9、芽吹かせんと水をやる与一と実羽千。
「珍しいわね、ヨイチさんが私だけを誘うなんて」
「ジムだとミロク君が来るかもしれないからね」
同じジムに通うヨイチとミロクの姉のミハチは、ジム仲間として帰りにミロクを囲んで三人で食事をしたりする仲だ。
ミハチはあまり気にしないが、ヨイチは極力二人にならないように気を使っていたはずだ。なのに今日、ミハチはジムでヨイチに「帰りにお茶でも…」と誘われたのだ。
ヨイチは太ってた過去があるとは言え、街を歩けば「大人の女性」が振り返るくらいの容姿は持っている。痩せたのは仕事で交渉を円滑に進める為だったりもするが、筋トレが楽しくなってきて最近はスーツが合わなくなっているのが悩みだ。
そんなヨイチの誘いを受けて、ミハチが少し身構えてしまうのはしょうがない事と言える。
砂糖を入れたカフェオレを一口飲むミハチ。
甘いコーヒーしか飲めないミハチに可愛らしさを感じるものの、可愛いと言おうものならどうなる事かと先を読むヨイチは危機回避能力に長けている男だ。さすがやり手の経営者である。
「仕事の話かしら?この前の化粧水どうだった?」
「ああ、あれは良かった!気になってた小じわが目立たなくなったよ。うちのタレントにも使わせたいから定期購入させてもらおうかと思っている」
「うふふ、毎度どうも。……ということは、仕事ではないのね?ミロクのこと?」
「うん。以前ちらっと話してたよね、ミロク君が喫茶店で暴れた男を取り押さえたって」
「ああ、その事。ビックリしたわよ、突然警察の人が来てお礼を言ってて、ミロクは恥ずかしがって部屋から出てこないし……まぁ、本人からしたら中二病全開の自分を見られて、死ぬほどの辱めを受けてる気分だったって言ってたけど……
……それがどうかしたの?」
ミハチの目が鋭く光る。彼女はミロクを害すものを許さないし、家族以外の人間はどうなっても良いと考えている。実はミロクが過去にされた事を知り、その時に動こうとした彼女を両親は必死で説得して辞めさせたそうだ。動いていたらどうなっていたのか……ヨイチはミロクの家族からその内容を聞き、ミハチだけは怒らせないようにしようと心に決めている。
「落ち着いてミハチさん。うちのフミがその時のミロク君を見かけたらしく、『理想のヒーローだ』と語っていてね。フミはそれがミロク君だと気づいてないみたいだけど」
「どこで見たって?」
「向かいのコンビニで」
「あの頃のミロクを?」
「そう。まだ僕と知り合って間もない頃だね」
「……へぇ」
ミハチは鋭い目を柔らかくさせると、先程と同一人物とは思えない聖母のような微笑みを浮かべた。その笑みから目が離せなくなるヨイチ。
ふと目が合い、慌てて首を振って目線を反らす。
「フミが語っている時にミロク君も聞いていたんだけど、彼が顔を真っ赤にしていてね。僕はその時は分からなかったんだけど、ふとミハチさんから聞いた話を思い出したんだ」
「そう、それで?」
「それだけだよ。前にミロク君に冗談で『フミは彼氏募集中なんだよ、ミロク君どう?』って聞いたら、『俺みたいなオッサンには関係ない話ですよ』って言っててね」
「ふぅん……」
考え込むミハチ。
家に引きこもる前、いや虐められていた時代からだろう。ミロクは恋愛をしたことがない。生きることが精一杯だった彼は、今も生きるために戦っている。
以前よりも外に出るようになった。喋れるようになった。それでもミロクの心は不完全だ。干上がった土のようにひび割れていて、少しの力でも崩れて砂になりそうな状態。
彼は人と関わりたい、人を信じたい、そしてそれ以上に人を怖がっている。
それでも良い人間であろうとする彼は強いのか弱いのか。
でも、もしかしたら……と、考える。
フミの話に顔を赤くしたというミロク。それはとても小さい反応だけれど、彼にとっては大きな変化なのではないだろうか。
少しずつ広がる人との交流で、彼の心に何かが芽吹こうとしているなら、私達は彼の枯れてしまった心に水を与えてあげたい。
「ヨイチさん、こんな事お願いするのはおかしいとは思うんだけど……」
「いや、僕がそうしたいと思ったんだ。フミならきっとミロク君に良い変化を与えてくれると。あの子は叔父の僕が言うのもなんだけど、人をしっかり見れる子なんだよ」
「ありがとう。ヨイチさん」
二人は顔を見合わせて、同時にクスリと笑った。
お互いが大切な友人であり家族であるミロクを思いやる。その事実が少し気恥ずかしいけれど、悪くない気分だ。
ヨイチはコーヒーとカフェオレのお代わりを頼む。これからについて腰を据えて話し合う事にした二人は、この後三回お代わりをして閉店まで粘るのであった。
ヨイチ(41)ミハチ(38)ミロク(36)
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