第三章ー2 アンノウン101・名無し
「カエセ、カエセ」
暗闇の中で声が聞こえる。
「ボクハ、ハヤイヨ。ダレモ、ダレヨリモ」
その声は遠くから聞こえていたはずなのに、もうすぐそこまで迫っている。
「タスケテ、タスケテ」
違う。すぐそこではない。近くでも無い。
これは、内側から聞こえる。
「オマエダ」
自分の中にいる。
内側からこじ開けようとする力は、生と言う尊い物ですら投げ捨てたくなるほどの苦痛を与える。
それでも生もこれも手放さないのは、偏にそれに耐えられるだけの信念を持ち続けているからだ。
そして、
「クラエ」
この声に、後押しされているから――。
「何してるんですか? 先輩?」
そんな中、聞き慣れない声が、内側ではないどこか遠い所から聞こえる。
瞬間、少年の意識は覚醒する。
ビル群の中に僅かな隙間を縫って見える空は既に闇に沈んでいた。
その中間には、眼鏡をかけた薄茶色の短髪少年がこちらを伺っている。
「涼花か……何してんだ?」
「寧ろこっちの台詞ですよ。何でこんな所で寝てるんですか? やっぱサボり?」
「それを言うなら専ら屋内担当のお前はどうなんだ?」
「僕? 勿論サボりですよ?」
職務放棄を何の悪気も無く言いふらす姿に雅紀は呆れもしなかった。言葉遣いの違いなんかはそれ以上に小さな差異であり、エンブレムの人間の大半は習慣の一つとなっていた。
「で、先輩は何でこんなところで寝てたんですか?」
「いつもの発作だ」
ペテンのことは隠して、雅紀は返事をする。
「よくそれで平気でいられますね」
「お前もその一人だろ。性格変わって苦労しねえのか?」
「エンブレム以外の人だとおかしな人に思われちゃいますから、あんまり外には出れません。そもそもインドア派だからいいんですけど」
自重しながら手に持っていた350ミリ缶のコーラに口をつける。ぼさぼさな髪に洒落っ気の無いぶかぶかパーカーにシャツ、しわしわハーフパンツで男のような口調で話すので声変わりの遅い青少年に勘違いされてもおかしくはないが、上半身にある二つの球体は紛れもない女性である証だ。
「いつか、どれが自分なのか分からなくなる日が来るんじゃないかって恐れはありますけどね」
「自業自得とはいえ強制だったからな」
「先輩は自主的に取り入れたんですよね? 怖くないんですか?」
元から持っていた。と言う事実を知っているのは俺の記憶処理に来たエンブレム社員と折川悟くらいである。ペテンから受け取ったことについては誰一人として知らない。
「目的があるからな。恐れるとしたら、それが完遂出来なくなることだな。――――」
「先輩?」
押し黙る雅紀を見て、涼花が問いかける。
が、雅紀から返事は無い。先ほどのペテンの言葉がどうにも頭から離れないのだ。
(俺が復讐以外の何か違う目的を得るのか? 或いは復讐を果たせずして……)
後者は勿論だが、前者であっても雅紀としてはあまりうれしくは無い。語り手が喉を潰す、ピアニストが指を切断する位、彼にとって生涯必要な物が削ぎ落されることになるのだから。
「先輩。体調良くないならもう帰って休んだ方がいいですよ? 先輩は常に前線張ってるんですから、倒れた時点で終わりですよ?」
と、常にブラック労働下に投入されやすく、エナジードリンクが手放せないような生活をしている涼花に言われるのも酷だが、アンノウンは大概が命を奪うような凶暴な存在。故に後方支援担当の涼花よりも雅紀の方が危険ではある。
「大丈夫だ。こんなことで朽ち果てる俺じゃ」
その直後だった。何かが衝突するような音が鳴り響いたのは。
「こっちは大丈夫じゃなさそうだな」
「事故ですね。それも大きな」
人が多い故に事故も多い都市部ではあるが、これほど盛大な音を鳴り響かせる事故はそこまで無い。ネットの普及で田舎の事故でさえニュースよりも先にSNSで情報が広がる世界。都会の野次馬はこぞって一番乗りを目指そうとするに違いない。
「先輩行きますよ」
そしてここにもその野次馬体質がいた。
「さっき休めって言ったのはどこのどいつだ?」
「これは緊急時ですから仕方ないんですよ。それに一番乗りは捜査の基本です」
「お前は警察じゃないだろ?」
「それ以上の秘密組織ですよ?」
涼花の言い分はもっともであった。
そこら辺の都市伝説に匹敵する組織に、雅紀たちは属しているのだから。
アンノウン16・最速のランドセル 危険レベル2
実験記録
1.100mを7秒
現世界記録である9秒台を2秒も上回るように設定した結果、スタートした瞬間秒速約15メートルに達し、そのままの勢いで100メートルを走り(飛び)100メートルのゴール地点でピタリと止まった。被験者であるゴートは一瞬の出来事と急な加速、停止の連続により三半規管が酔っぱらい、ゴール地点で嘔吐した。
2.1000mを1分20秒 (200メートルトラック)
現世界記録を有に超えるスピードであり、なおかつ周回する場合どのような動きを見せるかを実験した結果、アンノウン16を担いだゴートは最短距離で体を地面から30度に傾けたバイク乗りのような姿勢でコーナーを走り(飛び)見事と時間通り5周走り(飛び)終えた。その後ゴートは「ジェットコースターに長時間乗ったようだ」と言ってから嘔吐した。
3.南鳥島まで10秒
南鳥島までは本州から1800kmも離れている。そこへ10秒で行くという無茶振りをさせた結果、ゴートは水上とほぼ平行の状態で飛び(最早走れない)ジェットスキーのような水飛沫をあげながら一瞬にしてスタート地点から見えなくなった。一方のゴール地点ではアンノウン16によって発生した津波が押し寄せ、危ないと判断した研究員が一斉にヘリに避難したが、3人が逃げ遅れ、ゴート1人と研究員1人、護衛2人の4人が死亡する大惨事となった。