香ばしくて瑞々しい
僕たちの婚約は恙無く執り行われた。
王都にある荘厳な教会の中、ごく一部の高位貴族と王族、エルドウィン夫妻に見守られて婚約指輪を交わす。真っ白なドレスに身を包んだレーア様を前に、やっぱり見惚れて固まってしまった僕——
そんな僕にレーア様は「今日も……驚いてくださっているのですか?」と尋ねた彼女は、コクコクと頷く僕を見ておかしそうに小さく微笑んだ。
僕たちの婚約をもって両国の同盟が締結される。両国を取り持つこの婚約と同盟の成立を祝って、夜会が開かれた。正式に僕の婚約者になったというのに、相変わらず夜会でレーア様はみんなの視線を釘付けにしたし、隣の僕は針の筵になった。けれど前の夜会とは違って——僕たちはずっと一緒にいた。
王都での日程を終え、今は列車に揺られている。行き先は僕らの家があるカスパー領だ。
王都から北へ向かって伸びる線路の上を、列車は滑るように走る。導入されたばかりの魔鉱機関車の線路は残念ながらカスパー領まで届いていないので、途中で馬車に乗り換えることになる。この乗り換えが面倒なのと費用が嵩むという理由で普段は馬車を使うため、これが人生初の魔鉱機関車だ。
機関車から窓の外を覗くと、馬車から眺めるときよりもずっと早いスピードで景色が流れていく。真っ黒い車体の下には重たそうな車両がいくつも連なっていて、見た目はとても重厚なのだけれど、動きはとても軽快だった。
モクモクと燃料の魔石を燃やした煙を吐き出しながら進む列車。先頭に付いた煙突からは、時折蒸気が立ち昇る。
最上級のコンパートメントの向かいには、晴れて婚約者となったレーア様が座っている。僕らが正式に婚姻を結ぶのは1年後の予定だけれど、これからはカスパー領で共に過ごすことになる。
「わぁー!綺麗だ!」
黒くて大きな魔鉱機関車の車体を見た時からワクワクしていた。窓の外を流れる様に通り過ぎる木々が途切れ、美しい川面が光を浴びて輝く様を見た瞬間、ついに感動の声を挙げてしまう。
「ふふ、そうですね」
「こんなに速いなんて、驚きました」
「ええ、本当に。機関車は初めてです。ハノ様も?」
「はい、いつもは馬車だから」
こちらを見つめる視線は優しい。ほのぼのとした楽しい時間だ——隣に彼らがいなければ。
僕の隣にはシュレヒテ侯爵令息ルーベアト卿。その隣にはいつもルーベアト卿に付いて回っているガイスト子爵令息ロート卿が同席していた。
カスパー領への旅程を考案した結果、『帝国の姫君の移動には最高のもてなしと最高の警護がなされるべきだ』ということで採用されたのが、最先端の乗り物である魔鉱機関車を使っての移動。
そして最高の警護として付けられたのが王城の騎士団に所属する彼らだった。
「もう少し落ち着きたまえ。君、田舎者丸出しじゃないかい?」
今日も、何処と無くキラキラした金髪泣き黒子のルーベアト卿は、蔑むように僕を見る。彼は夜会で自信満々にレーア様に言い寄っていた人物だ。彼女に一目惚れ……というのもあるだろうが、どちらかと言うと自分に靡かないのが気に入らないから意地になっているのかもしれない。
チャラついた印象の強いルーベアト卿だが、騎士団で隊長を務める実力者でもある。
「レディの髪を乱すなんて。早く閉めてはどうかね?」
追従する様に苦言を呈すガイスト子爵令息ロート卿。ガイスト家はシュレヒテ家の派閥に入っていて、令息のロート卿は派閥の長であるシュレヒテ家の令息、ルーベアト卿の補佐を務めている。チャラついたルーベアト卿とは対照的に、赤髪色白の神経質そうな青年だ。
彼らが同じコンパートメントにいるのは皇女殿下の護衛の為なのだが、2トップが同じ場所にいて良いのだろうか? それに、この人選には悪意しか感じないのだけど……
「……申し訳ありません!」
彼らの嫌味はともかく、ついつい興奮して周りが見えなくなっていた。慌ててレーア様に謝ってすぐに窓を閉めようとするが。
「ハノ様、もう少し……このままでも?」
「は、はい。もちろん」
隣で小さくチッと舌打ちが聞こえた。レーア様はそれには気づいていないのか、気づかないフリなのか……涼しい顔で窓の外を眺めている。彼女の青銀の髪は風に吹かれて淡く輝いている——今日も、とっても綺麗だ……
1番上等なこのコンパートメントに入った時は驚いた。椅子には深紅のビロードが貼られおり、フカフカとお尻が沈み込む。室内の装飾も、カスパー辺境伯家の貴賓室より豪華かも?と思うくらい手の込んだ作りになっていて、もはやコンパートメントという呼び方は相応しくないのでは?と思った。
レーア様の隣にはフィーナ、その隣にはコードが同席している。3人ずつ座ってもまだゆったりと寛ぐ余裕のある長椅子。用意されている茶器も有名ブランドのものだ。本来ならこれ以上無い程に快適な旅が約束されている、はずなのだけれど……
王宮騎士団の2人は、先程からちょこちょこと僕を小馬鹿にしたり、カスパー領よりシュレヒテ領の方が素晴らしいと自慢したり、レーア様の容姿をベタベタと褒めている。つまりは僕と彼女では釣り合わないぞ!と言っている。
(そんなこと、知ってるよ…)
レーア様はそれに賛同することはなく、少し迷惑そうなのだが、彼らは一向に止める気配がない。カスパー領に着くまでに心変わりさせるつもりなのだろう……
そんな彼らの態度に、フィーナは不機嫌な顔を隠さない。今日も可憐な印象のドレスに身を包んだ妹は、無言で紅茶を口に運んでいる。コードはポーカーフェイスだけれど、いつもの陽気な軽口は無く、完璧な従者を演じて沈黙を保っていた。
何が言いたいかというと……とにかくギスギスとした空気なんです!——これが、かれこれ朝から午後のティータイムを迎えた今までずっと続いている。この調子でカスパーまで行くことになるのか? はぁ——っと、ため息を吐きたい気分だった。
「ハノ様、デッキに出てみてもよろしいですか?」
そんな僕の心中を察してくださったのか、レーア様がとても素敵なお願いをしてくださった。
「はい、お伴します」
「それなら我々が!」
「そうです、カスパー卿では心許ない」
彼らの目的は警護なのだから、その主張はまぁ正しいのだけれど……
「……フィーナ様、コード様、お願いできますか?」
「「ええ、もちろんです」わ」
「「……っ」」
この場で1番身分が高いレーア皇女殿下。彼女がきちんと護衛能力のあるカスパー騎士団の団長を指名した以上、ルーベアト卿もロート卿も自分たちの意見を押し通すことは出来ない。苦い顔の彼らを残して、僕たちは通路へと出た。
「レーア様……ありがとうございます」
「私も……もっと外の景色を見たくなったのです」
部屋の外へ連れ出してくださったレーア様の手を取る。車両の連結部分で強い風に驚くレーア様の壁になり、最後尾を目指す。細い通路を通っては、連結部分を通り過ぎ、扉を開ければまた全く同じ通路が姿を現す。
まるで、終わりのない迷路に迷い込んでしまったかの様な気分だ。それでもこの不思議な状況を面白いと思えるのは、これが本物の迷路では無く、終わりがあるとわかっているからなんだろう——
歩き続けていると唐突にやってきた最後尾。扉を開けた先に次の扉は無くて——木張りのデッキに無骨な鉄の柵、その先では景色がビュンビュンと流れている。
「わぁ——!!」
「——!」
通り過ぎる風が心地よい。深呼吸をした胸に広がるのは、先頭車両から吐き出された煙の匂いが僅かに混じった空気。
それが新鮮に感じられて、胸一杯に吸い込む。こうして外に出て初めて、さっきまでの自分が思った以上に息苦しさを感じていたことに気づく。隣のレーア様も心地好さそうに目を細めていた。
「ここがどこだかご存知ですか?」
「ここは、王都より北のバーンスタイン伯爵の領地、ルイーク湖です。バーンスタイン伯爵領は王国の中でも肥沃な土地と言われています。『琥珀』という意味の『バーンスタイン』と呼ばれる通り、上質な琥珀が取れる地域です。」
「バーンスタイン……ルイーク湖……」
初めて聞く名前なのか、口の中で繰り返すレーア様。
「このルイーク湖はとても美しいと有名で、王都からも近いですから保養地として人気なんですよ」
「そうなのですね。綺麗、です……」
彼女は保養地という言葉に納得する様に頷いてみせた。周囲を高い山に囲まれた穏やかな湖。山の頂上には夏でも溶けない万年雪が積もっており、穏やかな湖の水面には雪化粧の山々が映っている。湖のほとりでは、近くの村から放牧に出された山羊や羊がのんびりと草を食んでいる。
雄大な自然に心が洗われるようだ。隣でレーア様も過ぎ行く湖をじっと眺めている。艶やかな髪と同じく、彼女の長いまつ毛は青銀で、時折瞳を守るようにパサリと閉じられる。
(今、どんな事思っていらっしゃるんだろう?)
同じ景色を眺めていても、彼女と僕は違うことを考えている。それは当たり前のこと。けれど気になってしまうんだ。僕は知らないから。彼女がどんな風に過ごして、何に喜ぶのか、何が嫌いか……
フィーナとコードの2人は、「危ないからあまり乗り出さないように」と注意した後は、僕たちより少し下がったところにいる。彼らは彼らで綺麗な景色を眺めながら何か語り合っているようだ。
普段はあまりに身近過ぎて意識しないけれど、こうして騎士服を着こなした長身のコードと、お出かけ用のドレスに身を包んだ妹が並んでいる姿はとても絵になっている。
2人とも貴族の中で話題に昇る人気者なのだから、当たり前といえば当たり前か? 仲の良い姿を見ていると僕もあったかい気持ちになる。
ずっとこのままでいたくなるような穏やかな時間……
(カスパー領に着くまでの辛抱だ!それまで乗り切れば、毎日こんな穏やかな時間を過ごせるんだ!)
レーア様は領地を気に入ってくださるだろうか? ルイーク湖を気持ち良さそうに眺めておいでだから、綺麗な景色はお好きなのだろう。もっと色々な場所をお見せしたい。
身体が冷えてしまう前に中にお連れしようと思い、最後に目を閉じてすぅ——っと新鮮な外の空気を楽しむ。
魔石の燃えた香ばしい煙の香りに、湖畔の木々から漂う瑞々しい香りが混ざっている。湖畔で薪をしている時のような伸び伸びとした香り。好ましい空気に頬が緩む——