手紙は突然に
ハノが幸せを噛み締めるよりも数ヶ月前のこと。
その日、フォンゼルラント王国の辺境の地、カスパー領の領都に建つ小さな城には衝撃が走った——
「えっ?——王城から?」
「はい! 国王陛下からの書状をお持ちだとか。今、執事長が応対しています」
カスパー家に仕えるメイドのディーが、珍しく慌てた様子で知らせてくれる。慌てて向かった玄関先には、真っ白な隊服に身を包んだ王城の騎士が立っていた。
「ハノ・ヴィドス・フォン・カスパー卿、ご本人か?」
そう確認されてから手渡された手紙には、はっきりと王家の紋章が封印されていた。何事かと目を見張るハノに騎士が声を掛ける。
「今ここで開封願えますか?返事を頂いて帰るようにと命じられています」
そうして、恐る恐る開いた手紙の中身に目を通す。
「——謹んで、承りました……と、そうお伝えください」
「…相分かった」
手紙の内容は思いも寄らないものだった——
(僕はきちんと返答出来ていただろうか?)
まだ隣国との開戦の知らせの方が驚きは少なかったかも——ここは国境に面しているし。いや、物騒な知らせじゃなくてよかったのだけど…などと、取り留めもない考えが頭を過ぎる。
あんまり衝撃的な内容だったものだから、ちょっと混乱してしまっている。
キビキビと王城へ取って返した騎士殿の姿が消えた途端、執事長のブラッツが真剣な顔で詰め寄る。
「ハノ様……いったいどのような要件だったのですか!?」
「執事長、少し休んでから伺いましょう? ハノ様、酷いお顔ですよ。お茶をお持ちしますから、ね?」
何事かと張り詰めた様子のブラッツに対して、後ろでハラハラと成り行きを見守っていたディーが、中で休むように促す。
「ディドゥリカ……ああ、それがいいな。——ハノ様屋敷へ入りましょう」
「そうだね、ありがとう。ブラッツ…悪いけどすぐにフィーナとコードを呼んできてくれる?みんな集まってから話すよ」
「かしこまりました」
(それにしてもどうしてこんな話になったのか…?)
ハノはほぅーっと溜息をついた。あまりに予想外の通達に、どう受け止めて良いものか、心が追いつかないのだった。
***
普段よりもカッチリとした服に袖を通し、宿屋の鏡を見ながらブラシで髪を撫で付ける。
丁度朝の支度を済ませたところに、扉がノックされる。返事も待たずにひょこりと顔を覗かせたのは妹のアドルフィーナだ。
「準備は出来た?お兄様。」
「フィーナ、うん出来たよ。——ねぇ、変じゃない?」
国王から手紙が届いてからというもの、僕達は目まぐるしく支度を進めた——そして今は領地を離れて遠く、エカードライヒ帝国との国境付近まで来ている。
そわそわしながら身なりがおかしくないか尋ねると、フィーナは真剣な目つきで上から下まで僕の姿を確認する。
「そうね……流行とは違うけれど……流行り廃りのない型だし、生地は良いし…」
僕の首元に手を伸ばしてスカーフを整えてながら『私のドレスよりもお兄様のものを新調したらよかったのに…主役はお兄様なのよ?』と、不服そうに口を尖らせる。彼女はこの日のために服を新調するよう勧めていた。けれど僕は、お父様のものを直して使うことに決めてしまったのだ。
残念ながらカスパー家は、貴族としては貧乏だ。大事な日の服ですらお直しで済ませたくなるくらいに。
僕は今日の自分の服を新調するよりも、数日後に出席する夜会用に、フィーナのドレスを新調することにしたのだ——父上の服を直せばなんとかなると思ったから。
それでも王宮の夜会に出席する以上、夜会用の礼服は自分の分も新調した。お財布がとっても軽くなった。
我が家のお財布事情を知っているから、フィーナはほとんど物を強請ったことがない。
僕より3つ年下で、まだ17歳。このくらいの年頃の女の子なら、ドレスや宝石に興味を持つだろうに『私に宝石を買うよりお兄様と領地の為に使って?』と口癖のように言う、本当に立派な妹だ。
僕たちの両親は早くに亡くなり、フィーナは幼い頃から僕と一緒に領地を守ってくれている。今回だって、国王陛下からの手紙に動揺する僕を支えて、ここまで付いて来てくれた。最愛の妹と、それから親友のコードが共に来てくれたことが、どんなに心強いか…
(もう十分緊張しているのに、王都に戻ったら慣れない社交が待ってる……)
彼らがいなかったら、もっと気が重かっただろう。当たり前のように同行を申し出てくれた彼らに、僕はいつも助けられてばかり。せめて、ドレスくらいは新しいものを用意してあげたいと思った。
そぶりは見せなくても、フィーナだっておしゃれに興味がない訳ではない。可愛い妹が格好を笑われる、なんてことはご免だしね。
「フィーナは女の子なんだから、こうゆう時には着飾るものだよ。」
「——もうっ、お兄様はいつもそうやって…」
「フィーナ……妹想いの兄上に、感謝いたします。お陰で妻の可愛いらしい姿を見れます。……俺用の新しいスカーフもありがとな!」
いつの間にか姿を現したコードが、やんわりと新妻の言葉を遮り、わざと畏まった態度で御礼を口にする。終わりのほうは、いつも通りの彼だったけどね……
義兄だから”兄上”で間違い無いのだけれど、小さな頃から共に育った兄貴分のコードに”兄上”なんて言われると、ひどくむず痒い。フィーナも可笑しかったようで、クスクスと笑っている。
「コードったら!……お兄様、新しいドレスをありがとう。実はとても気に入っているの!夜会、楽しみにしていてね?」
「ああ、楽しみにしているよ。」
嬉しいのに素直に喜べずにいたフィーナ。コードは少し不器用な新妻を、優しい目で見守っている。気を取り直した彼女は、もう一度僕に目を向けた。
「うん…サイズはうまく直ってるわね。でも、何だかこの服を着てると…お父様が帰ってきたみたい…」
懐かしむような顔。その顔は普段よりもずっと大人びていて——どきりとする。「いつの間にか可愛い妹が、大人になってしまっていた!」みたいな、嬉しくて寂しい気持ちになる。
複雑な表情を浮かべていると、コードが明るい声で僕を褒めてくれる。
「今日のハノはシャキッとしてるぞ。立派な俺たちの辺境伯様だ!」
「ふふ、ありがとう!」
豪快な雰囲気で、一見ガサツそうなのに、彼はとても気遣い屋さんだ。
僕の親友で、妹の旦那さんで、カスパー領の騎士団長。今日は大事な日ということで、彼も正装をしている。普段の隊服よりも装飾が多い、騎士団の礼服に身を包んだ彼は、贔屓目なしにかっこいい。
カスパー騎士団の礼服は、王都の騎士団の服と比べると地味だけれど……それでも、背が高くて鍛え抜かれた身体のコードが着ると、とても様になる。令嬢たちの目をさらってフィーナに睨まれる姿が目に浮かぶよう——
一方の僕の妹はというと、何故か彼女も騎士団の正装だ。フィーナは他の騎士に劣らぬ実力を持っていて、実際にカスパー騎士団にも所属している。だから、別に間違った服装ではない。
とっても凛々しいと思うよ?僕よりずっと格好良いと思う!……思うのだけど……うん、夜会には新しいドレスを着てくれる予定だから何も言うまい。
「お兄様、昨日はよく眠れた?」
僕の頬を捕まえてグリグリ揉みほぐし始めるフィーナ。国王陛下からの手紙が届いてからというもの、準備に大忙しだった。領地を立ってからの2週間の方がゆっくり出来たと言える。気心の知れた家族との旅は楽しくもあった。
けれど観光旅行に来ているのではないし、領地の屋敷にいる時ほどは安らげなかった。特に昨日は、眼が冴えて中々寝付けなかった。
「うん…眠ったよ。」
——嘘ではない。
「本当? でも、何だか顔色が良くないし、ほっぺたもガチガチよ? 緊張するのはまだ早いわ。馬車で少しでも眠って。」
「うん。」
「ハノ、大丈夫だ。今日は迎えに行って少し挨拶するだけだろう?」
「うん…」
「いつも領地のみんなの様子を見に行く時みたいにしてれば大丈夫だ。いつもと一緒だ、な?」
コクリ、と返事をした僕の頭をグリグリ豪快に撫でて、と外へ向かうコード。
もうっ!コードっ! と愚痴を零しつつ、乱れた髪を整えてくれたフィーナにそのまま手を引かれる。
屋敷の外には豪奢な馬車が止まっていた。うわー立派だね!と小声で囁くと、コードもちょっと面食らった顔をして、さすがは王家の馬車だな……なんて言う。
本来は王都で顔合わせをする予定だった。けれど国境までの出迎えを申し出たところ、王家から貸し与えられたのがこの煌びやかな馬車だ。帝国の姫君を、質素な馬車に乗せるわけにはいかないということらしい。
(どうせ、すぐバレるのに…)
王家の好意を、一介の辺境伯が断ることもできないので、有り難く使わせて頂くことになった。
せっかくだからフカフカの馬車を堪能しましょ!と言い出したフィーナは、コードを連れて馬車へ乗り込む。僕も折角だからフカフカを楽しもうと決めて彼らに続いた。
僕たちが向かうのは、フォンゼルラント王国とお隣のエカードライヒ帝国との国境線だ。2週間かけて領地と真反対のこの地までやって来たのは、ある高貴な人を出迎えるため——
『ハノ・ヴィドス・フォン・カスパー辺境伯に、レーア・エルリカ・フォン・エカードライヒ姫との婚約を命ずる』
カスパー家に衝撃をもたらした手紙——国王陛下からの突然の手紙の内容は、カスパー辺境伯であるハノに隣の大国エカードライヒの皇女殿下との婚約を勅命するものだったのだ。
今日、僕は初めてその人に会う——突然僕の婚約者になってしまった、隣国のお姫様に——