえ!」
「バージエ? とっとと行きな! あの五番目の舟だ!」
桟橋は乱食い歯の様に入り乱れていて、どこが五番目なのか分からない。
「私達の乗る船はどこから?」尋ね歩いた。
やっと辿り着いた桟橋は、はしけが一隻泊まってるだけ。はしけにはもう誰かが座っていた。
「こんな小さな舟で・・?」
「ねえ、誰か居る?」
はしけに座っていた少女は私達を見て立ち上がった。
「うん。どうして?」
「獣臭い」
見ると、その少女はもこもこの毛むくじゃらのローブを頭からすっぽりと被っている。
ずんぐりむっくりでぬいぐるみみたいなその子が近づいて来る。
「熊の毛皮よ。これは熊の牙のペンダント」その子が言った。
「暑くないの?」
「私はシンディ。私はあなたたちのこと知ってるのよ」
「誰?」
シンディは二人を見比べて、「ペイハーズさんに、・・ピーバーさんね?」と微笑んだ。
「連れてってくれる?」
「私はエレヤよ」
「私はペイハーズだけど、ロッシーナよ」
「じゃあ、これからはそう呼ぶわ」ニコッとシンディは笑った。
「おい! 舟が出るぞ」エレヤとロッシーナは船員にはしけに押し込まれた。
シンディは舟が出た後もニコニコしていた。
「ねえ、どうして私達のこと知ってたの?」
「占いよ」
「ねえ、シンディって幾つ? 私達の半分くらいしかないんじゃない?」ロッシーナがステッキをシンディの頭に当てて言う。
「失礼ね。私もう14よ。あなたたちと同い年なんだから」
驚くエレヤ達をよそに、シンディは「まあ、まだ半人前だけどね」と一人言を言った。
「半頭身の間違いでしょ」エレヤもロッシーナも笑った。
「失礼しちゃうわ。全く」シンディはふてくされた。
「ところで、シンディはバージエに何しに行くの?」
「バージエに行くんじゃないわよ。あなたたちと一緒に旅をするのよ」
「え? じゃあ、シンディもムスクのヒンクを探しに?」
「ムスクのヒンク? 何それ?」
「頭一個分くらい違う」ロッシーナがまだ笑っている。
「私達のこと待っててくれたの?」
「そうよ。ずっとよ。もう待ちくたびれたわ」
「気が合いそうね、私達」ロッシーナが二人にくっついた。
海の上に人だかりができていた。
「先に行った舟だな。引き返してくるぞ」
「海賊だ! 危ないぞ!」
「大変!」
「こっちは女の子三人だ。襲われやしないよ」
盗られるものはない。
エレヤとロッシーナは少しのお金、シンディは鞄も何も持ってない、手ぶらだ。
目と鼻の先で水柱が立った。
大砲だ。
はしけが揺れる。
「そこの舟、止まりな!」
大きな船が近づいて来ていた。
女の人の声だ。
「バレルだ・・。悪いが、俺は逃げるぜ」船員が泳いでいった。
プカプカ浮かぶはしけに女の子が三人。
オロオロしてる内に海賊に乗っ取られ、船に乗せられた。
「お頭、ガキが三人です」
お頭と呼ばれた女は赤毛をかき上げ、笑った。
「有り金出しな。バージエに行く奴らは金持ってるからね」
持ってない、持ってない。
「私も女だからね。女、子供だろうと容赦しないよ。三歳から海賊さ」
三人は有り金を出した。
「あんたの顔、一生忘れないから」ロッシーナが金を取り上げた男に言った。
「へっ、そら勇ましいや」
「トヅ、止めときな」
「へい」
「なかなか度胸が据わってるじゃないか。何て名だい?」
「ロッシーナ」
「私はエレヤ」
「私はシンディよ」
「私はバレル。ついでにバージエまで連れてってやるよ。大体、あんな舟でバーズ海を渡るなんてどだい無理な話さ。バーズ海は海賊の根城だよ? これは運賃としてもらっといてやる」バレルは巻き上げた金を数えてトヅに渡した。
「これだけは譲れないから」エレヤは機械の入った麻袋を抱いた。
バレルは麻袋の中を覗いた。
「そんなガラクタいらないよ」
「父さんが作ったのに・・」
「へー、これ折り畳めんのかい」バレルはロッシーナのステッキを短くしたり伸ばしたりしていた。
洋上。
シンディは双眼鏡で遊んでいた。
エレヤはじっとバレル達の作った世界地図を眺めていた。
まだ空白が多い。
ピーバーさえ載っていない。
「人生も船も風次第さ。けどな、風の吹くままじゃいけねえ、ちゃんと舵を取らなきゃな」トヅが横で言っていたが、エレヤは聞いていなかった。
「ねえ、ムスクのヒンクってどこにいるか知ってる?」
「ムスクの何?」
「いいわ」
世界地図はエレヤの家にあったのとも、キロクから聞いたのとも違う。
世界って人それぞれあるんだわ。
きっと、本当の世界って、もっと、もっと・・。
それは悲しみにも似ていた。
何も知らない自分が悲しかった。
ソラフルハハが遠くに見えた。
どこから来て、どこまで行くの。
わがままなのは、自分だけじゃない。
エレヤは靴紐を締め直した。
運命より早く旅に出てしまったみたいだ。
「見なよ。あれがバージエだ。大きな港だろ」
開けた街が見えてきた。
「これで浮かんでりゃあ、誰かが引き揚げてくれるさ。私らが寄港するわけにはいかないからね」
バレルは大きな浮き輪のようなものを取り出した。
「待って。この子は置いてってもらうよ」
バレルにロッシーナが捕まえられた。
「ロッシーナ!」
「海賊に育てる。この子なら立派な海賊になれるよ」
「それも、いいかも」
「ロッシーナ!」
「欲しいものは手に入れる。腕ずくでも。海賊稼業は楽しいよ」
「妖精の(ー)物語」
後ろからシンディの声がした。
「シンディ?」
後ろを見やると、シンディは不思議な光に包まれて蝶のような翅が生えていた。
シンディが目を開くと、海賊たちが右往左往し始めた。
バレルの手からロッシーナが離れる。
「グルグル回れ。いつも何にも決められない男の子みたいに、グルグル回れ」シンディが唱えた。
海賊たちが目を回して倒れ込んだ。
「ロッシーナ、今のうちに」エレヤはロッシーナの手を掴み、浮き輪を持って海に飛び込んだ。
「何が起こったの?」
「分からない。シンディが来ない。ロッシーナ、しっかりつかまってて」ロッシーナを浮き輪に置いて、エレヤは縄梯子を上った。
シンディはまだそこにいた。
気を失っている海賊たちの前でまだ何やらブツブツ笑いながら唱えていた。
「シンディ、しっかりして!」シンディの手も引っ掴み、走った。
「あなた、魔法が使えるの!?」走りながら聞いても、シンディは何も答えず陶酔しているようだ。
「自分の魔法に酔ってる場合じゃないでしょ!」
今度はシンディを抱いて、海に飛び込んだ。
浮き輪にしがみついて、必死でバタ足をした。
「私はまだ魔法使いとして半人前なのよ。私たちウィザードはある年齢になると一人旅をすることになるの。私はまだその途中」
途中で助けてもらった船に曳航してもらっていた。
「本当にいたんだ、魔法使い」
「魔法ってどうやって使うの?」ロッシーナが聞いた。
シンディは首を振った。
「私にも分かんない。反省するわ。むやみやたらと人に見せちゃいけないのに」
「魔法に酔ってた方が問題でしょ」
バージエに着いた。
「でっかーい!」
「街の香り。いい匂い」
「カモメって意外と大っきいのね」
濡れた服を海のトイレでしぼった。
「で、これからどうするの?」
「忘れてるの? お金、巻き上げられちゃったし、これを売らなきゃ」エレヤは麻袋をポンと叩いた。
「そうね。今日泊まる所もないし・・」
「しっかり稼いでね。私はロッシーナとその辺、観光して来るから」シンディとロッシーナがどっか行った。
エレヤはおもむろに橋の上で麻袋を開け、機械を並べた。
「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい」
ソラフルハハが来ていた。
「本日の目玉!」
「この機械、どうやって使うの?」
「さあ・・?」
「使い方も分からない物売るんじゃないよ」
「ビノ200、ビノ100でどう? ね?」
「もってけドロボー!!」
「どう?」シンディとロッシーナが来た。日暮れであった。
「商売上がったりよ」エレヤはお手上げのポーズをした。
「お開きね」
「なくなってるじゃない」
「ビノ500にもならなかった・・」
「私、野宿なんか嫌よ」
「これじゃあ、せいぜい二人分よ」
「シンディ、野宿とか慣れてそう」
「ズルしないでよ。こんな街中で野宿なんて私だって恥ずかしいわ」
「ソラフルハハの匂いがする」
「どんな匂いなの?」
「雨に似てるわ。でもちょっと違う」
「ねえ」シンディが手招きする。
壁にポスターやら何やらが貼り付けてある。
「賞金だって!」
「あっ、バレルも賞金首だ」
「惜しいことしたね」
「あっ、ねえ、この人なんてどう? ポーロ。伝説の探検家、だって! この人なら何か知ってるんじゃない? ムスクのヒンクのこととかも。捕まえたら賞金にもなるし」
「第一、どうやって捕まえるのよ?」
「それは、そこ、シンディの魔法でさあ、」
「魔法だって万能じゃないのよ」
「それしか方法がないじゃない」
「ロッシーナってわがままね。一人じゃどこにも行けないくせに」
「あっ、言ったわね。このちんちくりん」
「どっちもどっちでしょ! ケンカは止そうよ」
「とんがり目!」
ロッシーナもシンディも、ツンとしていた。
「家具のない部屋を紹介しようか」見ると、白髪の少年がいた。
「何? 坊や」
「ううん。いいんだ」少年は駆けていって、人混みに紛れた。
「まっちろけ」
「聞こえるよ」
「ともかく、出来ることから始めよう」
「出来ないことはないけど・・」
「ホント?」
「その人の持ち物があれば、何とか・・」
「伝説の探検家なんでしょ? そんなに簡単に見つかるかなあ」