2話~千和~
千和は小さい頃から、本が好きだった。寝る前、母に読んでもらう絵本の内容にどきどきにしてなかなか寝付けないこともあった。それを母に言ったら、寝入るのには逆効果だと一時期読んでもらえないこともあったぐらい。
本好きは年齢を重ねても変わらなかった。もちろん、学年が上がるごとに千和は活発な少女へと成長し、どちらかというと本には縁のないようなグループに属していた。しかしそれでも図書館や本屋に足しげく通う習慣は変わらなかった。周りの友達もそれを尊重してくれた。おかげで比較的大人しい子たちとも仲良くなれ、毎年同じクラスになった子たちからは、千和のいるクラスは全員が仲良くなれると評価してくれたぐらいだった。
千和は童話を好き好んで読み、特に『不思議の国のアリス』にはどうしようもないくらい魅かれた。アリスが不思議の国で大冒険するストーリーは何度読み返してもわくわくした。いや、確かに腑に落ちないことはたくさんあったけれども。
中学校に上がって、英語を習い始め、今度は原文を読みたくなった。だから英語の勉強は他の強化に増して努力した。その恩恵もあり、英語の成績は驚くほど伸びた。
原文はまだすべてを読み終えてはいないが、自分で作ったノートは二冊目に突入した。高校に入学した今は、とりあえず原文を読み終えることを目標にしている。
はっと目を覚ました。
とても長い夢を見ていた気がする。まるで遠い出来事のようであった。それゆえに夢の内容も思い出せなかった。
一体何の夢だったんだろう。前にも見たことがある。何度も見るのに起きたら忘れてしまう夢。蒼い広い世界で、いつも誰かを呼んでいる。言い表しのないような違和感が、起きた瞬間漂っている。
とても大切な事を忘れてしまっている気がする。でも、思い出せない。
カーテンを開けると太陽はさんさんと照っていて、いつもの通り清々しい朝だ。
回転しない頭でいつものように制服に着替えると、何気なしに机に目をやった。そこには昨日までは無かったものが置いてあった。けれど、その事を不思議に思う事もなく、あたかも当然のように、あるいはそうするように仕向けられたように、それを手に千和は部屋を出た。
「千和、早くしなさい。お迎えが来てるわよー」
明るい母の声が聞こえた。もうそんな時間なのか。いけない、ぼーっとしてしまっていた。慌ててかばんとブレザーを手に取り、玄関へ走った。
「いってきまーす」
本日の天気は、晴天。何かいいことがありそうだ。
昭平はドアが開く音で顔を上げた。千和の姿を認めると小さく笑う。その笑顔に答えるように、千和も笑う。
「おはよう、昭ちゃん」
そう、今日は何事もない、いつもの日常になるはずだった。千和が手にしているものがなければ。