270、与一と実羽千の確かめたいこと。
最近、出張が多かったミハチさんです。
270、
飲んでいたコーヒーを思わず吹き出しそうになったヨイチは、それになんとか耐えてカップをソーサーに置く。彼にしては珍しく動揺したのか、震えた手で置いたそれは小さくカチャリと音をたてた。
「海外って、いつから? 国はどこ?」
「まだ決まってないの。シンガポールかサンフランシスコ辺りかなって予想はしているんだけどね」
「……そう」
小さく息を吐いて俯くヨイチの前で、ミハチは少し困ったような笑顔で先を続ける。
「結構前から言われていたんだけどね、いよいよ返事をしないとって……」
「ミハチさんは行きたいの?」
顔を上げたヨイチの表情は無い。ただ、綺麗に整えているはずのアッシュグレーの髪は少しだけ乱れているのが、彼の胸中を表しているようにも見える。
彼女は考える。
芸能事務所の社長であり、ミハチの弟と共にユニットを組むアイドルでもある彼は、自分の恋人……ということになっているはずだった。
メールや電話のやり取りもあるし、ごくたまにだが二人で遊びにいったりもしている。それでもなおミハチはどこか彼との距離に現実感がなかった。
若い頃に追いかけていたアイドルであり、初恋の相手であった。彼以上に自分の心を捧げることはないと思うほど、一途に恋い焦がれていた。
そして、それは今も続いている。
「不公平だなって思うのよ」
「何がだい?」
「だって、私ばかり……ううん、そんなことはないけれど。それでも不公平だと思うの」
自分ばかりがヨイチのことを想っているとミハチは考える時もある。そうではないことは「身をもって」知っているが、やはり今回の話で不安になってしまったのだ。
ヨイチはすっかり冷えてしまったコーヒーを飲み干すと、座っていたソファから立ち上がる。
「じゃあ、とりあえず行こうか?」
「え? どこに?」
「君の上司に言わないといけないからね。海外赴任は出来ませんって」
「どうして? え? ちょっと待って」
「だってミハチさんは海外じゃなく日本で仕事を続けたいんでしょ? それでも会社からの要請を断りづらいなら、僕が手を回して断りやすい状況にすればいいだけだし」
そのまま出て行こうとするヨイチの腕を何とか掴んで引き戻したミハチだが、そのまま抱きしめられてしまう。ほのかに香る彼の匂いを感じたミハチは、薄く染まった頬を隠すように離れようとするとさらに腕の力が強くなり、彼の厚い胸板に顔を埋める羽目となる。
「むぐぐ……苦しいヨイチさん」
「俺の方が苦しいよ」
ヨイチの腕の中でもがくミハチだが、耳元で囁く彼の声が震えていることに気づく。
「ごめんなさいヨイチさん。もちろん断るつもりだったの。でも、少しだけ……少しだけ確認したかったの」
「分かってるよ。君は僕から離れられない」
一度体を離し、微笑んだヨイチはミハチの頬を優しく撫ぜる。自分の手に擦り寄るようにする彼女を愛おしく感じた彼は、もう一度強く抱きしめると同時にそっと囁く。
「もし海外赴任するというなら、飛行機に乗せられないようにしちゃうけどね」
「乗せられないように? どうやって?」
「ふふ、教えてあげるよ。可愛い人」
そう言うとミハチの腰を抱いた状態で歩き出すヨイチの後ろ頭に、容赦なく緑色のスリッパがスパコーン!と振り下ろされる。
「痛い!」
「痛いじゃねーよ。イタイのはオッサンの頭の中だろうが」
「もう、場所を考えてくださいよ。俺たちもいるのに何やってるんですか」
「へぁ!? ミ、ミロクにシジュさん!? いつからここにいたの!?」
大崎家のリビングにあるソファと、その横にあるテーブル。二人分のコーヒーとヨイチのノートパソコンが置いてあり、ソファの向こうには大きな画面のテレビが置いてある。
そしてそれに映っているのは、今流行りのゲームのプレイ画面だ。
「いつからも何も、俺たちは最初からいたんだよ。姉さん」
「ミロクとゲームしようって話になってな。ヨイチのオッサンがノーパソで仕事してっから、邪魔しないようにヘッドホンつけてプレイしてたんだ」
「ええええええっ!?」
驚いたのはミハチだけでなく、ミロクとシジュもだった。ソファの向こうで床に座り込んでゲームをしていた二人は、リビングに入ってきたミハチに気づいて声をかけようとするも、彼女は唐突にヨイチに向かって「もしかしたら海外に転勤になるかも」と言い出したのだから。
そこから冒頭の騒動へと繋がる。
「姉さんが来たから声をかけようとしたんだけど、深刻そうだったから黙って静かにしていたんだよ」
「ったく、オッサンはオッサンで黒いわ、自分の持つ力を最大限に使おうとするわ、やっぱり黒いわで思わずスリッパを出しちまったぜ」
「僕は黒くないよ。既成事実を作りまくって飛行機に乗れなくさせるくらい、皆が考えるでしょ?」
「んなもん全員が考えてたまるか!!」
再びスリッパでヨイチの頭をスパコーンと叩いたシジュは、自分の横にいるミロクが頬を染めて「キ、キセイジジツ?」と片言で呟くのを見て、やれやれと肩を落とす。
「オッサン、ミロクがオーバーフロー起こしてんぞ」
「おっといけない。我に返ったミハチさんに怒られてしまう……」
いそいそとミハチを誘導し、部屋から出るヨイチ。
シジュはミロクの黒髪を乱すようにワシワシと乱暴に撫でてやる。
「アレは放っておけよ。ミロク、俺らはゲームの続きしようぜ」
「……はい」
「お前の姉ちゃんは、大丈夫だって」
「はい、それはヨイチさんがいるから大丈夫かなって思うんですけど、あの……既成事実を作ったら飛行機に乗れなくなるんですか?」
「まぁ、そこはほら、ヨイチのオッサンだからな。後で本人に聞いてみろ」
「なるほど。ヨイチさんはすごいんですねぇ」
詳細を語らずにヨイチに丸投げするようなシジュの言葉に、ミロクは感心したように頷いている。
「さすが『白い王子』だな。ピュアっピュアだぜ」
何かに感心しているシジュに対し、ミロクはこてりんと首を傾げるのだった。
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