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最愛ロールプレイング  作者: 伊藤ゆい
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ルラボ サンタル33

▼美桜


「自分の長所と短所を2つ書きましょう」

「頑張ったことを3つ書きましょう」

 ――一年が経ち、私は再びこのシートを前に苦しんでいた。


頑張ったことってなんだろう。中学時代は陸上部に所属していたけれど、大して頑張ったとは言えない。学校の決まりでどこかしらの部活に必ず所属しなくてはいけなかったので、仕方なく個人競技の陸上を選んだというだけだ。種目は短距離走だったけれど、足は特に早くも遅くもない。運動部のほうが文化部よりも内申点が上がりそうだったので、運動部の中でそこまできつくなさそうな部、という消去法で選んだ。陸上部はチームプレーではなくて個人競技で、バスケ部や女子野球部ほど上下関係に厳しくないし、顧問の先生にやる気がなくて、練習もほどほどだと聞いていた。実際、多少さぼっても、先生には何も言われなかった。

後輩の中には、高跳びで関東大会にまで進む子もいたけれど、私は地区大会の予選ですら決勝までいけなかった。伸びない物は頑張っても楽しくないから、練習は適当にさぼり、3年生になってからは受験を理由に行かなくなった。頑張っただなんてとても言えない。

受験はそれなりに頑張って、大学付属の高校に入れたから、あえて書くなら受験かもしれない。ただ、早慶東大ならまだしも、そこから一ランク落ちる私の学校名は世間一般に見て誇れるものではなく、やっぱり「頑張りました」と言うには足りないんじゃないだろうか。

もう少し部活で成果を出していれば、ということが今更ながら悔やまれる。部活がその後の人生で受験に必要なことまでは想定の範囲内だったけれど、就活にまで尾をひくなんて思っていなかった。中学で部活にいい思い出が出来なかったので、高校では帰宅部だった。

あとは……一年前の記憶が蘇る。頭をふって気分を変える。

 私はペンを置き、机の上に出してあったスマホを引き寄せ、「岳と会いたいな」とラインを打った。

すぐに既読がつき「今どこ?」と連絡が来たので、今いるカフェの名前と住所を送った。

すると「ちょうどレッスンのドタキャンが入って、次のレッスンまで一時間半あいてるから、いつものとこにきてくれない?」と返事が来た。岳の働いているジムは渋谷と表参道の間で、ちょっと渋谷寄りだから、今私がいる場所から歩いて15分程度だ。

「すぐ行くね」と返事し、私は、グラスに残っていたアイスカフェ・オ・レを一気に飲み込み、会計の準備を始めた。

岳と会うのは、岳の部屋か、レッスンの合間ならジムの近くのコーヒー屋さんと決まっている。私達が一年前に出会ったお店だ。

岳はタバコを1日に1箱程度吸う。私はタバコは吸わないし、服や髪に匂いがつくから、なんなら嫌いと言ってもいいくらいだけど、岳が吸うのだけは許せる。岳がゆっくりとタバコを吸っている姿は、若くして苦労している労働者という感じがして、かっこいい。体を重ねた後に、ふいに自分の首元から岳のタバコの匂いがすることがあって、それも好き。俺の女というマークをつけられたみたい。

「いつものカフェ」に到着すると、私は席につき、アイスコーヒーを頼んだ。本当はここの名物のプリンも頼みたいところだけど我慢する。岳は今、夏に向けての体作りに力を入れているのだ。だから、毎朝、仕事が始まる1時間前にジムに到着して自分のためのトレーニングをする。そして、レッスンとレッスンの合間に、面白みのない、トリのエサのような筋肉のためだけのご飯を食べ、プロテインを飲みながら一日を過ごしている。あと数週間は、そんな味気ない生活を送らなくちゃいけない岳の前で、甘い物なんて食べられない。

 15分ほどして岳がお店に入ってきて、すぐに私を見つけて微笑んだ。にっこり笑うのではなく、照れた感じが混ざった微笑みを見て、私はすぐに、甘く優しい気持ちになる。

「ごめん、前のレッスン、みどりさんでさ。プロテインのオススメを聞かれていろいろ説明してたら、ちょっと時間かかっちゃった」

「大丈夫、全然待ってないから。私もさっき来たとこ」

岳のジムには、オーナーのツテで、モデル・タレントの卵やインスタグラマーさんがたまに来る。そういう、いわゆる「インフルエンサー」と呼ばれる人たちには、無料でレッスンを受けて貰い、代わりにSNSに投稿させることで、ジムを宣伝しているらしい。

「色んな人が来るんだけど、みんな一回か二回来て、来なくなる。体を鍛えたいんじゃなくて、インスタに『トレーニングしてる私』を投稿したいだけなんだよね。だからレッスン中に、写真をこれでもかってくらい撮るよ。インスタには、さりげない一枚みたいに載せてるけどさ、あれ、何度も撮り直してるんだぜ。顔小さくしたり、脚長くしたり、加工もしてるしね」

 私は、岳と、スタイルの良い有名人が、たとえお互いに仕事だとしても体で触れ合うことに、内心良い気持ちはしていないので、そんなふうに岳が相手をちょっとけなすのを聞くと気持ちが軽くなった。それに、インスタグラマーさんたちはみんな、数回だけ通って来なくなってしまうらしい。

「今は、トレーニングジムのPR案件ってたくさんあるからさ。無料レッスンだけじゃ、美味しくないらしいよ。この間来たインスタグラマーさんは、フォロワーが10万人くらいいるんだけど、露骨に『今後は謝礼を貰わないと投稿できません』って言われちゃった。でも、うち、PR費を払う余裕はないんだよ」

そんな中でみどりさんはジムを気に入って、ちゃんと通ってくれているらしく、レッスン料も正規で支払ってくれるらしい。

本をあまり読まない私は、みどりさんのことは全然知らなかったけれど、岳のジムのインスタグラムに写真が何度か載っているのを見て、興味が湧いて、プロフィールを調べてみたことがある。すると、意外にも同じ大学、しかも同じ学部の出身であることがわかり、親近感を持った。何の接点もない遠い存在だと思っていたのに、それだけで急に身近に思える。とはいえ、向こうは紛れもなく選ばれし人間で、在学中に文学賞を受賞し、大学を中退している。

若くして明確な実績を持ち、進路がはっきりしている人生が羨ましい。私なんて、就活目前にも関わらず、何が向いているかも、自分に何が出来るのかも、何がやりたいのかもわからないのだ。みどりさんは、きっと自分の将来に迷ったことなんて無いのだろう。強い意志がなければ、大学を中退しようなんて思わないはずだ。

「みどりさんってさ、私と同じ大学なんだよね。在学中にデビューして、中退してるけど」

「みたいだね、なんか聞いたことある」

「どういう人?」

「んー、いい意味で普通の人。有名人って感じではないかな。特別扱いを要求してこない。若いインスタグラマーの子たちと違って妙にテンションが高かったりしないから、レッスンはやりやすいけどね」

「へー。運動は嫌いって、何かのインタビューで読んだけど、なんでジムに通ってるの?」

「30歳超えたら太りやすくなったから、好きなもの食べるために、運動しようって思ったんだって。あとは、運動していたほうが、デスク作業する時も集中力が上がるって記事を読んだって言ってたかな。あ、あと赤ちゃんが欲しいとも言ってた」

「赤ちゃん?」

「うん。半年前に結婚してすぐ子供がほしかったらしいんだけど、出来ないんだって。みどりさんの友達がジムに通って体を鍛えたら出来たらしくて、私も健康な体を作りたいって前に話してた」

「へー。赤ちゃん欲しいんだ。なんか意外」

「そう? 女の人って、子供欲しいもんじゃない?」

「私は欲しいけど。みどりさんみたいに仕事をバリバリやっている人って、子供は欲しくないのかなって勝手なイメージで見てた」

「へー。美桜は、何歳くらいで欲しいの?」

「そうだなー、25歳くらいで結婚したい。それで、30手前くらいで子供が産めたらいいなぁ」

 話題が子供の話になったことを嬉しく感じた。こんな風に自然に子供の話が出来るということは、岳が、いつか結婚することを真剣に考えてくれているからだと思う。

「25歳って意外と早くね? 社会人になってすぐじゃね?」

「そうかな。岳は何歳で欲しい?子供」

「うーん、渋谷のジムが軌道に乗ったら、もう一店舗任される予定だからタイミングは難しいなぁ。でもまぁ、遅すぎないほうがいいよな。子供の立場から見たら、親は若いほうがいいだろ。授業参観とか運動会で、周りの子供に『若いな』って思わせたい」

「わかる」

「そういえば、アメフト部の先輩のところにこの間、子供生まれてさ」

 私はルールすらよく知らないけれど、岳の高校はアメフト部が強いことと、練習がつらいことで有名らしい。部員のほぼ全員がヤンキーで、部員がアメフトより先に先輩から教わるのは、喫煙と後輩の詰め方だと岳は笑っていた。アメフト部の話になると、岳はご機嫌になる。その時代の自分と、仲間のことが本当に好きなんだと思う。

岳の左耳に片方だけあいているピアスの穴は――もうほとんどふさがっているものの――合宿の時に先輩にあけられたものだという。私の地元には、ヤンキーと呼ばれる人たちはいなかったから、岳の高校時代の話を聞くといつも知らない世界を知る楽しさでワクワクするし、そういう環境でたくましく生き残ってきた岳への尊敬の念も湧く。岳は毎回レギュラー選手になるくらいには活躍していて、大学へのスポーツ推薦の話もあった。けれど、アメフト時代に徹底的にやった筋トレを極めてみたいと、卒業後の進路をスポーツジムにした。

「ほら、先輩が送ってきた写真。子供は可愛いよなぁ」

 そう言って、アメフト部のメンバーが全員入っているというライングループを見せてくれた。金髪の男性が、目のくるりとした赤ちゃんを抱いた写真が画面にあらわれる。

「ほんとだ。可愛い」

 金髪男性は、岳と同じくらい、胸筋の張った体をしている。 

「あ、そうそう」

言いながら岳は写真の隅に立つ男性を指す。

「こいつは珍しく大学に行ったんだよ」

「俺の一つ下だから美桜と同い年。もう実業団のある会社に内定もらったって言ってたよ」

「そうなんだ。強みのある人はいいね」

 私はまたあのシートのことを思い出して憂鬱になる。それなりに真面目にやってきたつもりだったけど、何の特徴もない人生。それが私の人生だ。自分が20年以上、無駄な時間を過ごしてきたような気持ちになる。


それにしても、強そうな男の人と赤ちゃんの組み合わせって、可愛い。いつか岳の子供を産んだら、岳の太い腕にしがみつく子供の写真を撮りたい。

「あ、やば、もう時間だ」

スマホの隅に表示されている時間を見た岳は「行かなくちゃ」と中腰になった。

「キャバ嬢のゆりこさん、いつも早めにくるから、ちょっと早めに出なくちゃいけないのよ。お前、今日何時まで渋谷にいるの?」

「特に決めてないけど」

「じゃあ、あと一時間半ここで待っててよ。俺、次のレッスン終わったら、また30分だけ休憩あるからさ。せっかくなら会おうよ、30分」

岳の提案はとても嬉しかった。どうせ家に帰って自室にこもっても、自己分析シートは埋まらないだろう。むしろ気分を変えたほうが良い。

「わかった。じゃあ、待ってるね」

 

岳が行ってしまうと、途端に店内のタバコの煙が気になった。この場所ではいつも、髪と服ににおいがついてしまう。

そこから、またシートと向き合う時間が始まった。私の人生、大したことが起きていない。仕方なく、何かヒントになるものはないかと、ネットで「就活 頑張ったこと」などのキーワードで検索してみる。すると、何を頑張ったかではなく、どう頑張ったかを書け、みたいな記事が山ほど出てきた。頑張ったことがなくてつまづいているというのに、どう頑張ったかを書くなんて無理でしょ、と記事につっこみをいれながらも、読んでいく。よく出てくる事例はアルバイトだけど、両親からアルバイトを禁止されていたから、全く経験が無い。高校時代に、ファーストフード店でアルバイトをしようとした時も、大学時代に塾講師の面接を受けようと思った時も、保護者欄についにサインをしてくれなかった。「お金を稼ぐのは、社会人になったらいくらでも出来るから」と諭されたのだ。あの頃大反対していた両親に「ほら、周りのみんながやっていることをやっていないと、こんな不都合が起きるのよ」と言ってやりたい。


「美桜はどういう会社に興味があるの?」

「うーん、商社とか広告とかかなぁ……」

本音を隠して答える。あの職業は岳と出会った日に諦めたから。

「なんで? 商社と広告、全然方向性違うじゃん」

「私、これといってやりたいことがないから、いろんな業界を見れる仕事がいいのかなって思って。広告はいろんなクライアントと仕事するし、商社もそうでしょう?それに広告コピー好きだし、CM見るのも嫌いじゃないから、広告は割と向いてると思う。商社は、外国に留学する制度も整ってるし。会社のお金で勉強出来るっていうのも強いよね」

 上機嫌でタバコを吸っていた岳の顔が少し険しくなった。この顔は、岳が何かきついことを言う時の顔だ。

「それって従業員っていうより観光客気分だよね。いろんな業界見たいとか言って、自分本位。仕事って観光客気分でやるものじゃないと思うけど」

 心に冷水をかけられたようだった。私は自分の浅はかさを恥じ、顔を下に向けて謝る。

「そっか、そうだよね……。岳みたいに、もう社会に出て立派に働いている人からしたら私の言ってることなんて、浮ついたことだってわかってるんだけど。イライラさせてごめんね」

 岳は辛口だけど、背筋がぴしっとすることを言ってくれる。自分がいかに甘いか思い知らせてくれて、ありがたい存在だ。こういう人が、率直に自分の態度や考えにダメ出しをしてくれることは、私の精神的成長につながるはず。

「いや、わかればいいんだけどさ。美桜のやりたいこと、もっと真剣に考えてみなよ。美桜、周りにいるやつがダメなんじゃないの?世界が狭いんだよ」

「狭い?」

「そう。俺の場合はさ、埼玉の田舎の高校だったから、クラスにいろんなやつがいたの。勉強出来るやつも、落ちこぼれのやつも、大学行くやつも、行かないで就職するやつも。家の仕事継ぐってやつもいた。女の子は、今はもう子供いるやつも、地元でキャバ嬢やってるやつもいる。まぁ、大学に行くやつが圧倒的に多かったけどさ、それ以外の選択肢がたくさんあったの。それで、クラスにいながらにして、人生っていろいろだなーって思ったんだよね。美桜はお嬢様だから、同じような環境で育ってきたやつばっかり周りにいるんだろ。高校時代の友達、全員大学行っただろ。それがダメなんだよ」

「そっか、そう言われたらそんな気がしてきた。確かに、高校は付属だったから私のクラスメイト、みんな大学に行ってる」

大学に行かないなんてことは考えたことがなかったけれど、もしもそうしたいと主張しても親が許さなかっただろう。つまりは、それが私の視野の狭さなのだ。

「私が岳みたいに視野の広さを身につけるにはどうしたらいいと思う?」

「さぁ。そういうのは方法も答えも含めて、自分でたどりつくものじゃねーの?まず、そこだと思うよ。受験エリートって、答えが明確にあるとか、答えは誰かが持ってるって思いがちだよね。でも、世の中はそうじゃない。答えはひとりひとりが自分のやり方でたどり着くものなんだってところから、美桜は勉強しなくちゃダメだと思う」

 言われてみるとそのとおりだ。私はいつも岳に「答え」の提示を求めてしまう。なんかもう、ダメダメだ。急に自分の周りだけ空気が薄くなった気がした。

黙っている岳を前にして考えていたら、小さな思いつきが頭に降ってきた。

「ねぇ、岳」

「ん?」

「みどりさんのこと、私に紹介してもらえたりしないかな?」

「は?なんで?」

 怪訝そうな顔、というより、岳は明らかに不機嫌になった。何かまずかっただろうか。私は岳の気持ちを損ねないように、慎重に言葉を選びながら一気に喋った。

「ほら、視野を広げるって意味で……。みどりさんって、うちの大学の文学部出身なんだよね。でも、在学中に出版社主催の文学賞で賞を取ってから、就職をしないでずっと本を書いたり、ラジオのパーソナリティーやったり、自由に生きてるの、かっこいいなぁって思って。そういう、自由な生き方をしてる人の話、聞いてみたい」

岳はポケットから2本目のタバコを取り出して、音を立てて机に置いた。灰皿を引き寄せ、火をつける。息苦しい沈黙で私のほうが窒息しそうになる。長く溜め込んだ後、ふっと白い煙を吐き出した岳は、やはり不機嫌そうに言う。

「いや、無理っしょ」

突き放した言い方は、さらに深く私を傷つけた。

「無理でしょって?」

「いや、だから、普通に考えて無理じゃん」

岳はそう言った後、一拍間を置いて、続けた。

「他力本願なところも、美桜の悪いところだよ。誰かに会ったり、話聞いたりしたくらいで人生って変わらないから。今、言ったとこじゃん。安易に誰かに習おうっていうのがもうダメなの。俺に頼る前に、本読んだり、映画見たり、自分から動いてみろよ」

そんな風に言われてしまうと、俯くほかは無かった。全て岳の言うとおりだったので、すでに自分の発言を後悔して引っ込めたい思いだったけれど、岳にはまだ言い足りないことがあるみたいだった。

「それに、そういう偵察みたいなこと、やめて」

「偵察って?」

「なんか浮気疑われてるみたいじゃん」

「浮気なんて疑ってないよ」

 予想外の答えに動揺して、声が揺らぐ。そんなつもりはないのに。ただ、視野を広げる方法を純粋に、自分なりに考えただけなのに。

たしかにみどりさんは「本を書く人」として私が持っていたイメージよりも華やかな見た目で、可愛らしい人だった。でも、それだけで岳を疑ってなんていない。

「ほんとに純粋に、進路に悩んでて。みどりさんみたいに、若くして自分の道を見つけた人の話を聞いてみたくて」

「みどりさんみたいな仕事がしたくて、話を聞かせてほしいというのならわかるけど、漠然と相談にのってほしいとか、話を聞いてみたいとか、甘えてるでしょ。お前がいきたいのは、商社とか広告なんでしょ?だったら、まずはそういうとこに勤めてる人の話を聞いたら?みどりさんはお前みたいなふわふわしたやつに割く時間ないよ。向こうだって忙しいんだから」

ふわふわしたやつ……。

それは自分で自分自身に感じていたことだったけれど、だからこそ他人から言われると心の奥底を刺されるようだった。ましてや、恋人に言われるなんて。

私は、「会わせて」なんて言ったことを後悔した。ついさっき、私が自己分析の話をするまでは、楽しく将来の話をしていたのに。岳はもう、先輩の子供のことを話していた時間が嘘だったかのように、冷徹な顔をしている。岳がこうやって豹変することはよくあって、それはほとんどの場合、私が岳の機嫌を損ねるようなことを言うから悪いのだけど、機嫌がいい時の岳が優しい分、ツンとしてしまうと、どうしていいかわからなくなってしまう。

今日は特に刺々しい気がする。でも、もしかしたら体作りのための睡眠不足と食事制限でイライラしているのかもしれない。

「そういうところ、美桜はほんと子供っていうかさ、学生って感じだよね。社会人の時間は、有料なんだよ。その意識を持たないで、自分は学生だから、みんなが自分に対して融通を聞かせてくれるって考え方、ほんと自分本位」

 さすがにそこまで言わなくてもと思ったけれど、そんな風に口答えしてしまうと、岳の機嫌がますます悪くなることは目に見えていた。

「ごめん、私が悪かった。もう二度と言わないから」

そうやってしょげると、岳ははっとしたような表情になり「いや、ごめん。前にお前が『密室で、女の人を触る職業は心配』なんて言ってたのを思い出して。俺って信用されてないのかなって思っちゃって」

 確かにそんなことを言ったこともあった。岳のジムに来るインフルエンサーたちが載せているトレーニングウェアは、体のラインがあらわになるようなものばかりだったから、ふと心配になったのだ。ただ、なんでその話が今唐突に出たのかはわからなかった。私は、自分のほとんど空になったコーヒーカップを見た。あと2、3口分は残っているけれど、出てきた時はあんなに香り高かったコーヒーが、もう冷たく、苦いだけの液体になってしまっている。

「そろそろ戻るわ」と言って、岳は1000円札を2枚、テーブルに置いた。私のコーヒー代も含めた額だ。

岳は私に財布を出させたことが無かった。

「このお金で、俺の分も一緒に払っておいて」

「うん、ごちそうさま」

「じゃ、またね」

岳はそう言って、頭を撫でてくれた。本当はキスして、もっと安心させてほしかったけれど、他にもお客さんがいるからしょうがない。

タバコの香りをほのかに漂わせながら、岳は去っていった。煙のような匂いの中に、夏の海を連想させるような香りがわずかに混じっている。岳が好きでよくつけている香水。日本で取り扱っているのは、銀座と代官山の二店舗しかない、といつか教えてくれた。ジムに戻ったら、タバコの匂いを消すために、香水をまたつけ直すのだろう。


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