月灯公園
ゴーン ゴーン ゴーン ゴーン……
古い、どっしりとした置き時計が九つ、少しこもった鐘の音を打ちました。
部屋に戻り、眠る時間です。
真鍮のドアノブに手を置き、ドアをほんの少し開いてから、ニーナは振り返り、お父さんに挨拶をします。
「おやすみなさい。 父さま」
「ああ。 おやすみ」
暖炉の火に向かい置かれた椅子に、深く腰掛けたお父さんの顔は、斜め後ろからのちょっとしか見えません。
お父さんは、寝る直前まで、会社の書類に目を通したり、新聞に目を通したりと、とても忙しいのです。
ニーナはドアをそっと閉め、灯りのない真っ黒な廊下を歩き始めました。
昨日切れた廊下の電球は、まだ交換していないので灯りは点かず、おまけに、今日は月がすっかり姿を隠してしまう、月なしの夜なので、窓から入る優しい月の光すらない、廊下は、本当に真っ暗な闇でした。
真っ暗ですが、もう十年は暮らしている家の中です。 目をつぶったって、自分の部屋にたどりつけると、ニーナは思いました。
コッチ、コッチ、コッチ、コッチ……
廊下に置いてある、大きな柱時計の、規則正しく刻む針の音以外、何も聞こえません。
お母さんの生きていた頃には、歌声や、笑い声なんかがしょっちゅう聞こえていましたが、お母さんがいなくなってからは、時計の針の音だけが残ってしまいました。
「この音、嫌いだわ」
ニーナは、両手で耳を塞ぎ、目を閉じました。 それでも、真っ暗な闇は真っ暗で、時計の音は、ニーナの指を通り抜けて聞こえてきます。
ニーナはそのままの格好で廊下を走り、自分の部屋へと飛び込みました。
灯りを点けていなかったので、部屋の中も真っ暗で、ひんやりとしていました。
暗くて見えないけれど、部屋の右には、お母さんといつも一緒に弾いたピアノが置かれています。 その上には、お父さんがニーナの誕生日に、外国から送ってくれた、きれいな貝細工のオルゴールが置かれているはずです。
お母さんがいなくなってから、部屋のピアノを弾くことも、オルゴールを鳴らすことも、ニーナはしなくなっていました。 ピアノの音も、オルゴールの音も、聞くと、天国へ行ったお母さんを思い出して、悲しくなるだけだからです。
部屋はいつも静かで、小振りの置き時計が、チクタック、チクタック、というくらいです。
けれど今夜は、いくら耳を済ませても、そのチクタクの音は聞こえてきません。
それに何だか、いつも以上に暗いし、寒い気がするのです。
今は十二月。 昼間の空は灰色で、雪も舞おうかという季節です。 寒いのは当然です。
けれど、家の中にいるとは思えないような、ひしひしとした、肌に針を刺すような冷たさが、手足だけでなく、全身を押さえつけます。
ニーナは、肩を抱いて、ぶるると震えると、ふと、上を見上げました。
見上げた先には、きらきらと小さな光がいくつも瞬いています。 大きいもの、小さいもの、白いもの、赤っぽいもの。 数え切れないほどの光が、ニーナの上にあります。
ニーナは寒かったのも忘れて、大きく目を見開き、もう一度その光たちを、よく見なおしました。
それは星でした。
つややかな黒いビロードに、宝石をちりばめたような、広い星空でした。
夜の女王である月の姿はなく、お供の星たちだけが、主のない夜空を守るように、金に銀に光り輝いているのです。
時々、白い靄が星の上にかかります。
よく見てみると、それは自分の吐く白い息なのだと、ニーナは気が付きました。
「寒いわ」
ニーナは、寒いことを思い出しました。
昼間でも、暖かな上着がないと、寒くて凍えてしまいそうなのに、夜だったらなおさらです。
寒くて、身体がぶるぶると震え、歯ががちがちと鳴り続けます。 薄い部屋着しか着ていないニーナの、スリッパの足は裸足です。
どうして、こんな薄着をしているのだろうと、肩を懸命にこすりながら、ニーナは自分にちょっと腹を立てました。
あたりは静かで、なんの音も聞こえません。
月の光もないので、全てが夜の黒にとけてしまい、ここがどこなのかも、自分がここに本当にいるのかも、分からないほどでした。
ニーナは右足をそろりと一歩、前に進めました。 次に左足をそろり前へ、その次には右足をまたそろりと。
一歩、一歩、そろり、そろりと前に出しているうちに、自分の立っていた前には、道が続いているのだということが分かりました。
「でも、この先に穴があいていたら、落ちちゃうわね。 もしかしたら、崖があるかもしれない。 見えないのだもの」
ちょっと怖いな、と思いましたが、ニーナは一歩、一歩、地を擦るように、ゆっくりと、慎重に足を前へ出していきました。
どれくらいか前に進んだ頃、遠くに黄色いまるい点が、ちらりと見えました。
黒い闇の中で、その点はとても温かい色をしていました。 ニーナは、その黄色の点に呼ばれるように、さっきまでよりも早く、一歩、一歩と、足を進めました。
ずいぶん遠いだろう、と思っていましたが、気が付くと、ニーナはいつの間にか、点の目の前にまで来ていました。
黄色い点は、街灯の灯りだったのです。
近くで見ると、その灯りはとても優しくて、まるで、柔らかな月の光のようだと思いました。
まるい、花のつぼみのような街灯の下は石畳で、そこには、公園にあるような、長い大きなベンチがひとつ、置かれています。
ベンチには、男の人が一人、座っています。
黄色い灯りの下にいるその男の人は、ちょっとくたびれた格好をしていました。
よれよれの、古い黒のコートは煤けているようです。 ぼんやりと空を見上げている横顔には、無精髭が生えていて、いつもきれいに髪を整え、ネクタイに背広を着ているニーナのお父さんや学校の先生とは、大違いでした。
ニーナが、まじまじと見ているのに気が付いたのか、男の人はゆっくりと顔をこちらに向けると、少しおや、という顔をして、それから、にっこりと笑いました。
「こんばんは。 寒いね」
男の人は、人なつっこい笑い顔のまま、ニーナに挨拶をしました。
「こんばんは」
消えるような小さな声で、ニーナも挨拶を返しました。
「そこは灯りが届かないだろう? どうだい、ここに座らないかい?」
男の人は、座っている場所を少し、横にずれると、ベンチの上をぽんぽんと叩きました。
ニーナは、少し迷いましたが、男の人の横に、ちょっと、離れて座りました。
近くで見ると、男の人はやはりよれよれで、コートの裾などは擦れて、ところどころボロ布のようになっています。 にこにこと笑う顔は、ニーナのお父さんよりも、若いように見えますが、中途半端に伸びている髭や髪のせいで、若いのか年なのか、よくわかりません。
男の人は、ニーナが座ったのを見ると、にっこりと笑って、また空を見上げました。
ニーナもつられて、夜空を見上げました。
二人ともなんにも言わず、ただじっと、空を見ていました。 街灯の灯りがあるためか、星の光は、ニーナが最初に見上げた時よりも、淡く、小さく見えます。
「おじさんは、星の観察をしているんですか?」
男の人は、黒い目を大きくしてニーナの顔を見ると、少し困ったような、それでいて愉快そうな顔をし、笑いながら頭をかきました。
「あはは。 おじさんかぁ。 そうだなぁ、君くらいの子から見ると、僕はもう"おじさん"だろうね。 昔は君と、同じくらいの少年だった頃もあったし、今だってまだ、若いつもりでいるんだけれど、君から見たら、おじさん、だね」
ニーナは、失礼なことを言ったかしら、と思いました。 自分のお父さんより若かったとしたら、まだ三十歳を超えたか超えないかです。
やっぱりおじさんは失礼かしら? でも、お兄さん、というのもちょっと妙だわ、と思いました。
「あの、私の名前はニーナ、といいます。 お名前、伺ってもいいですか?」
おずおずと、男の人の顔を見上げながら、ニーナは尋ねました。
男の人は、また目をまるくしてニーナを見ると、その後しばらくして、それまで以上の、満面の笑みを浮かべ、じっくりと、ニーナの顔を見つめました。
「君は僕の事を"怪しい奴"とか"危ない人さらい"とか"変質者"とか思ったりしないのかい? こんな夜更けに、こんな公園のベンチに一緒に座って、自分から名前を教えるなんて! 今時の学校では、知らない人間には、むやみに自分の事を話してはいけないって、教えられているって聞いたけれど?」
ニーナは少し困った顔をして、答えに詰まってしまいました。
「こんな夜遅くに、こんな場所にいたことを知られたら、父にも先生にも、きっと叱られると思います。 自分でも、どうしてこんな所にいるのか、分からないし、どうして名前言っちゃったのか、分かんないです。 でも、どうしてだろう? さっきから、夜の空の下に立っているのに気が付いた時から、寒いし、怖いし、止めておけばいいのに、って思うのに、身体が勝手に前に動くの。 知りたいと、思うと、口が喋るの。 名前を言ったのは、相手の名前を知りたかったら、まず自分の名前を名乗るのが礼儀だって、母が、いつも言っていたから――」
男の人は、あごの無精髭をなでながら、ニーナをじっと見ました。 あんまりにもじっと見つめられるので、ニーナはなんだか、居心地が悪くてしかたがありません。
「私、何か変なこと言いましたか?」
男の人は、それでもしばらくニーナを見ていましたが、また、にこりと笑って、夜空に目を戻しました。
「感動していたんだよ。 僕に名前を聞く人なんか、もう、何百年もいなかったからね」
「何百年、って、何年ですか?」
ニーナは思わず、椅子の上でにじり寄るようにして、男の人の顔を覗き込みました。
ふむ、とひとこと言うと、男の人はコートのポケットから、小さな丸いものを取り出し、ほら、とニーナに見せました。
「小石ですか?」
「小石、に見えるかい?」
男の人はにこりと大きく笑うと、小石を大きな手の内に握りこんで、ふっと、白い息をかけました。
ニーナがじっと見つめていると、男の人は握ったままの手を前に突き出し、空に向かって、ぽい、と小石を投げました。
小石が落ちてくる、と思い見ていると、空からは雪のように白い布が、ゆっくりと、舞うように降りてきました。
白い布は、大きなショールでした。
男の人は、ショールを大きく広げると、ぽかんとしているニーナの肩に、ふわりとかけました。 暖かくてやわらかなショールに包まれて、ニーナの身体はとてもほっとしました。
「寒い時には上着が必要だよ」
「どこから、このショールをだしたんですか? おじさんは、魔法使いですか?」
ニーナは目を大きくして、ショールと男の人の顔を見比べました。 男の人は相変わらずにこにことして、夜空を見上げていました。
「魔法使い。 そうだね、そういうことに、しておこうか」
ニーナは、お話しの中にしかいないと思っていた魔法使いが、こんな近所にもいたのだと驚き、少し嬉しくなりました。
「ここで、何をしていたんですか? 魔法の練習ですか?」
「月のない夜は迷子が多い。 帰り道が見えなくて、分からなくて、道に迷ってしまうんだ。 そんな人たちの、話し相手でもしようかと思ってね」
男の人は、自分を迷子だと思っているのだと、ニーナは思いました。
「私は迷子なんかじゃありません。 私、一度だって迷子になったことなんかないです。 ちゃんと、自分一人でどこにだって行けるし、ちゃんと、自分で帰れます」
男の人は一瞬笑いをひっこめ、ニーナの顔を見ると、またポケットから小石をひとつ取り出し、笑顔を戻して、ニーナの小さな手に乗せました。
「これをあげるよ」
手渡されたのは、半透明の淡いミルク色をした、まるで月の光のような、とても優しい色の石でした。
「きれい。 でも、この石何ですか? どうして私に、これをくれるんですか?」
ニーナは、小石をささげ上げるようにしながら、男の人の顔を見上げました。
「それは種。 君は、僕の名前を聞いてくれたから、そのほんのお礼だよ」
にこにこしている男の人の目は、とても優しくて、暖かな黒色でした。
お父さんの目も、黒い色だったはずですが、ニーナはずいぶんと、お父さんの目を、こんな風に前から見たことがないと思いました。
「ここは月灯公園といって、月なしの夜に、道に迷って疲れた人が、一時の休息をするための場所なんだ」
「げっとうこうえん? そんな公園、私の家の近所には、なかったけれど……」
男の人は、大きな手で、ニーナの頭をごしごしとすると、空に目を移しました。
「この公園は、君の家の近くでもあって、遠くでもある。 僕は、ここでこの街灯の守番をしている、点燈夫、のようなものかな。 この街灯の灯りは、月の光を集めておいたものを、月なしの夜にだけ灯しているんだ」
「ひとりで、やっているんですか?」
「ひとりだよ」
「こんな寒い夜に、ひとりで、怖く、寂しくないですか?」
「そうだね。 寂しいし、退屈なこともあるけど、星空があるから。 星たちはとてもおしゃべりで賑やかだからね」
男の人は、空を支えるように、右手を高く上げました。
「星が、おしゃべりをするんですか? 私には、何にも聞こえないけれど」
「君には君の、聞く音が、声があるから、聞こえないんだよ」
ニーナは、ショールの裾を引き合わせて、身体を小さくしました。
「私の聞く音は、時計の針の音ばかりだもの。 一年前までは、母さまの笑う声や、ピアノの音や、歌う声があったけれど、なくなっちゃったもの」
「その時に、時計はなかった?」
「ううん。 あった。 でも、あんな大きな音には、聞こえなかった」
「お父さんは、いるんだろう? お父さんと歌ったり、ピアノを弾いたりはしないのかい?」
ニーナはうつむいて、膝の上を見つめました。
「父さま。 外国から帰ってきたの。 母さまがいなくなったから、五年ぶりに、家に戻ってきたの。 でも、お仕事が忙しいから、いつも横を向いているわ。 母さまも言っていた。 父さまはお仕事が忙しくて、大変なのだって。 父さまは、時計の音にあわせて、時間正しく動くの。 私にも、寝る時間と起きる時間を、守らせるわ。 父さまは、時計の音しか好きではないの。 歌もピアノも、きっと、興味なんてないのだわ」
「五年かぁ。 僕には、長くない時間だけれど、君達には、短くない時間だね」
男の人は、ふむ、と言うと、ベンチからゆっくりと立ち上がり、ニーナの手を取り、優しく立ち上がらせました。
「街灯。 見えるだろう? その先には星も見える?」
黄色い暖かな光を灯した、まるいつぼみのようなガラスの覆いの付け根は、まるで花の額のような、六つの細くてきれいな曲線の金具で支えられていました。
まるいつぼみの光の先には、小さな星たちが、街灯の灯りの黄色いベールを羽織ったように、淡く、静かに輝いています。
「それじゃあ、しっかりつかまって」
男の人はニーナを、すくい上げるように抱きかかえました。 びっくりして目を丸くしているニーナの顔を見ると、男の人は優しく笑い、目をつぶるように言いました。
ニーナはわけの分からないまま、目をつぶって、しっかりと男の人につかまりました。
ゆらりと、船にでも揺られているように、身体が揺れました。
「もういいよ、目を開けてごらん」
風が吹いているのを感じました。
目を開けると一瞬、どこを見ていいのか、分かりませんでした。 真っ直ぐ前は、真っ黒な闇でした。
「下を、見てみて」
男の人に促され、ニーナは足下を見ました。
ニーナは、男の人に抱えられ、空に風船のように浮いていました。
足下には、暖かな、小さな黄色の灯りが見えます。 それは、あのつぼみのような街灯でした。
街灯のつぼみは、小さな冠のような帽子を、円い頭の上に乗せていたのだと、初めて分かりました。 その下には、もっと小さく、さっきまでニーナが座っていたベンチが見えます。 上から見ると、ベンチは座る人を包むような、ニーナを呼んで腕を広げたお母さんのような形をしていました。
ニーナは驚きで、言葉が出ませんでした。
そんなニーナを見て、男の人は次に、上を見るように言いました。
ニーナの上には、先程よりも大きく、星達が輝いていました。
街灯の、黄色の光のベールを羽織らない星たちは、ベンチから見たときよりも、何倍もきらきらとしていて、とても賑やかで、きれいでした。
「見ているものは同じだけど、場所が違うと、ずいぶんと違って見えるものだろう?」
男の人も、星たちを見上げながら、穏やかな声で言いました。
「同じ物を見ていても、立っている場所で見える部分は少しずつ違う。 同じ音を聞いていても、聞く時によって、違って聞こえるだろう。 同じ人間が、同じものを見聞きしても、場所で、時で、違うように見え、聞こえるのなら、違う人間が、自分と同じものを見たり、聞いたりしたとしても、ずいぶんと違ったものに、見えたり、聞こえたりしているかもしれないね」
ニーナは、男の人の顔をじっと見つめました。
男の人も、ニーナの顔をみて、にこりと笑いました。
「お父さんも、昔は、君と同じくらいの少年だった時があって、青年になって、お母さんと出会って、好きになって、結婚して、君のお父さんになった。 その間に、お父さんはどんなものを見て、聞いてきたんだろうね。 もしかしたら、君の見えていないところで、お母さんと歌を歌ったり、ピアノを弾いたりしていたことも、あったかもしれない」
「父さま。 ピアノを弾いたかしら? どんな歌を、歌ったかしら?」
「それは、お父さんに聞いて見ないと、分からないね」
いつの間にか、ニーナと男の人は、ベンチの前の石畳に戻っていました。
「帰り道、わかりそうかい?」
男の人は、ニーナの頭を、またごしごしとしました。 大きな手は、とても暖かでした。
「たぶん、帰れると思います」
「うん、帰れるよ」
ニーナは、一歩、右足を踏み出しました。
擦るようにではなく、はっきりと、次には左、次には右を。
街灯の灯りが届かなくなる所で、ニーナは振り返り、男の人を見ました。 男の人は、また一人ベンチに座り、やはりニーナを見ていました。
「もらった小石。 種は、どうすればいいんですか? 何の種ですか? どうしたら、芽が、でるんですか?」
「種は、君の好きに育てたらいいよ。 土に植えても、袋に入れて、ポケットにしまっても。 お父さんにあげたっていい。 時が来たら、芽は、でるものだよ」
男の人は、ひらひらと手を振って、ニーナに、先に進みなさいといいました。
「名前、もう一度、聞いてもいいですか?」
男の人は、目を丸くして、そして、またにっこりと笑いました。
「ルーナ。 似ているだろう、君の名前と」
「ルーナさん。 またいつか、会えますか?」
「君がまた、道に迷ってしまったら、会うかもしれないね」
でも、そんなことにはならない方がいいよ、とルーナは、星空を見上げながらいいました。
窓から入る、朝の光でニーナは目を覚ましました。 ベッドの上には、白いショールが置かれていました。
まだ眠たい目をこすると、手の中に、何か硬いものを握っていました。
広げてみると、それは小さな石でした。
朝の光を受けて、半透明の優しい白色の石は、柔らかな光を、そのなめらかな表面に湛えていました。
先に食卓のテーブルに着いていたお父さんは、新聞を読みながら、コーヒーを飲んでいました。
いつもならニーナは、その新聞の陰のお父さんに、ちょっとだけの挨拶をするのですが、手の内の小石を握り締めると、ニーナはお父さんの椅子の前に立ちました。
椅子のすぐ側に立つと、普段は見えなかったお父さんの頭の上が、よく見えました。
今まで気が付きませんでしたが、お父さんの頭には何本か、白い髪が混じっていました。
「父さま。 おはよう」
ニーナのいつもと違う行動に、お父さんは少し訝しげな顔をしましたが、「おはよう」と挨拶を返してくれました。 その後に、少し驚いた顔になって、大きくなったな、といいました。
驚いて大きくしたお父さんの目は、濃い茶色をしていました。
「私、父さまに、教えて頂きたいことがあるの。 この種の育て方。 分からないの。 何が咲くのかも分からないの。 くれた人は、時が来れば、芽は出るものだからって。 私、お花を育てたことがないから、もしかしたら、父さまのほうが、外国のお花なんかもたくさん知っていて、何か分かるのではないかと思って――」
お父さんは、ニーナの手から、小さな淡いミルク色の種を取り、光にかざし、じっくりと見ました。
「これは、お母さんが好きだった月長石に似ているが、いったい、何の種なんだろう?」
「母さまは、月長石、が好きだったの?」
「そうだよ。 月の光のような、優しい石が好きだった。 音楽も、夜想曲が好きで、よく父さんに、弾いて聞かせてくれた。 父さんにも、その曲が弾けるようにって、ピアノを教えてくれたりもしてね」
「父さまも、ピアノを弾いたの?」
ニーナは、目を大きくして、お父さんの顔を見ました。
お父さんは少し照れたように、手の中の種を確かめるように見ながら、答えました。
「ニーナが生まれる、ずっと前のことだよ。 それより、この種のことを調べるのには、ちょっと、時間がかかるかもしれないね」
置時計も柱の時計も、昨日までと変らず、規則正しく時間を刻み、コッチコッチコッチコッチといっているはずです。
けれどもそんな音は、ニーナとお父さんの耳には入ってきませんでした。
半透明の小さなミルク色の種。
あの種は、いつ、どんな芽をだしたと思いますか?
その答えは、ニーナとお父さんだけが、知っています。
ニーナは、それから一度も、月灯公園に行くことはありませんでした。