第一章ー1 エンブレム
芋洗い状態の都市内部を一人の少年が歩く。
ギャルたちの甲高い恋バナ。
車の排気音に無意味なクラクション音。
あらゆる音が入り混じった中で、少年はただ一つの音と常に対峙しようと試みていた。
本来ならば夜の静寂を迎えた時にでも行うべきなのだろうが、どうやら相手はかなり捻くれているらしく、夜には一切姿を現さないと言う。最も、彼が相手をする奴は大概が捻くれていて、その彼自身も相当な捻くれ屋である。
慌ただしく動きまわるスーツ姿のサラリーマンもいれば、喫茶店でお茶をしながらパソコンと向き合うサラリーマンもいる。売りにしている物は違えど、同じ業種でもここまで差がついてしまう理由の一つに知識量が含まれている。
知っているか知らないか。それはどの世界においても重要視される。
彼の世界にとって、それは生死を分ける。
スタスタ。
聞こえた。
既に犠牲者が出ている以上、ここで食い止める必要性がある。
だが、ここで振り向いてはいけない。人目が集合体の如く軋めく中央部で惨劇を起こす訳にはいかない。下手すると余計な犠牲者を生むことになる。
少年は一般の通行人を装いどんどん中心部から通行量の少ない小道、そして人通りのほとんどない裏路地へと歩を進め、引き付けていく。
首を左右に振る。この時絶対に180度を超える訳にはいかない。今回の相手は相当シビアな判定をしていると同僚から教えられている青年はそれに忠実に動く。
(よし、誰もいない)
少年は視覚、それに一般人には持ち得ない感覚でそれを察する。
そして意を決し、後ろを振り向いた。
そこには、先程確認した通り誰もいなかった。
「みないで……」
そして後ろに誰かいることも、青年の首元に真っ白な腕が絡みついていることも、全て確認済みだ。
「アンノウン16・最速のランドセル」
その腕を振り払う。いや、寧ろ真後ろにいた不審者を吹っ飛ばす勢いで少年の体が前方に急加速する。
「アンノウン48・乱れた地盤」
このままでは目の前にある壁に全身が直撃しようとした瞬間、青年の体が90度傾き、ビルの壁に足から直撃。磁石でも仕込まれているのでは無いかと思わせる姿勢で青年は今飛んできた道を見上げた。
ビルの壁を散歩するかのように地上に戻る最中、青年は背後から忍び寄っていた不審者の確認をし、相手が普通の人間でないことを理解した。
背丈は160も無い小柄な女性で服には相当のこだわりがあるのか、どれも高級そうな品ばかりで揃えられている。そこまでなら一見すると高給取りの夫がいるマダムなのだが、その考えを一掃するほどインパクトのある顔立ちは見るに耐えがたい。
「みないで! みないで!」
「望んで造っておいてそれか。哀れだな」
口や鼻の周囲には荒い縫い後がくっきりと見え、品質は高価な宝石であるにも関わらず、チェーンやリングは釣り糸やプルタブのような酷い扱いだ。左右の目が全く違うのも不気味さを際立てる。
青年の無慈悲な一言はマダムの怒りを買う。
ジンクスである後ろから絞め殺す手はもう使えない。振り向いた時に背後に瞬間移動してから絞め殺すのが、このアンノウン44・作り上げる美貌の能力だからだ。
対抗手段が真正面から襲い掛かるしかない作り上げる美貌は、相手がただの人間だと残念ながら思い込んでいるのだろう。
「さて保護するか。俺には必要のない物だ」
襲い掛かる変異を前にして少年は全く怖気づく気が無い。
女は目の前に迫ってきている。ぼろ切れのような黒い腕にシルクのような白い腕を縫い付けた手が少年の首元へと狙いを定める。
「アンノウン192・ガラス片の怨恨」
「あぁぁっ⁉」
女が少年の首元に手を伸ばした瞬間、女の手に激しい激痛が走り、そのせいで少年への殺害を断念せざるを得なくなった。
女は自身の手に深々と突き刺さったガラス片を見て苦悶の表情を浮かべる。
だが、それは序章に過ぎなかった。
ガラス片は見える限りだと腕にしか刺さっていなかった。
が、その激痛は顔にも伝播する。
その証拠が、地面にぼとっと言う音共に現れた。
「あぁぁぁっ! みないで! 私の酷い部分! みないで!」
それは女性が無理矢理取り付けた鼻であった。
鼻を取ると同時に、自身の醜くなってしまった顔を隠す為に地面に座り込む女性。鼻を元あった場所に戻そうとするも、ガラス片が邪魔でつけ直すことはおろか、更なる痛みで苦難の末に揃えた目、耳、えくぼ、歯が次々と落ちていく。
「無力化と。後は抵抗できないようにして連絡――」
少年は女性に同情する気を一切見せずに淡々と次の作業に移ろうとした。そこで、あることに気が付いた。
「全部忘れてきたな」
ピュンッ‼
少年のトンマに粛清を。と言わんばかりに耳元を音速で何かが通り抜け、彼の髪の毛数本を抹殺した。
「あっっがっ……」
一方無神経の生え代わりの激しい髪の毛では無く、神経が大量に通う心臓部付近に何かを撃ち込まれた女性はガラス片とは違う新たな痛みを受けた後、操り人形の糸がプツリと切れたかのように地面に突っ伏してしまった。
「よし、任務終了」
「任務終了じゃないわよ、あほ!」
後ろから新たな殺意を感じた少年はすぐさま避ける――ことは無く、ある程度の覚悟の元やるべきことを済ませてから、甘んじて制裁を受けた。
「危ないぞ佳澄。ガラスの串刺しになる所だったぞ?」
「先に言うことがあるでしょうが!」
頭部に思いっきし平手をぶち込んだにも関わらずこの程度のうっすい反応をされて、佳澄はかなりご立腹だった。
が、それも致し方なく、180センチ以上背丈のある少年に、150センチがやっとの少女である佳澄がどんなに頑張ったとしても、毎日ベンチプレスをするほどの筋力トレーニングしない限り、相手を悶絶させる威力を期待することは出来ない。
おまけに言えばこの唐変木は痛覚どころか感情をあらゆる場所に捨てきったかのような人間故に、例え先ほどの化け物女に首を捻じ曲げられる位絞められても然程反応はしなかったに違いない。
「雅紀が何もかも忘れて任務に行ったって涼花が教えなかったらこれどうする気だったの⁉ 裏路地だからって人通りが無い訳じゃないからね! どう見ても殺人現場よこれ! 見なさいこっっ――⁉⁉⁉」
佳澄は少年、雅紀に業務怠慢を叱責し、そのことがどれだけの被害と面倒ごとを生むかを説明した中で、例のアンノウンを確認しようとしゃがみ込み、脳内がパニックを起こす。
「うっぶぶのぼぼぼぇぇぇ……」
綺麗な口や目が散乱し、女の顔は穴の開いた各パーツに腐りきった赤黒い肉が見えている。その姿は見るに堪えがたい物で、それを見た佳澄は胃の中にあった全てが脱出を試みようとしていることを理解し、すぐさまビルの隅に移動することが脳内可決された。
その結果、生ごみを漁るねずみたちにまた新しいご飯が誕生した。
「昨晩飲み過ぎたのか?」
「飲んでないわよ。後9ヶ月法律上は飲めないから!」
雅紀の冗談には到底取れない質問に、真っ当な答えを返す佳澄。
しかし、彼女の体格は勿論のこと、白いシャツにワンポイントの赤いリボン、薄茶色のチェックスカートは考えようでは学生服に見えなくもない。これに片手鞄を持たせて金髪をイメージしたのだろうけど、失敗して白髪のようになってしまった髪を脱色すれば立派な女子中学生の完成である。
「ならいい。とりあえずこっちの方も法律が絡む前に何とかするぞ」
「本来ならあんたがするはずだったのよ。全く――はい。こちらエージェント花小金井。アンノウン44・作り上げる美貌の無力化に成功しました。つきましては現在地をGPSにて確認の後」
「それとだ。あれ、何とかしてくれ」
「収容の方をっ⁉」
雅紀の尻拭きを完全に任された佳澄がスマホで本部と連絡を取る最中、雅紀が割って入ってくるも無視しようとした佳澄。しかし、無視できなかった。そのせいで変な空白が電話間で生まれてしまった。
「あ、は、はい。収容、願います」
通話をオフにする。
と同時にスマホがメキメキと悲鳴をあげ始めた。
「こ、これは?」
「ジェットで飛んで、地盤で着地点にした」
「説明しなくてもわかるわよ!」
バラバラ殺人事件の証拠隠滅もそうだが、佳澄の前にはそれ以上の隠蔽すべき最優先事項が待ち構えていた。
ビルの背面。窓ガラスの取り付けられていない一面コンクリートの壁に、隕石でも落ちたのかと言わんばかりのクレーターが出来上がっていた。
前者は収容に清掃の小半時間程度の簡単なお仕事だが、後者はそうもいかない。
それ以前に問題は現在進行形で倒壊の危機を迎えていることだ。
「という訳でよろしく」
「よろしく。じゃない! あんたいっぱいアンノウン抱えてるんだから対策位できるでしょ⁉そもそもこうならないように努力は出来なかった訳⁉」
雅紀の身勝手な受け渡しに、佳澄は問題解決と事前予測を交えた抗議をし、黒板の如く壁を叩いた。その衝撃で僅かな崩壊が起きたことに焦った佳澄が壁を支えるように押さえるが、焼け石に水の効力すらない。
「俺は目的に沿ったアンノウンだけを取り入れる。こいつも奇襲に使えそうだったが、絞殺は決定打にかける。おまけにバレたときの悪あがきは酷いの一言だ」
「その考察を別のところにも使えないかな⁉」
圧倒的攻撃脳は自身の引き出しの中にリペアツールなど入れない。いっそリペアツールですら殴打の武器に仕立てあげるのが圧倒的攻撃脳。最速のランドセルもまさか武器として扱われるとは思ってもいなかっただろう。
「寧ろこれだけの被害はアストラル・マキナの出番じゃないのか? 危険レベル5の力ならこの程度どうってことは無いだろ?」
「同LVのあんたが言うんじゃないわよ……。同LVなら分かるよね? リスクってのを」
雅紀と佳澄はアンノウンと呼ばれる異常生体を扱う同業者だ。もっとも、殺意を持った人間を対処するために体が突然跳んだりガラスの欠片を出すような人間が一般的な業者の訳が無い。
だからこそ隠蔽だの収容だのを行って一般人にバレない様にカモフラージュしている。そんな仕事を請け負っているのにも関わらずビル一棟を倒壊させたとなれば、どんな責任追及が来ても逃れることは出来ない。
それでもやりたくない事の一つや二つ位はある。
それに関してはどんな職種であろうとも付きまとう問題であり、一つに辛い、一つにめんどくさい、一つに危険などとやる気を削ぐのには十分な理由が当てはまる物ばかりだ。
「このビル倒壊したら幾らで揉み消すことになるんだろうな? 云百万で済むか?」
「済まないわよ! 億LVよ‼ あぁぁっ! もうヤダぁー‼」
佳澄は憤慨するも、心は決まった。お金を払えば済むことなのだから。佳澄にとってはそれが大きな損害となる。雅紀との境遇の差(雅紀が救われない境遇であることを佳澄自身が自覚していても)が生み出すジレンマに苛まれながらも覚悟を決める。
佳澄は一旦心を落ち着かせるために深呼吸をし、空に上下真逆の三角形を人差し指で刻む。
「時の流れは流水の如く残酷。堕ちた水は永遠に元に戻らぬ。されど、それは偽りの世界で嘆く三つの次元しか知らぬ者の驕り。我が魔力の前にあらば、四つ目の次元は意図も簡単に具現化す。時を刻めしクロノスの針は今その動きを変えることになる――」
「相変わらず長げえな」
今後ろにいる無神経の世界軸に歪みを描き、そのままアビスへの渡航を強要させん回し蹴りをぶち込みたい怒りに駆られるも、徐々にアスファルトに落ちた欠片が宙に舞い戻り、ビルの壁にパズルさながらはまり始めている。ここで全てを無駄にすることは彼女の心をバッキバキに折る結果になるので、それはどうしても避けたかった。
「時は戻り、全ては誰も知らぬ並列世界の産物へと化そう。我が名はアストラル・マキナ。全知全能を司る時空神なり!」
六芒星が一際強い光を放つ。
光の果てに現れたのは、古びたビルの壁。
そこに出来ていたクレーターは完全になくなり、絡まっていた蔓や蜘蛛の糸一本含め、全てが元あった形へと元通りに戻っていた。
「……はぁぁぁぁぁっ……」
一世一代の大仕事をこなした佳澄はそのまま地面にへたり込んだ。
この作業は力を使う訳では無い。先に出た辛い、めんどくさい、危険も全くない。
ただただ、言えるのは一つ――――物凄く恥ずかしい。
「ご苦労様。永遠の14歳」
「二つ名で言うなぁぁぁー‼」
収容班が駆け付けたのはその後すぐだった。
壁の隠蔽には成功したものの、言い争う二人を目撃した収容班は、ここで何かがあったことを直感した。
それでもやるべきことを済ませている以上、何のお咎めも無く、自分たちは自分たちで無力化されているとは言え、凶暴なアンノウンを収容する気を引き締めなくてはならない仕事に打ち込むのであった。
全ては表沙汰にならなければ良しとする。
騒ぎになれば隠す手段を用いる。
それが、アンノウンの収容、研究を常日頃行う秘密結社『エンブレム』のあるべき姿なのだから。
アンノウン173・永劫の引き出し 危険LV5
調査報告
アンノウン173は一辺が30センチの正方形でできた木製の箱であり、4つの側面にはそれぞれ銅製の金具がついた2段の引き出しが備え付けられている。引き出しの中には何も入っていないが、20センチ開いた時点でそれ以上引くことはできなかった。
この時点で一つ不可解な点が判明する。一辺30センチで四方に引き出しがあるアンノウン173に対し、20センチの収納部分を作る場合最低でも長さは40センチ必要となる。更に両サイドの引き出しのことも考えると最低でも70センチ以上の大きさが必要になる。それにも関わらず全方位の引き出しを同時に開放することが可能であることからして、アンノウン173の中には物理的な干渉を受けない亜空間が存在すると推測される。
アンノウン173の中には他のアンノウンを収納することが可能であり、その際には小型のアンノウンは勿論、建物、彫刻などの建造物や自動車、船などといった到底入らないであろう大型のアンノウンすら取り込むことが可能であることがわかった。そして驚くべきことに、中に取り込んだアンノウンの力を一部でありながらもコピーする能力があることが判明した。これにより双方のアンノウンのメリットを利用し、デメリットを打ち消すことも出来るのではないかと推測される。