満月
麻央と真人が目的地に着く頃には、真人の体力は限界を超えていた。夜行バスは想像以上に精神的にも肉体的にも追い詰められるものだった。
しかし、麻央の実家にお邪魔するというのにへこたれていてはいけないと、真人は気合を入れ直す。
麻央の両親や兄、最低限の家族の名前を教えてもらい、戦場へ赴く武士のような堅い表情で敷地を跨いだ。
客間の襖が開いた。夏の匂いが和室に充満していく。
「まーさと。お風呂次入っちゃって」
頭上から麻央の声が聞こえた。風呂上がりのようで髪が湿っている。真人は寝転んだまま応答する。
「おー……」
疲れが著しく顔色に出ており、疲労困憊という言葉が似合っていた。
「ごめんね。お父さん酔うと絡み酒になるから……お疲れ様」
麻央は膝を下ろし、真人の髪を撫でる。黒くゴワゴワした短い髪に何故か心地よさを覚え、麻央はくすり微笑む。
「でもよかった。お父さん、真人のこと気に入ったみたいだよ」
廊下から冷たい空気が流れてくる。麻央の手の感触と新鮮な風に不思議な安心感を覚え、真人は眠気に襲われる。
「他の親族の人も、ちゃんと認めてくれるっぽいし。まぁ、今日来た人たちが全部じゃないけどね」
自然と瞼が重くなる。真人の視界はついに麻央の口元しか映せなくなっていた。
「明日来るお兄ちゃんだってきっと……認めてくれるよ」
その言葉は真人の耳に入っても、脳が感知することはなかった。
「真人?」
真人は完全に眠りに入ってしまっていた。
麻央は真人が眠ってしまったのを確認してから、薄掛けを腹部にかけてやり部屋を後にした。
乾き切っていない髪から水滴が肩に垂れる。普段より気温が低いのに加え、麻央はタンクトップ一枚だった。流石に肌寒いと思い、自室へと戻り荷物からシャツを出して羽織った。
久々に入る自室は埃っぽかった。ここで眠るより真人のように客間で寝た方がいいのではとさえ思えてきてしまう。
(って、流石に真人と同じ部屋は無理か……)
我ながら軽率な考えに苦笑をもらす。
真人のような部外者を、しかも自分と交際している男をいきなり連れてきて、家族の反応はどんなものか、麻央は内心不安でいっぱいだった。
しかし、そんな不安は真人はと両親が楽しげに会話している様子を見て解消された。
「こりゃ結婚までそうかからないかも」
そう言った自分が可笑しかった。結婚なんて漠然としたことを考えられるほど、大人ではないと思っていた。
でも、もしこの先ずっと真人といられるのなら。麻央は無意識に顔を綻ばせる。
ふと、棚の上にある灰色の筒に目がいった。
麻央はこれに用があったのだ。
それを取り上げると、一層埃が舞った。棚には埃によって筒の形の絵が描かれている。窓を開けて筒の埃を払った。
「……ちゃんと見えるかな」
窓からは満天に輝く星々と、月が見える。
麻央ははその筒から月を覗いた。レンズは汚れ視界が悪く、望遠鏡としての役割を果たせていない。レンズを吹いても、あまり変化はなかった。
「まあいいか。行こう」
麻央は気を取り直して望遠鏡もどきの筒と小銭を持って、部屋を出た。
時刻は深夜の2時。星野家の長男である星野信治は、昔は自分のテリトリーであった庭で立ち尽くしていた。もう人が起きているような気配は感じられない。しんと静まり返った家や庭の空気を思いっきり吸い込み、帰省を実感する。
「信治さん」
背後から真司の目の高さくらいある背の高い女性が彼を呼び止める。
「歩くの早いです。ちょっと待ってください」
頬を膨らませ、重そうな荷物は彼女の両手を塞いでいた。
「ごめん美由。荷物持つよ」
信治は荷物を軽々と持ち上げる。すると美由と呼ばれた彼の婚約者はぱっと顔を明るくした。
「ここが信治さんの生まれ故郷なんですね」
古めかしい平屋に対し、美由は興味津々だ。玄関にインターホンなどなく、黒く汚れた表札には、辛うじて信治の名前が見える。その横には妹である麻央の文字もあった。
「流石に今帰ったなんて言いづらいな……」
「じゃあどうするんですか」
心配そうな表情の美由は少し肌寒そうだ。これでは彼女が風邪を引きかねないと思い、信治はなるべく音を立てないようそっと玄関を開けた。鍵は壊れて役目を果たしていない。これは信治が独り立ちする前からだった。
(田舎だからいいけどな……もうちょっと警戒心を持って欲しいもんだ)
しかし、抜き足差し足で進む彼らの努力も虚しく、がたんと奥の部屋が反応する。足音はどんどん玄関へと近付いて来る。
「どちら様?」
それは女性の声だった。信治にとっては懐かしい、妹の声だった。
「麻央!」
久振りの再開に、信治の声が無意識に大きくなる。
「お兄ちゃん!」
麻央も大好きな兄の姿に頬を緩ませる。小走りでお互いに寄り合い、信治は麻央の頭を撫でた。
「元気だったか?大学は楽しいか?今回はいつまでいるんだ?」
「一気に聞き過ぎ。変わってないね」
和気あいあいとした兄妹の会話の側で、美由は気まずそうに足元を見ている。
やっと自分の婚約者の存在を思い出した信治は、焦ったように紹介し始める。
「ま、麻央。こちらが林美由さん」
「はじめまして」
美由は自分より背の低い、信治によく似た女の子と目を合わせる。少し勝気な印象与えるその瞳は、真っ直ぐに美由を見ていた。美由には、その目が自分を見定めているのだと直感する。
ほんの一瞬の静寂、美由は嫌な汗をかいた。
しかし、そんな不安は麻央の笑顔によって消し去られる。
「はじめまして! 麻央です。……お兄ちゃんを、信治を、どうかよろしくお願いします」
それは家族として、妹としての、重い重い一言だった。
「こんな時間になんで河原なんかに行くんだよ」
信治は呆れ気味に麻央に問いかける。
「本当は昨日のうちに行きたかったのに、お父さんが離してくれなかったんだよ」
信治と麻央、そして美由はすぐ近くに流れている川を目指して草むらを歩いていた。外灯などないが、そのおかけでよく星が見える。そして月明かりだけで周りを見渡すことができた。
麻央は慣れた足取りで草を分けて、前へ進んでいく。後ろに続く信治は薄着の美由を心配しつつ歩を進めていた。
やがて草むらを抜け、堤防を登る階段へと辿り着く。それを登りきると、大きな川全体が見渡せた。晴れた星空は反射され、二重に景観が美しいものになっている。水面はキラキラと輝き、波打つ夜空は信治と美由から言葉を奪う。
「昨日じゃないと意味なんてないのに……」
後ろの2人が景色に魅せられているところで、麻央は浮かない顔だ。
「ところで、途中で買ったその板チョコはなんなんだ?」
「……これは」
麻央の手には望遠鏡とコンビニ袋があり、その袋の中には板チョコが一枚入っていた。
「お供え物」
静かな声音でそう告げる。それ以上の追求を許さない声だった。
「2人はここで待ってて。すぐ済むから」
不穏な雰囲気を麻央から感じ取り、信治は待てと制止するが、それが彼女には届かなかった。
堤防を降りた麻央はどんどん小さくなって行き、姿が見えなくなった。
「まったく……おてんば娘は変わらないか……」
呆れ気味の信治の後ろには微笑を浮かべた美由が、彼の肩をぽんと叩いた。
「とか言って、妹大好きなくせに」
「当たり前だろ」
信治はさも当然のことのように美由に告げる。
「兄貴が妹と好きなことに理由なんてないさ」
白く丸い月は忽然と夜空に浮かんでいて、麻央を見下ろしている。その日は満月だった。
風は彼女の背を無理やり押して行く。まるでどこかへ誘うかのように。小石を踏み潰す度、摩擦音を生む。それは麻央が好きな音だった。加えて至る所から虫の音や蛙の鳴き声が蔓延る。どれも懐かしい音だった。
時折風に靡いたコンビニ袋がイレギュラーを耳に運ぶ。しかしそれさえも快く思えた。
川にサンダルのまま足を付ける。心地いい冷たい水が麻央の足を侵していく。独特な川の匂いが鼻を擽る。
「気持ちいい……」
そう呟くと、前へ一歩進み、浸食は足首まで到達した。
川が麻央を吸い込んで行く。麻央は目を瞑り、また足を進めた。
ーー特に、夜の川は危険だ。
彼女の脳裏に、あの男の声が響く。
そして、もう一歩。
「危ないよ!」
その瞬間、麻央は何者かに手首を掴まれた。そして力一杯引っ張られる。
小さな悲鳴を上げて、麻央は河原に尻餅をついた。麻央の臀部をゴツゴツした石たちが攻撃する。
「いった……」
「何をやっているんだ、危ないだろう! 死ぬ気なのか! 」
麻央を引き上げたのは、一人の中年の男だった。
麻央は手首を摩りながら、すみませんと謝る。そして手から消えているものを思い出した。望遠鏡だ。
それはすぐに見つかった。少し離れたところで転がっていた。レンズが割れ、破片が散乱している。それ程、男の力は強かったのだ。
「すみません。つい焦ってしまって……」
狼狽した男は麻央を丁寧に立ち上がらせる。今度は優しい力加減だった。
男は急いで望遠鏡を拾うが、もうがらくたに成り果ててしまったそれを見て青ざめている。
「すみません……これ、弁償します」
へこへこと頭を下げて、先ほどの乱暴とも言える態度とは全く別物だった。
そんな男に対して、
「いいんです。それよりこれを」
麻央はコンビニ袋から板チョコを取り出し、差し出した。
男はそれを見て、はっと何かを察した。
「これは……」
「あの日」
麻央は男の言葉を遮る。
「日付、変わってたんですね。本当は今日が……」
夏の風が2人の思い出を運んでくる。
麻央は満面の笑みで、
「貴方みたいなお兄さんを持って、妹さんは幸せですね」
そう言った。
男はその一言で感極まったのか、視線を下げて目頭を抑えた。恥ずかしそうに笑い、取り繕おうとしている。
麻央も驚いてあからさまに焦りを見せた。
「ほ、ほら!見てくださいよ、空」
天にある不動の月を指差す。
「今日は満月です。どんな形でも、美味しそうですよ」
麻央は心底楽しそうに言うのだった。
ここまで読んでいただき、有難う御座いました。
また次のお話でお会いましょう。