青年と龍さん
バーンスタイン領を出た馬車は時折、大きめの石ころに乗り上げながらガタゴトと進む。
石畳で整然と整備された王都とは打って変わって土の道が続く。それでも流石王家が用意した馬車だけあって、普段とは格段に違う安定感のある走りをする。
列車での非常事態を乗り越えて僕たちの距離がぐっと縮まったか?というとそんなことはない。あれからレーア様の表情はどことなく暗いままなのだ。ただ、物理的な距離は近いた——
『フィーナ様も、こちらに……』
僕の隣に座ったレーア様は、馬車に乗り込むフィーナを自分の隣へ誘導する。狭くはありませんか?と、気遣うフィーナに『ありません』と即答。フィーナは少し目を瞠ると、優しげな表情を浮かべて彼女の横に腰を下ろした。
レーア様は年齢にそぐわない大人びた方なのだけれど……今この時は、フィーナよりも幼く見えるのだから不思議だ。両脇に子猫を置いてホッと安堵する母猫——そんな様子のレーア様は、らしくないことをしていると思ったのか、俯いてしまった。
(こんな、不器用で愛らしい一面をお持ちだったとは……)
どうしてそんなに必死になっているの……?とか、襲撃者の心当たりとか、本当は聞きたいことはたくさんあるけれど——今は、聞かないでおこうと思った。
代わりに何か良いお話はないか?と考える。此処から先はずっと馬車移動になるし、できれば楽しく過ごしていただきたい。
「レーア様、時間もありますし、宜しければカスパー領に伝わる言い伝えをお聞かせしようかと思うのですが……」
「……どのような言い伝えですか?」
レーア様はキョトンとした顔で僕を見る。恥ずかしがる姿もお可愛らしいけど、やっぱり俯いていない方がいい。
「カスパー家のご先祖様がカスパーを収めることになる経緯のお話です。フィーナは知ってるよね?」
「ええ、龍のお話でしょう?」
「うん!……カスパー領の民なら1度は耳にしたことがある御伽話みたいなものです……」
「御伽噺…?」
そうして、僕はカスパー家とその由来に関する御伽噺を始める——
***
カスパー領ができる以前のこと、フォンゼルラントは今よりずっと小さな国でした。魔物から逃れた人々が集まって田畑を耕し、生活を営む小さな国。王国の北側、今のカスパー領がある辺りには凶暴な龍が住み着いていました。
その龍は、北の地を開拓しようとする沢山の人々を殺し、土地を荒らすので皆とても困っていました。何度か討伐隊も組まれましたが、悉く殲滅される始末。
困り果てた王様に、1人の青年が問いました。——龍は人を食べるのですか?と。食べられた者もいると、王様は答えました。
今度は、龍の主食は人なのですか? と青年が聞くと、王様は知らぬと答えました。それを聞いて暫く考えた青年は言いました。
では、龍が何故人を殺めるのか聞いたことはありますか? と。そんなことを聞く間があるなら皆攻撃をしていたはずだと王様が答えると、青年は何かを決めたように頷き、それでは僕が聞いてみましょう!と言いました。
ヴォルニーという名のその青年は農村出身でしたが、腕っ節が強く周りからは頼りにされていました。
そうはいっても彼は軍人でも勇者でもありません。討伐隊でも倒せない龍に立ち向かうなんてと人々は止めましたが、彼は喧嘩をしに行くのではないから大丈夫だと言って北へと向かいました。
『こんにちは龍さん』
青年は村人に挨拶をする調子で、恐ろしい龍に話しかけます。モヤモヤと黒い瘴気を纏った龍は襲ってこない人間に戸惑いました。今までの人は自分の姿を見るとすぐさま襲いかかってくるか、腰を抜かすかのどちらかだったからです。
こんにちは、と人間が繰り返すので、ガァァア——!!と吼えてみました。脅かしたつもりなのに青年はにっこりと笑ってその日は帰って行きました。
『こんにちは龍さん』
次の日も青年はやってきました。今度は1度目で吼えてみましたが、やはり青年は嬉しそうにすると龍の隣に腰を下ろしてしまいました。そうして日向ぼっこをすると帰って行きました。
『こんにちは龍さん』
次の日に彼は、焼いた鳥を持って現れました。龍さんも1つどうですか?という彼を無視すると、青年は1人でそれを平らげて眠くなりましたと言って眠り始めました。
『こんにちは龍さん……』
次の日に彼はパンを、次の日にはチーズを持って現れました。いつもいつも満腹になっては隣で眠りだす青年を、龍は呆れた様子で眺めていました。彼はいつまで経っても襲いかかっては来ませんし、恐ろしい龍の前に平気で無防備な姿を晒すのです。
毎日呆れたように眠る彼を眺めていた龍は、青年が日に日に薄汚れていくのに気づきました。
『こんにちは龍さん』
ある日龍は、返事の代わりに青年の服を加えて彼を勝手に運ぶと、泉の中に落としました。青年はついに龍が怒ったのかと思いましたが、龍はじっと青年を眺めるばかりです。
もしかして……臭かったのですか?と聞いた青年に、龍はガァァア——!と吼えました。青年は大笑いした後に、ごめんなさい龍さん、龍さんは人より鼻が良いから辛かったですよね?と謝りました。
青年は毎日身体を清めてはいましたが、野宿をしていたのでお風呂には入っていなかったのです。
『こんにちは龍さん』
それからも彼は毎日やって来ました。ヴォルニーと名乗った青年は相変わらず呑気に龍の側でご飯を食べたり眠ったりしていました。時々泉に連れて行ってください!と言い出すこともありました。
天気が荒れた日に彼は龍の元へやって来ませんでした。龍は彼が無事に悪天候を乗り切っているか気になりました。
『龍さん、暫く此処へは来れませんけど、また遊びに来ますから待っていてくださいね。』
ある日そう言うと、彼はすぐに帰って行ってしまいました。
やっと静かになると龍は思いました。次の日もその次の日も彼はやって来ませんでした。もうやって来ないのではないかと龍は思い始めました。静かなのは良いことだ、と龍は思いました。
静かで、静かで良いことなのに物足りないと龍が思い始めた頃、ヴォルニー青年がやって来ました。龍は彼の姿を見るなりガァァア——!!と吼えつけましたが、これでは待ち侘びていたようではないかと思って口を閉じました。
『ごめんなさい、龍さん。遅くなりました』
青年は疲れたような顔をしていました。土埃だらけの青年を加えると、龍はいつものように泉まで運んで彼を落としました。青年を加えた龍は、彼が怪我をしていることに気が付きました。それが気になって仕方なくなった龍は、遂に言葉を話すことにして彼に聞きました。
『どうして怪我をしているのだ』
青年は龍が言葉を話せることにとても驚きました。しかし、彼は色々あったのだとはぐらかしてしまいました。
『ねぇ龍さん、龍さんは人間を食べないと生きていけないのですか?』
『私は雑食だ。』
あまりに真剣な顔で聞くので、龍は答えてやることにしました。青年は次々と話し始めました。いつものように龍に語り聞かせるのではなく、返事を求めて——
どうして龍さんは人を殺したのですか? 僕には龍さんがそんなことをするようには思えません!と俯く彼に、龍は彼らが襲って来たからだと答えました。では、襲わなければ龍さんは他の人間とも仲良くしてくださいますか? と聞く彼に、龍は難しいと答えました。
龍は邪龍でした。争いが好きなわけではないけれど一度負の感情が沸き起こると、沸々と破壊衝動が生まれます。肉を裂き血を浴びると気分が高揚するのです。争いが好きではないと言いながら、一度戦い始めれば争いが好き好きでたまらなくなる……本当に邪悪な性質をしているのでした。龍は正直に青年にそのことを告げてもう此処へは来ないようにと言いました。
龍は彼が誰かに言われて此処へ来ているのだと考えていました。人間が近づかない限りこちらからも襲わないと約束します。負の感情を向けられなければ龍は衝動に襲われることはありません。
これで彼も、彼を寄越した人間も満足するだろうと思いました。
『こんにちは龍さん』
『なんだ、まだお前の主人は満足しなかったのか?』
暫く時が経ち、またやって来た青年に龍は驚きました。
龍は自分の住処を定め、その周りまでなら人が住みついても攻撃しないが、それ以上は決して近づくなと言い含めました。ヴォルニーが悪く言われるのは可哀想だったので、肥沃な土地を人間共に譲り、自分は森を住処にすると定めました。龍は人間が嫌いでしたが、自分を攻撃しないヴォルニーが近くに住むのなら、まぁいいかという気になりました。
『いいえ?龍さん、王様は満足してくださいました。僕はせっかく近くに住むことになったのですから、遊びに来たんですよ?』
彼は当たり前のように隣に座ると、龍にもたれかかって本を読み始めました。相変わらずマイペースな彼に、龍は言い返す気にもなれず好きなようにさせました。ヴォルニーの綺麗な魂は、邪悪な龍の心を落ち着けるようで、龍は彼を拒む気にはなれないのでした。
結果的に血を流すことなく開拓を成功させたヴォルニーに、王様は土地を収める権利を与えると言いました。最初は拒んでいたヴォルニーですが、龍さんは彼以外を領主とは認めないと言いました。ヴォルニーはそれなら一緒に領主になろう!と提案しました。
龍は彼の無茶苦茶な提案に呆れましたが、もう好きにしたらいいと言って了承し、ヴォルニーは名前のない龍さんに友愛を込めて新しい名前を贈ったそうです。龍はそれを自分の真名にして、彼が老いていっても変わらず友人で居続けました。
王様は邪悪な龍と対話して友情を築いたヴォルニーを讃えて、彼と龍が守るその土地に『カスパー”秘密の宝”』という名前を贈りました。
その龍は今でもカスパー領の何処かで生きていて、ヴォルニーが築いた街や、そこに住む人々の暮らしを見守っていると言われています。
***
「——おしまい。」
話し終えた僕は一息つく。
「これがカスパー領の始まりとして伝わる御伽噺です。ヴォルニー青年がカスパー家の初代様だと言われています」
「本当に御伽噺みたいなお話ですね」
「ええ、ですから正確にはカスパー領の領主は僕と"龍さん"というわけです。かなり創作されている話だとは思いますが…」
「そうよね…。実際に龍を見たことはないし、どこまで本当かと聞かれると謎よね……」
と、レーアも染み染み言う。小さい子が『僕が龍さんを見つけるんだー!』と冒険ごっこをするのはカスパー領でよく見かける光景だ。
「カスパー領にはちょこちょこ龍に対する信仰みたいなのが残ってるんですよ」
「そうそう!カスパーでは『悪いことしたらカスパーの龍様に喰われるぞ!』って言って子供を叱ったりするのよね」
「僕達も昔ディーに言われたよねー。フィーナはお転婆だったから特に…」
「う、そうね…懐かしいかも」
知らない人の名前が出てきて置いてきぼりになっているレーア様に説明する。
「ディーというのは、ディドゥリカという人のことです。昔からカスパー家のメイドをしてくれている人ですよ」
「とっても優しい人ですよ!たまに厳しいけど。……今更だけど、ディーってすごく美人よね。私がレーア様の圧倒的な美貌を見ても凹まないのはディーを見慣れてるおかげかも…」
「……?」
「ははは……まぁディーは確かに綺麗だからね」
「お兄様、ディーには緊張しないわよね?」
「いや、だってディーは姉さんみたいな感覚だし」
「まぁそうか……」
昔から我が家で働いてくれているメイドさん。本名はディドゥリカ・ノイマンと言って、執事のブラッツの奥さんだ。小さな頃から面倒を見てもらったから、メイドというより姉みたいな感覚。
それから我が家に勤めてくれている人たちのことを一通り説明した。出発するときの微妙な空気は無くなって、その後も和やかに北へと旅を進めた。