04 決戦と終戦
4 決戦と終戦
ハサイメは軍議を開きました。
軍議に臨んだのは、第一軍団の各部隊長と第二軍団の各部隊長とハンナの計16人でした。
ハサイメはそこで、魔女軍に対して全軍あげての総攻撃案をみなに言いました。
みなハサイメの案に賛成しました。しかしオリワラは、総攻撃が長期化すると兵糧が尽きるおそれがあるとハサイメに進言しました。なにせ今は通常の約倍の兵士がシナック砦に駐屯しているのです。交代でやってきた第一軍団は、自分たちの兵糧分しか砦に持ち込んできていません。というより、初めから第一軍団と第二軍団の合同軍で魔女軍に総攻撃すると仮に考えていても、ブンディングの大地は寒さで作物の出来が少なくなっていて、シナック砦にいる兵の分の兵糧を携えて来ることなどできませんでした。
「兵糧はあとどれぐらいもちそうか?」
ハサイメはオリワラに尋ねました。
「この砦に残った兵糧とハサイメさまの軍団が持ってこられた兵糧を合わせ、あと十日が限度かと」
「そうか、十日もあるのか。いける、いけるぞ皆の者。十日もあれば、魔女軍を討伐することができるぞ。われらには聖女がついているのだ。いけるぞ。ではさっそく明日の朝、ルーティア雪原に向け出陣する。みなものよいな!」
「おおー!」
部隊長たちは拳を上にあげ決起の声を出しました。
翌朝ハサイメ軍は、わずかな守備兵をシナック砦に残し、出陣しました。
この地では積雪のため戦車や馬は使えないので、みな徒歩で進軍します。
進軍する兵たちの目には力があり、足取りは軽く、ハサイメ軍は順調にルーティア雪原に向かっていました。
その様子を、ハサイメ軍からアイスピックと呼ばれる城の女王の間で確認したのは、双子の魔女エルザとアンでした。
「なんと、やつら砦から出てきたわ」
「しかも大軍ね」
二人は、女王の間に置かれる遠見の水晶球をほほを寄せ合ってのぞき込みハサイメ軍の動きを注視していました。遠見の水晶球とは、思い描いた場所の現在の景色がその球に映し出される魔法の品でした。
「どういうことかしら? あの者たちは、ここ最近は砦に閉じこもり受け身の態勢で、わたしたちが雪原に兵を送り込んだときだけ砦の門をあけ、出兵してくるのが常だったのに、今、あいつらからうって出てきた。もうあとがないという、破れかぶれの心境の出兵なのかしら?」
姉であるエルザが首を傾げアンに尋ねました。
「そうね。もうやつらは、崖っぷちなのよ。やけくその出兵ねこれは。ハハハハハ」
「――いえ、お持ちください」
そう言ったのは、双子の魔女の弟である、ダーガルドでした。ダーガルドは魔力を持っていませんが、狡知にたけ、双子の魔女の参謀としてハサイメ軍を苦しめる作戦を立てたりしていました。
「あのハサイメが無謀ないくさを仕掛けてくるとは思えません。きゃつらの動向を注視し、油断せずにこちらも戦いに備えたほうがよろしいかと」
「そうね、たしかにあのハサイメが無謀な戦いを挑んでくるとは思えない。もしかしてきゃつら、今回の戦いで雌雄を決しようとしているのかも。だからこちらも気を引き締めてきゃつらに当たらねばならないわね」
「たしかにそうね。お姉さま、どうかしら。いつもならお遊び程度にハサイメ軍と戦っていたけど、ここできゃつらに痛恨の打撃を加えるのは。つ、ま、り、今回の戦いできゃつらを殲滅するのよ。こちらも全軍を持ってきゃつらにあたる。もちろんわたしたちも戦場に赴ききゃつらに氷の魔法を盛大にお見舞いするの」
「よし! ダーガルド、出兵の準備を! そして兵には、今回の戦いでハサイメ軍と決着をつけるという触れを出すのよ。わたしたちも魔力を駆使して死せる怪物をたくさん生成する。いいわね」
「御意」
そういうとダーガルドは兵士たちのもとへむかいました。
その後双子の魔女は言葉通り、不死の怪物の生成に取り掛かりました。魔女たちの居城アイスピック周辺は、過去に大戦があり、その大地の中には大量の戦死した人の亡骸が埋まっていました。双子の魔女はその亡骸を蘇らせ戦闘員として使用しているのです。あとはハサイメ軍の戦死した者もその場で蘇らせるという非道なこともやっていました。
魔女の軍の戦い方は、まずその不死の怪物軍団をハサイメ軍に当たらせ、その後続として人間で組織された兵士が控えるという戦法をとってきました。
しかし、毎回戦っているのは先陣の不死の怪物軍団だけで、人で組織された兵士たちは殆ど戦わず戦闘は終わっていました。
不死の怪物は動きは緩慢で戦闘員としての技術は期待できませんが、圧倒的に数が多く、なによりもう既に死んでいるので、死に対して恐怖心がなく、後退することなくハサイメ軍に襲いかかるのでハサイメは不死の怪物軍団に頭を悩ましていました。しかも今回は、双子の魔女は、より多くの不死の軍団を生成しようとしています。
ハサイメ軍の苦戦は必至ですが、そのハサイメ軍は、魔女の軍団が大群で押し寄せることなど露程も知らず、ルーティア雪原を横断中です。
「今日はここで野営を張る」
その日の夕暮れ、ハサイメは軍に命令しました。
いつもなら明日の昼過ぎには敵軍と相まみえることになります。
通常、不死の怪物は日光を好まず、彼らは夕暮れどき以降の交戦を良しとしていますが、このルーティア雪原は、日中でも厚い雲が周辺を覆っていてあたりは薄暗く、不死の怪物の行動にはなんら支障がありませんでした。
「聖女ハンナ。明日の昼頃には、魔女の軍と交戦することになると思う。そのときそなたはわたしのかたわらにいて、怪我人が出ればその者を回復させてほしい」
野営のテントの中でハサイメはハンナに言いました。
「わかりました」
「不安だと思うが、わたしがそなたを護りつつ迫る敵があれば撃退する。そなたにはかすり傷一つつけられないことをここに誓う」
この日ハサイメ軍は、ルーティア雪原のほぼ中央で野営し、明日の決戦のために体を休めました。
そして翌朝。
ハサイメ軍は、朝食を早々に摂ると野営をたたみ、魔女軍との戦いのために移動を開始しました。
昼を過ぎた頃、ハサイメ軍と魔女軍はルーティア雪原の東で対峙しました。
最初に動き出したのは魔女軍です。
皮膚が裂けている男、片目がない男、内臓が丸見えの男。魔女軍の先陣にある不死の怪物軍団で構成されている者たちは、通常なら歩くことはおろか立っていることもできません。しかし魔女の力で彼らはアイスピック城周辺の大地から深い眠りの中、強制的に復活させられ、魔女軍の先兵として戦うのです。彼らが、一応人間の体をなして動けるのには理由があり、アイスピックの城周辺の地域は夏季でも例年気温が低く、大地に眠っていた彼らの肉体は腐敗があまり進行せず保存されていたので、人間から見れば異様な姿ではありますが、兵士として働けるのでありました。
しかし今回、その不死の怪物軍団に新たな戦力が加わっています。
それは骸骨の剣士です。
元々不死の怪物軍団には骸骨の兵士はいました。しかし、新たに加わった骸骨の剣士はその名の通り手に剣を持ち盾も持っています。
彼らは今回、双子の魔女の魔力で特別に産み出された竜牙兵と呼ばれる骸骨の兵士で、素材は貴重な竜の牙で出来ており、多少の知能を持ち、剣の腕前も大国の優秀な騎士に匹敵すると言われています。数的には三十体と少数ですが、その剣技はハサイメ軍の脅威になることは必至でした。
その不死の怪物軍が竜牙兵を先頭にハサイメ軍に向けて動き始めました。
「動いたぞ」
ハサイメは不死の怪物軍の動きの様子を自軍で確認しました。
それから自軍に向かって振り返り大声で言いました。
「皆の者、いよいよ魔女の軍との対決が始まる。この戦いでわが軍は全軍を上げてかの者たちを殲滅しようとしている。よいか、我々にはもうあとがない。この一戦しかないのだ。皆には全身全霊で魔女の軍団に当たってほしい!」
「おおー!」
「今回は我々には聖女ハンナがついている。聖女の加護が我々にはあるのだ。皆の者、敵を恐れるな、進んで進んで魔女の息の根をとめるのだ。――いくぞ!」
「おおー!」
ハサイメ軍は声を一致させ、魔女の軍に向け進軍を始めました。
「ゆくぞ聖女ハンナ」
「はい」
ハンナに声かけたハサイメは、両手に持つ金の斧と銀の斧をギュッと強く握り歩き始めました。ハンナも緊張の面持ちのまま杖と盾を力強く握って歩き始めました。
ハサイメ軍は、しばらくは歩いて魔女軍に近づいていきましたが、もう間もなく敵と接触するという距離になると、まずハサイメが走り出し、ハンナも続いて走り出し、オリワラも走り、続いて全軍が走り始めました。
「おおおおおおお!」
ハサイメは雄たけびを上げました。
それに合わせ、ハサイメ軍の全員が叫びました。
両軍がついに激突しました。
「――うりゃ!」
ハサイメがこの戦いで最初の攻撃を繰り出しました。受けたのは魔女軍の先頭にいる竜牙兵です。
竜牙兵はハサイメの金の斧の一撃を盾で受けました。
「おッ!」
と驚いたのは、ハサイメでした。
まさか骸骨の兵士に自分の攻撃が容易く防がれるとは思ってもみなかったからです。
ハサイメは金の斧を引くと間髪入れず銀の斧を繰り出しました。
が、その攻撃も骸骨剣士は盾で防ぎました。
「こいつ、いつもの骸骨の兵士と様子が違う」
ハサイメは狼狽しました。
そういえばこの先頭にいる何体かは武装している、いままで不死の怪物軍で剣や盾を装備しているものなどいなかったはず、こいつら手練れか? ハサイメは心の中で呟きました。
「オリワラ、気をつけよ! 先頭にいるいくつかの骸骨兵士は、いつもの骸骨兵士とは違って、かなり技量があるぞ」
ハサイメは、少し離れた場所で戦うオリワラに言いました。
「そのようですな! この骸骨野郎、剣の扱いが巧みじゃ」
オリワラはそう言いながら、竜牙兵の攻撃を避けています。
すると突然、ハサイメが戦う竜牙兵の胴体が、光り輝く光線で貫かれました。
竜牙兵は上半身と下半身は分断され、二つともその場に倒れました。
あまりのことにハサイメは一瞬呆然とし、しかしすぐにわれに返り、光線の出先を目で手繰りました。
手繰った先にはハンナがいました。ハンナは杖の先を倒れた竜牙兵の方へ伸ばしています。
「ハンナ、そなたが今のをやったのか?」
「はい」
「おお、なんと、そなた攻撃魔法も使えるのか?」
「さあ、どうなんでしょう。さっきの力が攻撃の魔法かどうかわかりませんが、今の魔法なら連続ではできませんが、気力をためれば放つことはできます」
「そうか」
と二人が会話している間にも竜牙兵はむかってきます。
ハサイメは、自分に向かってくる竜牙兵の頭蓋骨を斧で叩き壊そうとしました。
しかし竜牙兵は、素早く盾を真上に上げハサイメの攻撃を防ぎます。
その瞬間、ハサイメはがら空きになった竜牙兵の胴体を銀の斧で真横に薙ぎ払いました。
竜牙兵は、さっきの竜牙兵と同じく胴を断たれ二つになってしましました。大地に倒れた竜牙兵はもう動きません。
「いける、いけるぞ! どんな強敵が現れようとも聖女がいるかぎり、勝利は我々の元にある!」
ハサイメは竜牙兵の実力にわずかながら動揺しましたが、回復だけでなく攻撃の魔法も使えるハンナの力を目の当たりにし、俄然闘志が湧いてきました。
この数か月、ハサイメは心身ともに疲弊していました。
元々ハサイメは、森の樹々を切ってそれを町で売って生計を立てている木こりでした。妻子がおり、木をいくら切っても生活は潤わず、いわゆる貧乏でした。
そんなある日、いつものように木を切るため森に入り、いつも切っている流れが激しい川のほとりで作業していると、振りかぶった拍子に手が滑ってしまい、鉄の斧を後方にある川に誤って放り投げてしまいました。鉄の斧は川の中へ消えました。
ハサイメは川に落とした鉄の斧しか持っていませんでした。しかも彼は貧乏で代わりの斧を買うお金もありませんでした。商売道具を失ったハサイメが頭を抱えて途方に暮れていると、ハサイメがいるすぐそばの水面が突然光り輝き始めました。ハサイメがそのまま水面を見ていると、彼の見ている水面の流れが緩やかになりやがて流れが止まり、静止した水面の中から白い衣を纏った女の人が現れました。白い衣を纏った女性は光輝く斧を手にしていました。
ハサイメは、突然川から女の人が出てきた非常識に、その現実を飲み込めず呆然とたちつくしています。
「わたしはこの川に棲む水の精霊です。今あなたは、この金の斧を川に落としましたか?」
水の精霊と名乗る女性は、ハサイメに尋ねてきました。
「金の斧? いいえ、わたしは金の斧を川に落としていません」
「そうですか」
そう言うと精霊は川へと沈んでいきました。ハサイメは、精霊が消えた水面をただただ見続けます。しかしすぐにまたハサイメの目の前に精霊は現れました。精霊の手には銀の斧が握られています。
「では、この銀の斧を川に落としましたか?」
「いいえ、わたしは銀の斧は落としていません」
「そうですか」
そういうと精霊は、また川の底へと消えていきました。しかしすぐにまた浮上してきました。精霊の手には使い古された鉄製の斧がありました。
「では、あなたが落とした斧はこの鉄の斧ですか?」
「おお、そうです! その斧こそわたくしの斧であります」
「そうですか」
精霊は、持っている鉄の斧をハサイメに手渡しました。
「精霊さま、ありがとうございます! これでまた木を切ることができます。木を切って生活することができます!」
ハサイメは、何度も頭を下げ精霊に感謝の気持ちを伝えました。
そのときでした。ハサイメの背後にこれまた光り輝く人の形が突然現れました。
背後の神々しい光に気が付いたハサイメは後ろを振り返りました。
「おおお」
ハサイメは、面と向かった光輝く何者かに慄きました。光り輝く何者かは男で、全身を光り輝く鎧で身を覆っていました。男は両手にさっき水の精霊が持っていた金の斧と銀の斧を手にしていました。
「――水の精霊ウティネ、あとはわたしが引き継ぐ」
「はい、わかりました。――では若者よ元気で、さようなら」
水の精霊はそう言い残すと水の底へと消えていきました。
あまりの展開にハサイメは言葉なくその場に立ち尽くすのみです。
「若者よ、驚かしてすまない。わたしは天使の階級で第六の位にあるパワード・メイスというものだ」
「て、天使? あなたは天使さまなのですか?」
「そうだ。われら天使団はそなた、ええっとたしかそなたの名前はムーザ・ハサイメだな?」
「いかにも、わたしはムーザ・ハサイメと申します。しかしなぜわたしの名前をご存じなのですか?」
「うむ。それはな、ムーザ・ハサイメよ、われら天使団はそなたの日頃の行いを天上界から長年見ていたのだ。そして今日、水の精霊に協力してもらい、そなたに高価な金と銀の斧を見せて、そなたを試したのだ。正直者ならその二つは自分の物ではないと言う。結果、そなたは正直に二つの斧を自分の物ではないと言った。日頃お金がなく貧しいはずなのにそなたは二つの斧は自分の物ではないと言ったのだ。わたしは感服した。毎日汗水流して働き、しかも正真正銘の正直者ということがわかった。そなたこそ聖人にふさわしい人間だ。どうだろう、今日から聖人として生きてくれまいか。そなたの正しい行いをこの惑星全体に広げてほしいのだ――」
それからハサイメは、ハンナと同様の儀式を天使パワード・メイスから施され、彼は聖人となり、聖なる力が宿った金の斧と銀の斧を授かりました。パワード・メイスは、ハサイメにその武器を使って悪の勢力と戦うことを願いました。
そしてまず、彼が天使から討伐の対象と示されたのが、勢力を広げつつあった双子の魔女でした。ハサイメは、妻にことの成り行きを説明し、ブンディングへ妻子を連れて赴きました。
先に記した通り、双子の魔女との戦いは序盤こそハサイメの率いる軍が優勢でしたが、戦いが長期化するにつれハサイメ軍は劣勢を強いられ苦戦していました。ハサイメは苦悩しました。聖人としての力がある自分が戦う周辺の敵は蹴散らすことはできますが、戦線が拡大
するにつれ、多くの味方を護ることができなくなってきたからでした。しかも軍を二つに分けてからは、一方のオリワラ軍は手痛い打撃を受け散々でした。彼の精神は限界にきていました。自分は聖人としては無力なのではないのかと考え込むようになっていたのです。そんなとき、聖女ハンナがブンディングに駆けつけてくれたのです。
聖女ハンナは自分が持っていない回復魔法が使え、しかも、今目の当たりにした攻撃的な魔法も使える。
「ハンナ、わたしのそばをなるべく離れないように」
ハサイメはハンナにそう言うと眉間に力を込め敵中に突撃を開始しました。後方で聖女ハンナが自軍を支援してくれることで、自分は武力を思う存分発揮できる。目にした敵はすべて粉砕する。ハサイメはこの一戦で長きに渡って繰り広げられてきた戦いに終止符をうとうとしています。決着をつけようとしています。
ハサイメは両手に持つ金の斧銀の斧を真横に伸ばし、糸引き独楽のこまのように旋風しながら敵軍を蹴散らせていきます。そして敵がいなくなれば密集している敵へと突入していきます。
その様子を見ていたハサイメ軍の兵士は興奮します。
「――ハサイメさまに続けぇ!」
オリワラが兵士にむかって叫びました。それからすぐにオリワリはハサイメに続きました。
「おおおおおおおおお――――」
兵士たちは、雄たけびを上げながらハサイメとオリワラの後を追いました。
ハサイメ軍は数日前のその軍とはまるで違う軍隊でした。
いつもとは違い、ハサイメ軍に疲労感はなく、動きはいつもと違い機敏で、まず表情に精気がみなぎっています。
大軍である不死の怪物たちは、ハサイメ軍の変化など思考がないのでわからずただただ前進するだけでしたが、怪物軍の後方に控える人で形成された軍は、その変化に気が付きました。
「姉上、どうもハサイメの軍の動きがいつもと違い活発に見えます。きゃつら、なにかの魔法にかかっているのか、軍の動きがいつもより躍動的でこちらへ迫る進行速度が異様に速く、大軍で形成された不死の怪物軍団が突破されるのも時間の問題かもしれません。この状況を鑑みれば、姉上たちが最前線へ赴くのが得策かと」
ルーティア雪原の東の端には小高い丘があります。その上でダーガルドとエルザとアンはハサイメ軍の戦いぶりを観察しています。その観察の結果、ダーガルドは姉たちに進言したのです。
「そうね、きゃつらの動き明らかに違うわね。ねえ、お姉さま?」
アンは横にいる姉エルザに尋ねます。
「ええ、そうね。よしアン、ここはわたしたちが直々に戦場に赴いてきゃつらを懲らしめてあげましょう。あんたたちがどうあがこうとも結局のところわたしたちには適わないということを見せつけるのよ」
「はい、お姉さま」
「では、護衛の兵を五百ほどお付けいたします」
「いいえ、その必要はないわ。ここにきてなぜかわたしたちの魔力は増大している。あれだけ不死の怪物を創ってもまだまだわたしたちの魔力は残っている。わたしたちだけできゃつらを殲滅するのは容易いわよ。ダーガルド、あなたは安心してここで高みの見物でもしていなさい。ではね、行ってくる」
双子の魔女は戦場に赴くべく小高い丘を下りました。
下った先には一頭の獣が横たわっています。
それは白い大きなトラでした。トラの口からは鋭く反った長い牙が二本伸びています。
双子の魔女は、そのトラの背に跨りました。二人が跨ってもトラの背にはまだ余裕な広さがあります。
このトラは、トラの種類の剣刃虎と特別に呼ばれている希少な生き物で、エルザが飼いならし自分の移動手段及び戦闘の手助けとして使役させているのです。
実はこのトラと同種の獣はもう一頭いました。そのトラはアンが騎乗していましたが、ハサイメ軍との戦いで、戦い当初にハサイメの斧に仕留められてしまい死んでしまいました。
それからアンは、あまり機会はありませんでしたが、どこかに移動する場合、エルザの後ろに乗るということをしていました。
二人を乗せたトラは、エルザの命令で戦場へ疾駆します。
このルーティア雪原は足元が雪や氷ですべりやすく、馬での移動は難しいのですが、剣刃虎は足の裏から分泌される粘着性の液体のおかげで滑ることなく歩行または走行ができるのです。
双子の魔女はともに血を連想させる真紅の外套を着ています。その裾が剣刃虎の走行で後ろへ靡き、上空から見ればルーティア雪原という白い乙女の肉体を切断していく赤い血の閃光にも見えるのです。
エルザたちはすぐに不死の怪物軍がいる地帯に来ました。
しかしエルザは剣刃虎の速度を緩めません。
そのまま怪物軍の中へ突入していこうとします。そして何事かを口で呟き、拳をまっすぐ前に突き出しました。すると、彼女がはめている指輪から、尖った無数の氷が前方へと噴出してくるではありませんか。
「邪魔邪魔邪魔ぁ!」
無数の氷は、不死の怪物たちを蹴散らします。
不死の怪物は何が起きたのかよくわからないまま、吹っ飛ばされました。
エルザは非道でした。味方であるはずの、しかも自分で創りだした不死の怪物を自分の通る空間をあけるために魔法を使って排除していくのです。
しばらくその氷の魔法を使って直進していくと、ハサイメが奮闘する場所まで来ることができました。
ハサイメも前方から雪煙が舞っていることに気が付きました。
その雪煙の正体が剣刃虎に乗る双子の魔女とわかったときは、双方の距離は、もう僅かな距離の時でした。
エルザは剣刃虎に停止の命令を下しました。
ハサイメも振るう斧を止め、双子の魔女ににらみをきかせました。ハサイメの後ろには、エルザとオリワラ、それに兵士たちがいます。
双子の魔女周辺には不死の怪物たちはちらほらしかいません。エルザの魔法で吹き飛ばされ、あたりには数十体ぐらいの怪物しかいないのです。
エルザとアンは剣刃虎からひらりと身軽におりました。それからアンは、後ろでノシノシゆっくり前進する不死の怪物たちの方にむかい何事をつぶやき両手を彼らたちに突き出しました。するとアンの両手から青黒くて鈍い光が不死の怪物たちへととび、その光を受けた不死の怪物たちはぴたっと動きを止めその場に倒れていきました。
「もうあいつらには用はない。わたしたちだけであんたらを倒すのは造作もないこと」
アンは両手をだらんと下げ、ハサイメを睨み言いました。
「死んだ者をおもちゃのように扱うなんて、なんというやつらだ」
ハサイメは怒りで全身を震わせました。
「ふふふ、いい表現ね。そうよ、あいつらなんて所詮はおもちゃなのよ。こちらが動かしてあげないと微塵にも動くことはできないおもちゃなの。そのおもちゃが不必要になったので、ここいらでおさらばしてもらうことにしたのよ、ほほほ」
ハサイメの言葉を受けエルザが答えました。
「死者を愚弄するようなことを言うやつは、ゆるせん! エルザにアン! 今日で――」
――終わりにしてやると、ハサイメが叫び、魔女たちに突撃しようとした時でした。
突然彼の横から輝く光線がエルザめがけて伸びていきました。
エルザはその光線をまともに顔面で受けました。彼女の頭部は跡形もなくどこかへ吹き飛び、雪の大地には、首から上がない彼女の体だけが立ったまま残りました。首の付け根からは血は出ていません。
その様子を見てその場にいた全員が、一瞬の出来事に呆然としています。
いえ、その場で一人だけ、そうなることを確信していた人物がいました。
それはハンナでした。
彼女はエルザの言葉に怒りを抱き、杖から光の光線を放ったのでした。
ハサイメは振り返り、ハンナを見ました。
「ハンナ・・・・・・」
ハサイメは、ありありとわかるぐらい怒りの形相を浮かべるハンナに驚きました。
「ゆるせません。死んだ人たちを自分たちの思うように使い、また、愚弄するようなことは決してしてゆるされるものではありません!」
エルザは、まさか敵に魔法が使える者がいるとは夢にも思っていませんでした。
油断さえできず彼女は死にました。
ハンナはすぐにアンに杖の先をむけました。そして精神を集中させ、輝く光線を放とうとしました。
そのとき、ハンナとアンの直線上に剣刃虎が入りました。主人であるエルザがやられた剣刃虎は、主人の仇であるハンナ目掛け勢いよく疾駆し始めたのです。
「ハンナ!」
ハサイメは悲鳴に近い声で叫びます。剣刃虎はすでに、自分の位置よりもハンナの方に近いのです。このままではハンナは剣刃虎に噛み殺されるか、爪の一撃をくらい絶命するかのどちらかになると思ったので叫んだのです。
しかしハンナは冷静でした。まっすぐ自分にかかってくる獣にむかって光線を放ちました。
光線は剣刃虎のあいた赤い口にむかって勢いよく飛んでいきそのまま吸い込まれるように口内へと入り剣刃虎の体を縦断し尾の方から出てきました。
すぐに剣刃虎の前後足は力なく折れ、体は惰性で雪の上をすべり、ハンナの目の前で停止しました。
剣刃虎までもやられ、周囲に味方がいなくなったアンは、狼狽しました。
うしろをむいてもさっきまで前進し続けていた不死の怪物たちは自分が唱えた呪文のせいで停止したままです。
アンは強力な魔法を使える人間でしたが、その思考は姉のエルザに預け、姉の言うとおりにしか行動できない人でした。その自分の中枢である姉がいなくなったとき、彼女の思考は停止しました。いえ、元々思考らしい思考力など彼女にはなかったのかもしれません。
アンが再び不死の怪物たちに敵兵に攻撃を加える号令魔法を唱えれば、不死の怪物が助力となり彼女はこの窮地を乗り越えられたかもしれません。
しかし彼女は、姉エルザの死を目の当たりにしてしまい、自分の人生は終了したと無意識に感じ落胆し、その証拠に、彼女はなにもせずその場に膝をついたのです。まさに観念した姿勢でした。
でもしかし、ハサイメらは静止した体勢のまま警戒の視線をアンにむけます。
こちらを油断させ、なにか仕掛けてくるのではと勘繰って皆がみなその場で用心深く待機したのです。
しかし一人ハンナだけは、ザクザクと雪を踏みしめながらアンの元へ歩み寄って行きます。
「おい、ハンナ!」
ハサイメはハンナの行動に驚き、彼女に近づきました。
「ハンナ、止まれ! 魔女に近づくのは危険だ、止まるんだ!」
ハサイメはハンナの前に立ちふさがりハンナの前進を阻止しようとしました。
「いいえ、大丈夫ですハサイメさま。あの方には我々と戦う意思などもう微塵もありません」
「なに?」
それからハンナは、ハサイメの脇を通り過ぎ、さらに歩みを進め、とうとうアンの目の前まで辿り着きました。
ハンナが目の前に現れてもアンは微動だにせず膝をついたまままっすぐ前を見据えたままでした。
「ハサイメさま、こちらの方のお名前はなんというのですか?」
ハンナは振り向きハサイメに尋ねました。
ハサイメは、早歩きでハンナの元へ近づきました。それから、この魔女はアンという名でここに立つ首を無くしたエルザという魔女の妹だと教えました。
「そうですか」
ハサイメの情報を聞くとハンナは、アンの目線に合わせるように跪きました。
「魔女、アン。もうあなたに戦う心がないということをわたしは知っています。どうでしょう? もうここで戦いをやめませんか? あなたは、あなたのうしろに控える兵士たちに、エルザは死に、アンあなた自身も戦う意思がないので、戦いを終了しようということを彼らに提案してもらうことはできませんか? あなたたち姉妹を失った軍は、これ以上戦っても勝ち目はありません。これは無益な戦いです。無益な戦いは意味がありません。だから、もう戦闘は終了しようということを後方に控える兵士たちに伝えてはくれませんか?」
ハンナは、アンの目を見つめ言いました。
「え?」
と、ここでアンは、今更ながらハンナに気が付いたように返事しました。
「だれあなた?」
アンはハンナに尋ねました。
「わたしはハンナといいます。アン、今わたしが言ったこと、聞こえていましたか?」
「え? ああ、あれね、弟に戦闘をやめなさいということね」
「弟?」
ハンナは、双子の魔女に弟がいるとは知りませんでした。
「ああ、このアンとエルザにはダーガルドという弟がいて、アンは弟に戦いをやめることを伝えればいいのかと言っているんだと思う」
ハサイメがハンナに説明しました。このときハサイメもアンに戦う意思がないとわかっていました。仮にアンに戦う意思があり、魔法かなにかをこちらに危害を加えようと使おうとしてもその前にアンを倒すことはできるとハサイメは確信していました。それぐらい各々の距離は接近しており、ハサイメは軽く斧を振り下ろすだけでアンの脳天を断ちわることができると思っていました。
「アン、あなたにあなたの弟に戦いをやめるよう言っていただきたいのです。それは可能ですか?」
ハンナはもう一度アンに尋ねました。
「やってみるけど、ダーガルドは戦いをやめないと思う。弟はお姉さまと同じくらい好戦的な性格だから」
「それでもお願いします。どうか戦いをやめるよう言ってはくれませんか。この戦いはあなたたちの負けは確実です。これ以上戦うのは双方にとって無益です。これ以上お互いに無駄な血を流す必要はありません」
「たしかにそうね。この戦いはわたしたちの負けのようね。エルザ姉さんは死に、わたしも戦意はもうない。わかった。ダーガルドが待機する陣に戻って何とか弟を説得してみるわ」
「ありがとう、アン。わたしたちもあなたに同行します」
ハサイメの軍は、アンを先頭に彼女のあとに付いて一緒にダーガルドが陣を張る場所まで進軍します。
ダーガルドは小高い丘で姉たちの勝利を待っていましたが、ハサイメ軍がこちらに押し寄せるのをみて、姉たちの敗北を理解しました。
彼は丘をおり、全軍に退却を命令しました。なぜ姉たちが敗北したのか信じられない思いでしたが、ハサイメ軍がこちらに進軍してくるということは、そういうことなのだと彼は現実を受け入れざるを得ませんでした。
ダーガルドは、アイスピック城に退却し籠城しようと考えていましたが、兵に魔女の敗北が知られていくと、この戦争は負けだと思った兵士たちが、アイスピック城に着くまでにどんどん逃亡し始め、城の門に到着したときには、彼の周りには数十人の兵士しかいませんでした。
ダーガルドは、自分に付いてくるという数十人の兵士とともに、アイスピック城を離れ、ハサイメ軍の手の届かないところへと逃げることにしました。
そのダーガルド軍をルーティア雪原から戦いをやめさせるためにアンとともに追いかけていたハサイメ軍は、ダーガルドの兵があきらかに少なくなっていくことを逐一確認していました。
そしてアイスピック城に着いた頃、敵兵力は皆無ということを知りました。城を見上げても、人の気配がありません。それもそのはず、アイスピック城の守備兵は、ダーガルドが兵を連れ退却してくる様子を城の高台からみて、自軍は負けたことを知り、ダーガルドが城に到着する前に敵前逃亡ならぬ味方を前に逃亡をはかっていたのでした。
結局のところ双子の魔女の軍は、魔女という存在が兵の士気維持していただけで、その圧倒的な力がなくなれば、ただの烏合の衆でした。
ハサイメ軍は、アイスピック城を探索しその城が無人であることを確認すると自軍の勝利を確信し、沸き立ちました。
「おれたちは魔女の軍に勝ったんだぁ!」
ハサイメ軍の兵士は狂喜乱舞しました。
長期間不死の怪物軍と戦い、倒しても倒しても敵の兵数は減るどころか増えるばかりで、こちらは疲労感は増えるが味方は減っていくという悲惨な状況で、自軍は負けてしまうということをハサイメ軍のどの兵士も脳裏にかすめていました。
しかし、ハサイメ軍は勝ちました。
その勝利は、なにより聖女ハンナが自軍に加わったことで得られたと、ハサイメはじめどの者たちも理解していました。
戦いの勝利の吉報はすぐにブンディングの人たちにも伝えられました。
街の人たちもその報を聞くと大いに喜び、さっそくにと勝利の祝賀祭の準備が行われました。
アイスピック城に僅かな守備兵をおき、ハサイメ軍は、ブンディングに勝利の帰還を果たしました。
ブンディングではさっそく街をあげての祭りが開催されました。街の中心には広場があり、そこに兵士と街の人たちは集合しました。街には食料はそんなにもありませんでしたが、葡萄酒はたくさんありました。広場には街中から集められた長机や椅子が設置され、長机の上には食事とお酒が配膳されました。
祭りの初めに魔女との戦いで戦死した兵の追悼をみんなでしたあと、宴は始まりました。
このときばかりは帰還した兵士及び街に残っていた女、子供、老いた男女ともに勝利を祝いました。
ハサイメとハンナは街の英雄として、宴で奉られ民衆から感謝の言葉を受けました。
街中の人たちから感謝の言葉を次々と受けていたハサイメとハンナは、宴の時間がしばらく経ったころ、広場の隅にある椅子にようやく腰を下ろすことができました。
ハサイメはそのときすでに葡萄酒を数杯飲んでいて、ほろ酔いの状態でした。両脇には妻のヨルガと聖女ハンナがいます。
「改めていう。ありがとう、ハンナ。きみのおかげで双子の魔女との戦いによって縛られていたブンディングは解放された」
ハサイメは、すぐ隣で絞ったみかんの液汁を飲んでいるハンナに言いました。
「いいえ、今回の戦いはわたしだけの力で勝利したのではありません。ハサイメさまを中心にブンディングのみなさまの力で勝利したのです」
「そう言ってくれるのはうれしいが、そなたがこのブンディングにきてくれ、そして戦いに参加してくれたからこそ戦いに勝利できたのだ。街のみんなを代表して改めて感謝する」
ハサイメはハンナにむかって頭を下げました。
「おやめくださいハサイメさま」
ハサイメは頭を上げ、広場の中心へと目を向けました。
街の人たちは笑顔で語り合い飲んだり食べたりしていました。
ハサイメたちのすぐ近くでは、彼の息子と娘が手をとりあい踊っています。
「戦いには勝ったが、今後はこの街をどう発展させていくのかを考えていかなくてはいけない。魔女との戦いで、ブンディングという街はかなり疲弊している。」
街の人たちの喜ぶ顔を見ながら、ハサイメはふと真顔になり現実を考えます。
「大丈夫ですよ、あなた。魔女がいなくなった今、この地を支配していた寒さは和らぎ、大地も本来の豊穣な地に戻り、ブンディングは豊かで暮らしやすい街になっていきますわよ」
「そうだな」
妻ヨルガの言葉でハサイメは笑みを浮かべました。しかしその表情はすぐに曇ります。
「アイスピック城で幽閉しているアンの処遇をどうしようか?」
魔女アンは、降伏勧告のためハサイメ軍とともに弟ダーガルドの軍を追いかけていましたが、ダーガルドの軍は双子の魔女の敗北をしるや散り散りになって無力化し、アンが降伏を勧める前に瓦解してしまいました。
無用の存在となったアンは、ハサイメ軍の大多数の意見によりその場で即刻打ち首と宣告されました。
なにせ魔女アンのおかげで味方の兵士はたくさん死に、生き残った兵士たちもここまでの悲惨な現実を目にし、疲労困憊したのです。みな、アンを見る目に憎悪がこもっていました。
が、ハンナが彼女をかばいました。
「――どうかこの人をお助け願います。たしかにこの人はブンディングの人たちに非道なことをして苦しめていました。しかし今この人には、ブンディングの人たち、いいえ、自分以外の他人を苦しめようという気持ちは全くありません。わたしにはそれがわかるのです。だからどうか皆様方のご慈悲をこの人にかけてはくれませんか?」
ハンナは膝を付き、額を地面に密着させ懇願しました。
そのハンナの姿をみて兵士たちはお互いにどうするかと顔を見合わせていましたが、やがて兵士たちはハサイメに視線を集中させました。
それは、軍の長であるハサイメに、アンの処遇を決めてほしいという視線でした。
視線を感じ取ったハサイメは、とりあえずアンをアイスピック城にある牢に閉じ込めようと決めました。
もちろんそのとき、彼女が悪魔から受け取った魔法の指輪は彼女の指から回収されました。そして、ルーティア雪原でこれと同じ指輪をはめ立ったまま死んでいる首のないエルザの指からもブンディングへの帰還途中のハサイメの兵によって外されたことは言うまでもありません。余談ですが、エルザの立ったままの遺体はハンナの要望で横たえられ、他の不死に怪物やハサイメ死亡した兵士と共にその地で埋葬されました。
さて、そのアイスピック城に幽閉されているアンの処遇をハサイメはどうするかと頭を悩ませています。
「ハンナよ、そなたがあのアンを助けたいという気持ちはわかる。わかる。しかしそなたは聖女として慈愛に満ち、誰に対しても慈しみを持つ存在であるからあの者を助けるという気持ちが起きるのであって、わたしたちは我々を長期間苦しめたあの魔女に対してなんの哀れみも抱かないのだ。いや、わたしはわかる。わたしにはわかる。あの者がすでに戦意喪失でわれらになんの害を及ぼすことはないということはわかっている。これが聖人として認められたわたしの能力なのかどうかはわからないが、わたしはあの者がもう悪事をはたらくことはないとはわかっている。しかもすでに魔法の力を介在しそれを発揮する指輪は彼女からは取り除かれた。アンはもう魔法は使えない。しかしあの女の生存自体がブンディングの人たちには許せないのだ。あの女がこの世界で生きているということが許せないのだ。あの者に殺された肉親友人がブンディングにはいる。その者たちはアンの死を希望している。だからあの者は、のちには死んでもらうほかないだろう」
ハサイメはコップに残っていた葡萄酒を飲み干しました。
その様子をハンナは見つめていました。
「わかります、ハサイメさまのお気持ちは。聖女であるわたくしはアンの姉であるエルザを魔法によって殺めました。それはエルザが全身から殺気を放ち続け、また死者を愚弄する言葉をはいたので瞬間的にわたしはエルザに光の魔法を放ち彼女を殺めました。わたくしとしては、あのときの自分の感情を冷静に詳しくは説明できません。しかし今になって考えると、あの者には、少なくともあの時のエルザからは今後未来永劫、自分に反旗する人たちを説得して共存していこうという心は微塵にも見えませんでした。敵はみな排する。そんな気持ちをエルザから見て知ってしまったからわたしはエルザの首を魔法によってはね飛ばしたのです。この者は、静かに平和に暮らしていこうという人たちに危害を今後も加え続けようとしていると思いましたから成敗したのです。しかしアンには、今後以降にも人に危害を加えようという心は見当たりません。無なのです。彼女は操られ人形のような存在で、命令主が邪悪なれば、それに染まり、悪いことをしてしまう、ある種最悪の中の最悪なのかもしれません。しかしだからこそ、彼女をきちんと監督できる者がそばにいれば、彼女は、悪事をはたらくことなく平穏に人生を全うできるかもしれないと思い、アンの助命を嘆願したのです」
ハンナは、ハサイメに熱弁をふるいます。
「聖女ハンナ、そなたの気持ちはわかる。わかるが、こればかりは、人々の感情の問題だからなんとも……」
ハサイメは顎を撫でてどうするか悩みます。しかし彼の脳裏には答えは一つしかありませんでした。アンを死刑にするしかないという答え一つしか。アンを死刑にしなければ民衆が納得すまいとハサイメは結論付けています。
「ハサイメさま」
ハンナがハサイメの横顔に呼びかけました。
「なんだ、ハンナ」
「アンをわたくしにお預けねがいませんか?」
「なんだって?」
「ハサイメさまは今後もこのブンディングに残りこの街を統治していかなくてはならないお人。わたくしはもうこの街には不要な者なので、明日にもこの街を出て、他の地域で病気や怪我で苦しむ人を癒し、または悪事を働く人から弱い人を守ってゆきたいと考えています。その道中にアンを同伴させたいのです」
「お、おい、ハンナ。そなたこそ今からこの街の再建に必要な大事な人材ぞ。そなたにこの街から出ていかれてはわたしとしては困る。いや、街の全員が困ってしまう」
「いいえ、魔女がいなくなった今この地にわたしは必要ありません。わたしを必要としている人たちは、今もこの瞬間も全国各地に点在しているはずです。だからわたしは明日にもアイスピック城にいるアンを伴いこの街を出て、各地を放浪したいと考えております。アンを同伴させる理由は、彼女にこの世界であらゆる場所で苦しむ人々がいるという現実を見せ、その人たちを助けるという行いを教えるためです。アンは、導く者が正なら正になる素質があるとわたくしは思っております。彼女は彼女を取り巻く環境によって悪の道へと歩みましたが、導く者が正しき道に誘う者なら、アンは転身するとわたしは確信しております」
「むむむ」
ハンナの言葉は熱を帯びていて話を聞いたハサイメはその熱に押される形で黙り込むしかありませんでした。ここで彼女にこの街にずっといてくれと再度懇願しても彼女の意思は固そうで、聞き入れてくれそうにありません。しかもアンを殺さずに生かす方法はハンナに
アンを託すしかこれまたなさそうです。
ハサイメは隣に座るヨルガに尋ねるように無言で顔を向けました。
「わたしもハンナの言う通りだと思うわあなた。ハンナの偉大な力は各地でいろいろなことで苦しむ弱者に役立つ技。このブンディングだけハンナの力の恩恵に預かるのは、この世界のためによくないことよ。アンのこともそう。アンもハンナが近くにいれば悪いことはしないと思うし、もしかするとハンナの言う通り、ハンナの近くにいることでハンナの思いや行いを間近に接するうち、良心が芽生えてくるかもしれませんわ」
「うむ」
ハサイメは決めました。ハンナの旅立ちを快く承諾し、魔女アンをハンナに託すということを。そこで宴の終わりに、ハンナが明日ブンディングを出立し、アイスピック城に幽閉されているアンと共に旅をするということを知らせました。
街の人たちは、寂しさからハンナが街を去ることを思いとどまらせようとし、またアンの解放の件についても即座に反対しましたが、ハンナがアンの監督を、責任を持って対処していくと言ったのを聞いて彼女の気持ちが強いことがわかると、ブンディングの英雄となったハンナの意見を尊重し、最終的には従いました。
次の日、ハンナはブンディングの人全員の見送りを受けて街を出発しました。出発はハンナ一人ではなく、ハサイメ他、アイスピック城で見張りの任についている兵と交代させる兵士百人とその部隊長であるウェイン、あと、ハサイメの娘と息子も同行しました。ユルヴァとフィントは、ずっと一緒に暮らすと思っていたハンナが旅立つということで寂しくなり、アイスピック城まで見送りたいと父親であるハサイメに泣きつき同行を許されたのでした。
アイスピック城までの道のりは、戦いのため歩いた道のりとは全く違い、快適なものでした。まず目的が戦いに行くのではないということが大きく、また魔女の力がなくなったので、ブンディング周辺及びルーティア雪原の寒風が和らぎ、寒さに身を震わせながら前進しなくてもよいということがありました。
とにかく、アイスピック城までの道中は、全員にとって快適でした。
その日出立した一行は、ルーティア雪原の中央部で野営し、翌朝、腹ごしらえをしてアイスピック城にむけ出発しました。その日の夕暮れ頃にアイスピック城に到着した一行は、見張りの任に付いていた守備兵をねぎらい、小さな宴を催しました。宴が終わり睡眠をとったハンナとハサイメは、翌朝に数名の兵士とで、アンが幽閉されている地下の牢屋にむかいました。
アンは牢屋の中のベッドで横になっていました。
ハンナは兵士にカギを開けてもらい中に入りました。そして横になっていたアンに声をかけました。アンはすぐに上体を起こしました。ハンナはアンに要件を告げました。つまり、あなたは今からわたしとともに各地を放浪し、弱った人を助けるのよと言ったのです。
「わたしは命が助かるの?」
アンはハンナに聞きました。
「そうだ、アン。おまえは本来なら死刑になるところだったのだが、こちらの聖女ハンナがおまえの面倒を責任をもってみるのでどうか命だけは助けてくださいと願い出て、それを我々は承諾したのだ。だからおまえの命は助かる」
アンの質問に答えたのはハサイメでした。
「そうなのですか?」
アンはハンナに尋ねました。
「そうです。あなたはこれからわたしと一緒に各地を放浪して、わたしとともに弱き者を助けることに奉仕してほしいのです。よろしいですか?」
アンは目をつむり黙りました。しばらく沈黙していたアンは目を開けると、ハンナを見つめこくりと頷きました。
それからハンナとアンはすぐに身支度を整え城の門へと移動しました。
城の門にはすでにハサイメとフィントにユルヴァあとウェインとその兵士たち及び守備兵が待っていてくれました。
「聖女ハンナ、ありがとう。短い時の付き合いであったが、そなたのこと、そしてそなたが我々ブンディングの者に与えてくれた恩恵及び慈悲深さを我々は決して忘れはせぬ」
ハンナとアンが門にくるとハサイメはハンナに挨拶し頭を下げました。すると、彼のうしろに控える全員もハンナにむかい頭を下げました。
「こちらこそありがとうございました。皆さまには本当にお世話になりました。わたしは生まれてこの方、自分の生まれた村からは出たことはありませんでした。でも天使さまから聖女として生きていくようにとお告げがあり、と同時にブンディングが窮地であるとおしえられ、その窮地を救うべくブンディングにやってきました。わたしは村では独り身でした。両親はすでに亡くなり友人もおらず天涯孤独でした。そしてついにお金もなく食べる物もなくなりました。あとはわたしも両親がいる場所へ旅立つのだろうと思っていたときに天使さまがわたしの元へおいで下さり、ブンディングという目的地を指し示してくれまして、わたしはブンディングへやってき皆さまと出会えました。村にいるときわたしは両親が死んでからたまに――いいえいいえ、お金や食べ物がなくなる前からも両親が死んでからというものの毎日毎日自分はどうなってもよいと思っていました。でもその思いは恥ずる思いだと今になってわかります。その理由は、もし仮にわたしが村でのどこかの時間で自ら命を絶っていたのならここにいる皆さま及びブンディングの人たちとも出会えなかったからです。生きていたからこそ皆さまと出会えたのです。だから今後みなさまに苦難が訪れようとも気をしっかり保ち、苦難を解決できるようあきらめず尽力ください。もし仮にみなさまでも解決できない問題が起こったときは、全国にむけて手紙なり情報なりをとばしてください。わたしは必ずブンディングに駆け付けます。それでは最後になりますが、どうかみなさまにおかれましては日々の生活においてご自愛くださりますよう、お願い申し上げます」
ハンナはみんなにむかって頭を下げました。
ハサイメ及び後ろに控える人たちはハンナの言葉に拍手をしました。
ハンナは拍手の終わりがわかり頭を上げました。そのとき、アンが自分の方に顔を向けているのが気配でわかりました。
「どうかしましたか、アン?」
ハンナは自分を凝視するアンに尋ねました。
「あの、もしブンディングでなんらかの異変がおきたのならば、聖女ハンナ、あなたさまはその直後すぐにブンディングに赴けますか?」
「え?」
「だってそうでしょ。ブンディングに異変が起きたとき仮にあなたさまがブンディングの近くにいればすぐに急行できますけど、仮に遠い地にあなたさまがいれば、すぐには赴けないですわよね」
「そうですね。でもブンディングには聖人であるハサイメさまもいるし、ハサイメさまには、有能な仲間もいらっしゃる。わたくしが赴くまであらゆる異変にハサイメさまたちは持ちこたえてくれるに違いありません、とわたしは予測しています」
「そうですか……」
弱々しく目線を落とすアンの表情にハンナは、なにか彼女は本心を述べていないと直感で思いました。
「アン、なにかあなたにはわたしに伝えたい本心があるのではないですか? あるのならばその心を教えてほしいのですけれども」
「はい、あります」
「それはなんでしょうか?」
「はい。もし破壊されずにその物があればという話なのですが、わたしはこの城の塔の頂上階の女王の間にある遠見の水晶球という球を使って、遠方の様子を直に観察できる能力があります」
「えっ!」
ハンナは驚きました。
「はい。その水晶球がまだあり、その水晶球をハンナさまとの旅で携える許しが出るならば、わたしは逐一ブンディングの街の様子をその水晶球でみてとることができ、なにか街に異変や問題があれば、その瞬間、ハンナさまにお教えすることができるかとおもいます」
「指輪は取り上げたのにそなた、まだ魔法が使えるのか?」
ハンナではなくハサイメが驚きを隠せずアンに尋ねた。
「指輪は、氷の魔法を使ったり死体を蘇らせることができるもので、遠見の水晶球は、指輪が無くてもわたしは使えます」
「そうなのか」
ハサイメは納得し、部下に水晶球をここに持ってくるように命じました。
部下は城の塔の頂上階まで走っていき、水晶球を持ってゼエゼエ息を切らせながら門まで戻ってきました。
水晶球を部下から預かったハサイメは、アンに水晶球を渡しました。
渡す際、
「この水晶球を悪事には使用しないこと」
と念を押しました。
そしていよいよ別れのときがきました。
「元気でなハンナ」
「ありがとうございますハサイメさま。いろいろありがとうございました」
ハサイメとハンナはお互いに辞儀しました。
「ハンナ姉ちゃん、ブンディングに異変がなくてもいつでも遊びにきて。ぼくたち待ってるから」
フィントが目に涙を浮かべながら言いました。
「おお、そうだハンナ。別にブンディングに何事がなくともいつでも元気な顔を見せてくれ。わたしたちはそなたの訪問をいつでも歓迎する」
ハサイメは息子の言葉にそう言い添えました。
「ありがとうございます。では行きます。みなさんお元気で」
ハンナは頭を下げ、みなから離れ始めました。アンもそのあとに付いていきます。
「聖女ハンナ、気をつけてなぁ!」
「ハンナねえちゃーん、さようならー!」
「ありがとー、ハンナさまぁ!」
ハサイメやその息子娘兵士たちが手を振りながら大きな声でハンナに呼びかけます。
ハンナはその声を聞き背後を見て手を振り返します。
何度も何度も城の門前にいるハサイメたちは別れを惜しみハンナに大声で呼びかけました。その都度、ハンナは振り返って手をふり応えました。
そのやり取りが七回ほど続いたとき、ついに門にいる人たちの声がハンナには届かなくなりました。アイスピック城の一番高い塔はまだハンナとアンの視界にはありますが、門はもう岩陰に入って見えません。
「みなさま、また必ず来ます。――行きましょうアン」
ハンナはそう言うと、城を背にして歩き始めました。
その後、ハンナとアンは精力的に各地で弱き人を助けながら旅を続けました。
しかしハンナは、ハサイメたちとアイスピック城で別れた五年後、アンに後事を託し天国へと旅立ちました。
でも、ハンナの仕事は天国召され終了ということではありませんでした。彼女は、天国に召され天界で神さまから正式に天使に任命されました。
力天使ヴァルキュリア・ハンナはこうして誕生しました。