一条天皇女御~藤原元子~
一条天皇朝の承香殿の女御、藤原元子のお話です。
一条天皇の後宮には、有名な定子、彰子の他に分かっているだけであと三人の女御がいました。
その一人が今回の主人公、藤原元子です。
元子は、承香殿に住んだことから「承香殿の女御」と呼ばれていました。
氷室冴子さんの「なんて素敵にジャパネスク」に出てくる鷹男の帝のもとに入内している、高彬の姉君が確か承香殿の女御でしたね。
元子は時の右大臣、藤原顕光の長女として生まれました。
顕光は、道隆、道長ら兄弟とは従兄弟の間柄になります。
顕光の父・兼通は、道長たちの父・兼家の兄でしたので、もともとは顕光の家系が藤原北家・九条流の嫡流ということになりますが、父・兼通が亡くなってからはどんどん官位も、従兄弟の道隆たちに追い越され、風下に甘んじることになります。
どうやらこの顕光さん。
ちょっと、オトボケというか「無能」の評判を歴史に残してしまっている人でして…。
朝廷の儀式などでも、数々の失態を演じて、人々の嘲笑を買うことも多かったようです。
でも、家柄さえ良ければそこそこの出世は約束されているこの時代。
顕光も順送りで右大臣の位にまで昇ります。
長徳2年(996年)4月。
中宮定子の兄、藤原伊周が花山院に矢を射かけるという不祥事を起こします。
さらに帝の生母、東三条院を呪詛した、臣下には行うことが許されていない祈祷を勝手に行ったなどの罪が重なり、伊周と弟の隆家を流罪とする命令が下されました。
懐妊中で宮中を退がっていた定子は、混乱の最中髪を下ろしたとも言われ、この時、17歳の一条天皇の後宮には一人も妃がいないという状態になりました。
この時、道長の長女の彰子はまだ9歳でした。
いくら道長の後ろ盾が強力でも入内させるには無理があります。
この空白の期間に相次いで入内したのが、藤原公季の娘の義子と、元子の二人でした。
その裏には、宮中を退がってなお、一条天皇の寵愛を独占している定子を牽制しようという道長の思惑があったとも言われています。
長徳二年(996年)11月。
元子は一条天皇のもとに入内し、その日のうちに女御の宣旨を受けます。
定子不在の後宮で、元子は自分より四か月先に入内した弘徽殿の女御義子と天皇の寵愛を競い合うことになりました。
この勝負は元子の勝利のように見えました。
『栄花物語』には、この二人の女御の入内について、承香殿の女御は思いのほかのご寵愛を受けた、弘徽殿の女御はそうでもなかったとハッキリ書かれています。
入内の翌年の長徳三年(997年)10月。
元子は懐妊の兆しあり、ということで実家の堀河院へ退出することになりました。
その里下りする行列が、よりにもよってライバル弘徽殿のすぐ横を通っていくわけですね。
何もそこを通らなくても、と思うのですが当時は日時やら方角やらをすごく気にする時代だったので仕方がなかったのかな。
ともかく、ほぼ同時期に入内した他の妃が天皇の御子を身ごもって、意気揚々と里下がりをしていく、その得意げな有様をまざまざと見せつけられた弘徽殿側の女房たちの心中は、当然穏やかではありません。
当日は、退出していく承香殿の行列を見ようと身を乗り出した女房たちの人だかりで弘徽殿の御簾は外側に大きく膨らんでいたと言われています。
うーん。そんなに悔しいなら逆に平気なふりをして知らんふりをしておけばいいのに、と思ってしまいますが…。
それを見た元子に仕えている女童の一人が、
「あら。弘徽殿では御簾だけが孕んでいらっしゃるのね」
と指をさしていい、それを聞いた弘徽殿の女房たちはもう地団太を踏んで悔しがったとか。
ところが、翌長徳四年(998年)の六月。
産み月を迎えた元子の体からは、赤ん坊のかわりに水が出てきただけでした。
これはどういうことなのでしょう?
破水のあと、不幸にして死産だったとすればそう書かれるはずですので、胎児そのものがなかったということなのでしょうか?
プレッシャーによる想像妊娠だったのか。
それとも別の病気だったのか。
ともかく、元子は面目を失ってしまいます。
馬鹿にされた弘徽殿の女房たちは内心さぞかし溜飲を下げたことでしょうね。
恥ずかしさのあまり産後(?)も実家にこもり、宮中に戻ろうとしない元子に一条天皇は優しく戻ってくるようにとお声をかけています。
このあたりのお話を読むと、一条天皇は道長VS伊周の権力争いの構図から少し離れたところにいる元子の存在に安らぎ、穏やかな愛情を感じていたのではないか、という気がします。
その後、元子は再び宮中に戻りますが、長保元年(999年)に道長の娘、彰子が華々しく入内した後は影が薄くなり、実家に退がりがちになります。
寛弘8年(1011年)6月。一条天皇が崩御されます。
女御更衣たちはそれぞれ後宮を退がって実家に戻るのですが、後世のように即出家するというわけではなかったみたいですね。
実家に戻った元子を思いもかけない運命が待っていました。
実家の堀河院で暮らす元子のもとに、いつからか故式部卿宮の子息の源宰相(源頼定)がひそかに通ってくるようになります。
これが元子の父の右大臣顕光の知るところとなります。
顕光は事の真偽をはっきりさせようと思いますが、その矢先に「まさにそれが事実であるというハッキリとした現場」をその目で見てしまった…と「栄花物語」には書いてあります。
頼定が元子といる現場を見てしまったということでしょうか?
なんだか『源氏物語』の光源氏と朧月夜の尚侍の密通発覚の場面を彷彿とさせられますね。
そういえば朧月夜の君も「右大臣家の姫」でした。
激怒した顕光は、元子の髪を掴んで自ら切り落とし、尼になるようにと言い渡します。
このお相手の頼定という人は、元子にとっては母方の従兄弟にあたる人なのですが、女性関係に関しては前科ありというか、なかなかの有名人でして…。
遡ること、およそ十年くらい前に当時東宮だった居貞親王(三条天皇)の妃であった藤原綏子と密通し、何と子供まで儲けたという人だったんですね。
東宮妃と密通して懐妊させる、だなんてこちらもまるで物語のようなお話です。
頼定は、三条天皇の御代の間は宮中にあがることも出来なかったと言われていて、この密通事件、どうやらガチだったようですね。
しかし、髪を切られるほど怒りをかったあとも、二人の関係は途切れずに続いていたため、ついに父の顕光は元子を勘当。
元子は、乳母の子である僧侶のもとを頼って父の邸を出て、そこで頼定との関係を続けることになります。
よほど愛し合っていたのか、反対されたことで燃え上がってしまったのか。
ともかく二人の関係は続き、二人の娘も生まれました。
その後、寛仁四年(1020年)に頼定が死去すると、元子は髪を下ろし出家します。
その頃には勘当も解けていたのか、ともに元子の実家の堀河院に住んでいたとも言われていて、まさに生涯添い遂げたといった形ですね。
天皇の妃であった頃よりも、元子は幸せだったのではないでしょうか。
頼定と元子の間に生まれた娘の一人は、後朱雀天皇の中宮嫄子のもとへ宮仕えにあがったとも言われています。