10、少しずつ取り戻す弥勒。
爽やかな目覚めを感じて起きたミロクは、布団をめくって何年ぶりかの自分の元気の良さに気づき驚いた。
冷たい水で顔を洗い、昨日の夢に見た花のような笑顔の残骸を洗い流す。
Tシャツとジーパンに着替えると、一階のダイニングへ向かった。
「おはようミロク。朝ごはん置いとくわね」
「ありがとう母さん。父さんは仕事?」
「ええ、今日は早めに仕事なんですって。ミハチも仕事。ニナは火曜だから仕事は休み」
専業主婦であるイオナは、おっとりしているが家族の事を第一に考えている昔ながらの「お母さん」といった芯のしっかりとしている女性だ。
昔はパート勤めをしていたが、ミロクに色々あった時に家にいることを決め、それ以来専業主婦として家と家族を守っている。
十二畳ほどのダイニングルームは家族四人だとちょうど良いが、二人だと広く感じる。淹れてもらったコーヒーを飲みながら、後で自分の部屋じゃなく大画面で映画でも見ようかと、テレビ前のソファに目をやる。
猫っ毛でフワフワな髪が見え、こちらを見ているフミがソファにちょこんと座っていた。
「……っぶは!!ゲホゴホッ!!……何!?何でフミちゃんがいるの!?」
コーヒーが思いきり気管に入り、涙を流しながら咳き込むミロクに、フミは当たり前のように言う。
「今日からミロクさんのマネージャーをさせていただきます、如月フミです!よろしくお願いします!」
「ええ!?そうなの!?知らなかった……。よ、よろしくお願いします」
「すみません。急なんですけどモデルのヘルプが来ちゃいまして、大崎さんを迎えに来ました。お言葉に甘えて上がらせてもらっていました」
「時間は大丈夫?」
「大丈夫です。ご家族に挨拶できればと思って、早く来ちゃっただけです」
「そ、そうなんだ」
ミロクはくしゃりと髪をかきあげると、深く大きく深呼吸して心を落ち着かせた。彼にしてみればフミは昨日の夢に出てきた本人であり、数年ぶりに「起きた」出来事の原因みたいなものでもある。なんだか申し訳ない気分になったがそれは顔に出さず、彼女のそばに行くと「よろしくお願いします」と深くお辞儀するのであった。
(朝一でジムに行くつもりだったから、着替えていて良かった…)
これからは部屋から出るときは、必ず着替えようとミロクは心に決める。
パタパタとスリッパの音が聞こえ、妹のニナが起きてきた。
「お兄ちゃんおはよう。えっと、そちらの方は…」
「あ、如月事務所の如月フミと申します。今日から大崎さんのマネージャーになりました。よろしくお願いします」
「……よろしく……。お兄ちゃん、仕事ならヘアセットしてあげるよ」
ニナはフミに冷たく挨拶すると、ミロクの方を向いて笑顔で話しかけてきた。いつもと違うニナに首をかしげるミロク。ニナは社交的で、初対面の人間にも愛想よくできる子だ。なぜか不機嫌な妹にミロクが戸惑っていると、母が助け舟を出した。
「もう時間でしょ?パンは包んであげるから車で食べなさい。ニナも膨れてないで朝ご飯食べなさい」
「ちょ、膨れてないし!!」
「急にどうしたの母さん」
戸惑うミロクとフミは、ほぼ無理やり家から追い出される。
「仕方ない。行こうかフミちゃん」
「はい、あと芸名ですが『ミロク』で良かったんですか?」
「うん、だからフミちゃんも俺をミロクって呼んでよ」
「へ?あ、は、はい。了解です!」
フミは運転しながら、後部座席にいるミロクをバックミラー越しに見る。
白い肌に整った顔、どう見ても三十六には見えないが、叔父のヨイチは「筋肉つけたのに俺より体力ないから、そこは年相応なんだよね」と言っていた。
そして何よりも、落ち着いた雰囲気がフミと比べて大人な感じがする。
「あの、大…ミロクさん」
「ん?何?」
「何でそんなに白くて綺麗な肌なんですか?お手入れしてるとか?」
「ああ、俺って数ヶ月くらい前まで何年も引きこもりのニートだったんだ。見かけも酷くて太ってたし……。今はかっこいいとか言われるけど違和感がハンパないよ」
「それはすごいですね」
「何が?痩せたのが?」
「いえ、そう見えないのが、です」
「ん?どういうこと?」
フミはしばらく考える。自分の感覚を言葉にするのは難しい上に、他人に伝えるのはもっと難しい。言葉を選びつつ彼女はゆっくり話す。
「昔の姿が酷くて今が良いなら、それはその人が頑張ったからです。昔を感じさせないくらい変わったのなら、その人は今も頑張っているという事です。逆であっても同じで、その人は見かけを気にする暇が無いくらい頑張っているのでしょう」
「俺の昔の姿見て、騙されたとか思う人がいるんじゃないかなぁ」
「それこそ意味が分かりませんよ。外見が変わっても中身が一緒ならそれで良いじゃないですか。それでどうこう言う人なんて、所詮外見に振り回されて、中身を見ない薄っぺらい人間です。相手にする必要はありません。むしろ変われるから魅力的なのでは?」
ばっさり切るフミ。彼女はもしミロクが嫌な目に合いそうな時、絶対に自分が助けようと思っている。
あの最低なサラリーマンに絡まれた時、助けてくれたミロクは一見動じてないように見えたが、フミを守ろうとした手は冷たく震えていた。
ミロクは強いわけではない、あのサラリーマンもミロクを傷つけるような事を言っていた。それでも自分に目が集まるよう奴等に声をかけ、フミを守るために立ち向かってくれた。
「フミちゃんはすごいね」
「すごいのはミロクさんですよ」
白い肌を薄っすらピンクに染めて俯くミロクを見る。
彼の昔がどんな姿であろうと、フミには関係ない。
生きることに一生懸命で、良い人間であろうとする彼に、フミはどうにかして幸せに成って欲しいと思っていた。その感情に名前はない。でも、悪い気分じゃない。
(だって私は彼の……担当マネージャーなのだから)
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