夫の心の声が姉の名前を呼びました
ある日、パン屋で働く私が店内の棚に焼きたてのパンを並べていると、熊と見紛うような大きな図体をした兵士がズンズン近づいて来て、すぐ目の前に立った。
「ジェシカ! 俺と結婚してくれ!」
は? 結婚? っていうかアンタ誰? なぜ私の名前を知ってるの?
「お断りします。知らない人と結婚する趣味は無いので」
「……嘘だろう……断られるなんて想定してなかった……」
男の顔から一切の表情が消え、棒立ちになっている。
断られる想定してなかったって、よっぽど自分に自信があるのか、私のことを口説けばすぐに落ちる簡単な女だと馬鹿にしてるかのどちらかね。
脱力してふた回りは小さくなった背中を、営業の邪魔だと強制的に店から追い出したのに、次の日もしれっと現れやがった。懲りない男だ。
「俺の名前はマックス・サムソンだ。自己紹介はしたぞ。これでもう俺たちは知り合いだから結婚してくれるんだろう?」
「名前を知ったくらいで結婚しなきゃいけないのなら、100人の知り合いの男と結婚しなきゃならないわ。アンタの順番は一番最後よ」
男──マックスの口元が不機嫌そうに引き結ばれる。
怒ったかな? と思いきや、彼は至極真面目な顔で言ってのけた。
「では、これから毎日ここに通って俺のことを知ってもらおう。それで結婚の優先順位は上がるのだな」
「まぁ、そういう事になるかしらね」
「また明日来る」
彼は店で大量のパンを購入し、私から紙袋を受け取ると片腕に抱えて店を出て行った。
変な人ね。
マックスと以前に出会った記憶は全く無かった。
私の名前なら街の人に聞けばすぐ分かったんだろうけど、よく知りもしない女に出会い頭に結婚を申し込むなんて、頭どうかしてる。
更に不可解なのは、彼の言葉に強い思いを感じる事だ。
私にはギフトがある。
と言っても、平民の私の能力なんて全然大したモノでは無いのだけれど。
貴族の中には怪我や病気を治したり、一瞬で離れた場所に移動したり、邪悪な魔物を退けたり、そんな素晴らしい特別な能力を神から贈られた人たちがいるのだという。
逆にいえば、そういう類稀なお方が生まれる家系だからこその貴族なのだろう。
平民の中に時々生まれるギフト持ちは、人よりちょっとだけジャンケンが強いとか、翌日雨が降るかどうか分かるとか、落とし物を拾いやすいとか、持っていたら少しは嬉しいけれど持ってなくても別に困らない、そんなビミョーな能力だ。
私が持っているのは、他人の心の声が聞こえるギフト。
それだけ聞いたらいかにも特別な能力っぽいけど、聞こえるのが『強く心に思い浮かべた言葉だけ』の限定だから実用性が低い。
人は、本当に強く心に思い浮かべた言葉は大抵口にも出している。
友達と遊んでいる時に《楽しい〜》と強く思ったとしたら、当然笑いながら「楽しい〜」と口にしている。
久しぶりに訪れた場所で《懐かしいわ》と強く思ったとしたら、「懐かしいわ」と思わず呟いている。
果たして私の耳に届くのは、心と口、両方から出た同じ音色のユニゾン。
二重に聞こえるそれらは、心から強く思って言ったかどうかの判別がつく、という利点しかない。
マックスの求婚の言葉は、私にはユニゾンで聞こえた。
戯れや、ふとした思い付きで口から出た言葉はそうはならない。
自分で言うのも何だけど私は結構美人だし、人気店の看板娘だから男性にデートに誘われることはしょっちゅうでモテモテだ。
しかし、軽薄で浮ついている彼等から、私を思い遣るような温かい心の声が聞こえたことは唯の一度も無かった。
マックスは宣言通りに毎日通い、パンを買っていくようになった。
「俺は城詰めの警備兵だ。ジェシカとの結婚生活の為に、給金の大部分を貯金にまわしている」
「収入が安定してる仕事だし、堅実なのは美点よ。順位が1つ繰り上がって99番目」
「この店に通う為に仕事仲間に協力してもらって、休憩時間を調節している。購入したパンは礼として皆に配っている」
「良い同僚に恵まれた働きやすい職場なのね。心遣いも出来ててポイント高いわ。98番目」
「子供たちを愛情を持って叱り飛ばす、男前なジェシカが好きだ!」
「??? 何それ全く覚えが無いわ、誰かと間違えてるんじゃないの? 2つ順位を落として100番目のやり直し」
彼は限られた休憩時間内に走って店にやって来て、息を弾ませながらひと言ふた言会話して、心持ち上気した満足気な顔をして帰って行く。
その様子は街の沢山の人々に目撃されており、私は頻繁に冷やかしを受けた。
「あの熊男、どどどーって地響きしそうな勢いで駆けて来るのよ。一瞬でも早く店に着きたいみたい」
「途中で花売りの子供を見かけて、照れながら一輪買ってたよ。ジェシカの髪に挿してるそれって、いつもあの人から貰ってるんでしょ?」
「見た目はデカくて怖い感じだが、いい奴みたいじゃないか。早く返事してやれ」
挙句の果てには、パン屋の店主のおじさんとおばさんまで、
「結婚して子供が出来ても、無理のない範囲でウチで働いてくれると嬉しい」
なんて言い出す始末。
マックスは隙あらば執拗に求婚してきたが、その言葉は全て心の声と共に聞こえてきたから、徐々に私の彼に対する警戒心は薄れていき、気持ちが彼に傾いていくのに気づいた。
そうして、とうとう結婚の優先順位が1番になった時。
「やったーっ! 1番になったぞ! ジェシカ結婚してくれるんだよな」
「まだよ。1番になったからって、すぐに結婚するわけじゃあないわ」
「…………まだなのか……」
がっくりと項垂れるマックス。
分かり易過ぎる落ち込み具合に、私の口元に思わず笑みが浮かぶ。
「……このままジェシカが結婚を受け入れてくれないかもと想像して、実は毎日打ちのめされている」
「ふふっ。先ずはお付き合いからよマックス。私たち店の外でも会いましょう。デートしてくれる?」
「デ、デート……」
ぶわっと顔面を赤く染め上げ、目線をあちこちに彷徨わせるその挙動に、求婚は真顔でしてきたクセに、とまた笑ってしまった。
マックスの仕事休みに私の休みを合わせて、一緒にピクニックに行ったり、買い物したり、お互いの話を沢山した。
ある時、私は2年前に亡くなった大好きだった姉の話をした。
流行病であっけなく亡くなってしまったから、今でも死んだなんて信じられなくて会いたくて泣いてしまう事があると。
彼は壊れ物を扱う様にそっと私の手を握って、「大切な家族を亡くす悲しみは分かる。辛かったな」と悲しみに寄り添ってくれた。
「あなたも家族を亡くしたことがあるの?」
「ああ。幼い頃に火事で両親と兄弟をいっぺんに喪った」
「そんな……。それじゃあその後は……」
「知り合いのいろんな家を転々とした。殴られたり、飯を貰えなかったりは日常茶飯事だったな」
なんでもないことのように彼は言う。
「ごめんなさい。私……」
「いや、過ぎたことだ。当時は辛かったのかもしれないが、いつか温かい家庭を──大切な居場所を作る事を、心の支えに生きてきた。ようやくジェシカと出会えて、その夢も叶いそうだしな」
これが決定打だった。
この不器用で優しい人を幸せにしてあげよう。
彼の悲しい過去ごと全部包み込んであげられるような、安らげる家庭を私が作ってあげよう。
もしも今、私と同じギフトを持った人間がここにいたら、私の2つの声を同時に聞いただろう。
「マックス、私をあなたのお嫁さんにしてちょうだい!」
私たちは大勢の人たちに祝福され結婚した。
街の人たちは私たちのことをやきもきしながら見守っていてくれたそうで、街の人気者のジェシカを絶対に泣かすなよと何度もマックスに念押しした。
彼は男泣きに泣いて、街の子供たちに「泣き虫おじさん」と笑われていた。
結婚後も引き続きパン屋で働きながら、あれこれと夫の世話を焼いて力のつく美味しい食事を作り、夜は抱き合って眠った。私たちは、それはそれは仲睦まじく暮らした。
だから夕食後の団欒の時間にその声を聞いた時、私は意味が分からずに固まってしまった。
《会いたい》
マックスの声色で聞こえたその音を、最初は心の声ではなく口から出たものだと思ってしまった。
「えっ? マックス、今何か言った?」
「別に、何も言ってないが」
「そう。……じゃあ空耳ね」
疲れてるのかな。
そう思おうとして、お茶を入れ直すために立ち上がりかけたその時。
《ハンナ……君に会いたい》
今度ははっきりとマックスの心の声が聞こえた。……聞こえてしまった。
ハンナ。
それは亡くなった姉の名前だった。
夫は浮気をしているのだろうか。
姉と偶然にも同じ名前の女と付き合っていて、私とお茶を飲んで歓談している時に急に会いたくなってしまった。……ちょっと無理がある気がする。
それよりも、最初からハンナの妹である私に、分かっていて近づいたと考えた方が自然だ。
私とハンナの見た目は似ていると人からよく言われる。
マックスは姉の恋人だったのか、少なくとも懸想していて、姉亡き後に姉の面影を求めて私に近づいて求婚した。
そういえば最初出会った時に私の名前を知っていたし、迷う事なく真っ直ぐこちらに向かって歩いて来たっけ。
なんだ。
なあんだ。
私はてっきり、マックスに心から愛されているのかと思ってしまったじゃない。
私のギフトは『強く心に思い浮かべた言葉だけ』聞こえるんだった。
その対象が私じゃなくても──例えハンナでも、強く想ってさえいれば私の耳には届くのね。
だったら。
最初からそう言ってくれれば良かったのに。
マックスの、ハンナへの想いを最初から知っていたら、喪った彼女を偲びながら、もう同じ時間を過ごせない事を共に悲しみながら、私たちは長く良い友達でいられたのだ。
私はもう取り返しが付かないくらい、彼を愛してしまっていた。
マックスにハンナのことを言い出せないまま日数だけを重ねて、酷い貧血を起こした事から月のものが無いことに気づき、ようやく妊娠した事実を知った。
どうしよう。身籠ったなんて言えない……。
マックスは自分の家族を切望していたから、多分喜んでくれるだろう。
でももしかしたら、姉の代わりである私との子供なんて、少しも嬉しくないのかも。
……うじうじ考え込んでいたら、言えないことが2つに増えてしまったじゃない。
1日が終わり、ベッドで眠るマックスの隣に潜り込んで無理矢理目を閉じる。でも寝られる気がしない。
このままじゃいけない。明日こそは妊娠したと彼に言わなくては。
決意を固めて、眠るために意識的に呼吸をゆっくりにする。
吸って、吐いて、吸って吐く。
すると、また心の声が聞こえてしまった。
《愛してる。ポール》
は? ポール? ポールって誰よ!
妊娠の所為で感情が不安定な私は頭に血がのぼり、一気に沸点まで達してしまった。
気づけば固く握りしめた拳で、マックスの顎を殴りつけ──逆に自分の手を痛めてしまって目尻に涙が浮かんた。
「くぅぅ〜〜〜〜〜〜っ!!!」
「大丈夫かっ!? ジェシカっっ!!!」
目が覚めるや否や、ガバリと体を起こして、私を抱きかかえるマックス。
心配してる場合じゃないって! アンタ今私に殴られたんだよっ!
「ポールって誰?」
自分でも吃驚するくらい冷たい声が出た。
「……ポールって……俺が寝言で言ったのか?」
しまった、という顔をして慌てて口を手で押さえる夫を見たら、更に怒りが込み上げてきた。
「ポールってどう考えても男の名前だよね。ハンナの事だけでもこっちはいっぱいいっぱいなのに、愛してるってどういう事よ」
「あ……愛?! ……ハンナのことも俺が?」
「言ってたわよ」
「ち、違う! ジェシカ、俺は……」
「もういい。私は出て行くから」
ベッドの下から引っ張り出した大きなバッグに、自分の服を次々と放り込む。
涙がこぼれ落ちるのは悲しいからじゃなく、殴った手が痛いから──そういうことにしておく。
「待ってくれ!! 違うんだ、彼らとはキミが思っているような関係じゃない!」
「へえ、そうなんだ。でも私には、もうそれ知る必要ないから」
バッグを抱え上げてドアを開けようとすると、回り込まれて行く手を塞がれる。
「どいてよ」
「聞いてくれ! 彼らは…………俺たちの子供なんだ!!」
……は? 何を言ってるの?
「……信じられないかもしれないが、ハンナは俺たちの第一子で、ポールは第二子だ」
マックスにはギフトがある……のだそうだ。
彼が持っているのは、未来を夢に見るギフト。
それだけ聞いたらいかにも特別な能力っぽいけど、見るのは『寛いでいる時の自分だけ』の限定だから実用性が低い。
例えば、見られるのが未来の国の有事だったり、自分の命に関わる危機的状況だったとしたら、回避したり役立てる事が出来ようものだが、未来の自分自身が延々とリラックスしている場面を夢に見るだけだから、私に負けず劣らずのショボい能力だ。
「……でも俺はこの能力で救われた。子供の頃、天涯孤独の身の上になって、辛くてひもじくて何度も死んだ家族の後を追おうと考えた時、遠い未来に出来るであろう俺の家族がそれを止めてくれたんだ」
「それは、ハンナとポールのことね」
「ああ。ジェシカ、もちろんキミも。行動力があって明るい笑顔のキミに、俺は子供の頃からずっと恋をしてきた。あの日、通りを歩いていてパン屋の店内にキミの姿を見つけた時、『やっと俺の運命の人を見つけた』と思った。嬉しすぎて性急に事を進めすぎたからキミに警戒されてしまって……このギフトのことは絶対言わない方がいいと学んだ。……信じてくれるか」
「信じるわ。ハンナの命名はきっと私ね」
──ねえハンナ。大好きなあなたの名前を、私は自分の娘につけたのね。
「お願いだ、出て行くなんて言わないでくれ。キミとの未来をずっと夢見ていた。俺から幸せな未来を奪わないでくれ」
世界中から取り残されたような、たった1人きりの心細い夜。
温かく幸せな未来の家庭の光景は、どんなにマックスの心に希望を与えただろうか。
いつの日か巡り会う私や子供たちの名前を、何度唇に乗せて淋しさをやり過ごしてきたのだろうか。
「私はマックスの側にいるわ。だって私のここには……もうハンナがいるんだもの」
私が自分のお腹を手で示すと、途端にマックスの口から「うおぉぉうぉ」と意味不明な声が漏れ、両目から大量の涙が決壊した。お腹を気遣いながらも抱き締めてくる。
「ああっ。ジェシカ、ジェシカ、ありがとう! ハンナ! ポール! 大好きだっ、ありがとう!!」
力強いユニゾンに、私もそっと涙をこぼす────が、2つの声にはまだ続きがあった。
「ローマン、リタ、サイモン、ヴェロニカ、アルフ、コリーン! みんな、みんな、愛してるっ!!」
えっ、待って待って。それはみんな私たちの子供なの?
全員、私が産むの? すごい数だよ?
一瞬で涙は引っ込んだ。
初めての妊娠の気恥ずかしさとか、初産への不安だとか、子育ての自信の無さ、その他諸々の感情が今初めて知った情報に全て上書きされた。
……うん。わかった。
産んでやろうじゃない。育ててやろうじゃない。
孤独なマックス少年の心の隙間は、きっと、この人数じゃなければ埋められなかったのだろうから。
私は私の出来ることを、ひとつひとつこなすだけだ。
とりあえず、近所の人が怒鳴り込んでくる前に、真夜中に大音響でうぉんうぉん号泣する夫を宥めて泣き止ませよう。
そして、自分自身に最大級のエールを送ろう。
泣いたり笑ったり、マックスの言葉を借りるなら、叱り飛ばしたり。
平穏とは無縁の、賑やか過ぎる毎日を駆けずり回っているであろう将来の自分へ────。
頑張れ! 未来の私!!