姫君とライラック色の瞳
婚約式の当日、皇女殿下の付き添いをする為に早めに部屋を訪れたアドルフィーナは、兄の婚約者となる姫君を見て感嘆の溜息を零した——
純白のドレスは、全体的に白っぽい容姿の彼女をより一層神聖なものにしていた。すっと通った鼻筋に、薄青の瞳は無表情だと随分冷たい印象を与えるが、出迎えた皇女の目元は僅かに緩んでいる。
「皇女殿下……とても、とても素敵ですわ!」
「アドルフィーナ様……ありがとうございます」
いつかのハノのような間抜け顔ではないものの、一瞬ぼーっと見惚れた後、ハッとした様に賛辞を送る。控えめに応じる彼女を好ましく思いながら持参した小箱の蓋を開いた。小振りの宝石箱の中に大事に仕舞われているのは、透明な輝きを放つ首飾り。
この首飾りは前カスパー辺境伯が夫人に贈ったもの——つまりフィーナの母の形見の品だった。フィーナがコードと式を挙げた時にもこれを身に付けた。
仲の良かった両親の姿はフィーナの憧れの夫婦像でもあるのだ。
いきなり面識もない義母の形見を勧めるのもどうか?とは思いつつ、置いていくのも躊躇われて、荷物と一緒に持って来ていた。
折に触れてそれとなく話に出してみたところ、殿下も何か感じるものがあったのか、身に付けたいと申し出てくれたのだ。
「これが……?」
「はい、父から母へと贈られたものです」
アドルフィーナは首飾りを通して、まだ幼かった頃、ほんのり頬を染めて父との馴れ初めを話してくれた母を思い起こしていた。
普段使いにするには立派すぎる首飾り。母がこれを身に付けている姿を見る機会は殆ど無かった——けれど、父から貰ったのだと話してくれた時の声がとても暖かかったということは覚えている。
「でも…そんな大切なものを……よろしいのですか?」
「ええ、母もきっと喜ぶと思います」
実際、本当に着けてくださるのですか?と聞きたいのはアドルフィーナの方だった。
カスパー家にとっては立派な思い出の品であっても、大国の姫君からすれば見劣りするだろうと、尻込みしていたのだ。
けれど殿下に嫌がるそぶりは無かった。着けて頂けますか?と、控えめに頼まれる。
「殿下がいらしてくださって……よかった…」
「アドルフィーナ様?」
カチリと、皇女様の首に宝飾を着け終えたアドルフィーナは、鏡の中で不思議そうな表情を浮かべた女神に微笑みかける。
「貴女がお兄様の婚約者で良かったと、思うのです。お兄様に誠実に接してくださって嬉しかった——夜会でのこと、驚かれたでしょう?」
「それは……はい。どうしてなのでしょうか?…あの様に言われる方とは、思えないのです……」
殿下は腑に落ちないという表情をしている。彼女ならお兄様の良い所に目を向けてくれるのではないかしら?と、淡い期待を持つ。
兄の評判が悪い理由―――他の人から噂で変に伝わるよりは、自分が話してしまった方が良いとフィーナは判断した。
部屋の隅に控えていた侍女達に外してもらうと、少し長くなるかもしれませんが、と切り出す——
***
「王立学院——フォンゼルラントでは年頃の貴族の子弟や、商家の子が通う学院があります。義務ではありませんが、貴族の子弟にとってはステータスみたいなもので、殆どの者が入学します。お兄様も入学しました。そこでは座学の他に、魔術やそれを使った実技の時間もあります」
「実技」という言葉を聞いたレーアの頭には『私は弱いのです』と歯がゆさを滲ませたハノの表情が浮かびました。
「お兄様は、座学では優秀な成績を修めていたと聞いています。それをきちんと評価してくださっている方もいらっしゃるのですが……生まれ付き魔力は弱く、体も強くありませんから、実技は……」
「実技で、何か問題が……?」
思い出す様に目を閉じた彼女は、苦みを含んだ声で続きを話します。
「……学院に入って2年目の学期末に、魔術ありの実技トーナメントがあったんです。お兄様に参加の意思はなかったのですが、カスパー家の家柄を引き合いに出されて参加せざるを得なくなり……1試合目でこてんぱんに負けてしまったそうです。戻られた時のお兄様は、酷い…お顔でした。何もおっしゃらなかったけれど、コードが拳を握り締めすぎて血を流していましたもの、きっと執拗に嬲られたのでしょう……ほんとうに、今思い出しても腸が煮えくり返りそうです」
最後の一言で、一段声を低くしたアドルフィーナ様。その瞳が仄暗く光るのを見てレーアは思わず背筋を震わせました。
一瞬、彼女からは狼の様な鋭い気配が漏れ出ていました。今日も令嬢らしく、ふわりとした柔らかい色合いのドレスに身を包む彼女ですが、本質はこちらなのかもしれない……と思いました。
「その実技トーナメントの後、お兄様が学院に戻ることはありませんでした。それで『恥ずかしくて戻れなかったのだ』とか、『負け犬だ』とかいう者が現れて——実際にはカスパー家を継ぐ為に、元々その学期末で領地に戻られる予定だったのですが……」
「でも……ハノ様は騎士ではなく、領主様ですのに……」
武術が苦手な貴族など、別に珍しくはないでしょうに。なぜ、そこまで…
「ええ、武術が苦手なら他の者に守らせれば良いのです。領主なのですから。ですが、カスパー家は領主になって以降、侵略を許すことなく国境を守り続けている武勇のある家柄です。『カスパー辺境伯は武術に優れているべきだ!』という、偏見があるのです。お父様もお強いことで有名でした——それに、お兄様と入れ違いに入学した私の方が、武術の才に恵まれていたのです。そのせいで余計に……」
なんと声を掛けたらいいかわからなくなって口を閉ざしたレーアに、兄思いの令嬢は懇願しました。
「殿下、どうか周りの言葉に惑わされることなく、お兄様自身を見て判断して欲しいのです」
「……ええ、その様に、致します」
静かに、けれどはっきりとそう約束すると、彼女は安堵の表情を浮かべました。
「気になっていたのですけれど……皇女殿下はどうしてあんなに悪く言われているお兄様の手をお取りになったのですか?」
「それは……」
あの日のレーアは気分が浮きませんでした。いいえ、あの日ではなく前日に『良い方に出会われたら……』などと言われた時から。モヤモヤとしたまま会場に入ると、今度は訳の分からぬ悪口が耳に入ってきて——あの不躾な令息に手を取られて、そう——
「不快だったのです」
「えっ……!?」
「ハノ様の時は、そんなこと……なかった…のに………」
ハノ様は気遣ってくれます。初めて会った時から。あの令息の様に不躾ではなく、レーアが気持ちを話すまでじっと待っていてくれます。だから……?
自分でも考えが纏まらなくて、もごもごと尻すぼみになったレーアの手を、アドルフィーナ様が包みました。
「あの……?」
「皇女殿下……殿下とお兄様にはきっとまだ時間が必要なのですね。大丈夫です、もしもの時はエルドウィン家にいらっしゃればいいですわ」
「へっ……?」
「婚約や婚姻をどうにかすることはできませんけれど、もしお兄様とどうしても上手くいかないときは、匿って差し上げることなら出来ます。その時はエルドウィン家で楽しく暮らしましょう?……ですから心配なさらないで?思うまま、お兄様と向き合ってみてくださいな」
椅子に座るレーアに目線を合わせて、雪の様に白い手に自らの両手を重ねたアドルフィーナ様。その手は愛らしい見た目から想像するよりもずっと硬くて、剣を持つ人の手でした——
彼女のライラックのような薄い紫の瞳がこちらを覗き込み、優しく溶かすようにレーアを包み込みます。
この方は……この方の温かさは、ハノ様に似ている、とレーアは思いました。