河原
ねぇ、と声がする。それは少女の声。まだまだ幼い声だった。
男は振り返る。夜の河原に人はいない。それは男に掛けられたものであることに違いはなかった。
「なんだい?」
20代半ばくらいの男はできるだけ柔らかい声を出した。それもそのはず、振り返ったさきにいる少女は男の腰くらいの背丈だ。恐らく小学校低学年だと予想がつく。そんな幼気な少女をあしらうことなんて、男にはできなかった。
男は手に小さい花束を持っている。白いそれらは霞草だ。
一方少女はコンビニ袋を提げていた。中には板チョコが顔を覗かせている。そして、もう片方の手には灰色の筒があった。彼女の腕よりも太く、二の腕から指先までの長さがある。
「おじさん何してるの」
声のトーンは高く少し滑舌が悪い。年相応のその喋り方に、男は笑みを零す。
「散歩だよ」
男は少女の目線に合わせて膝を曲げた。
「君は何をしているんだ」
そう男に聞かれるなり、少女はにっこりと笑って、
「月を見るの!」
そう言った。
男は少女の手の内にある灰色の筒に視線をずらす。明らかに安物だ。もしかしたら学校の教材の類かもしれない。
「それで見れるのかい?」
男に悪気はなかったが、子どもながらにこの望遠鏡の性能を疑われたと、少女は感じ取ったらしい。
「お兄ちゃんがくれたんだもん!見れるもん!」
むすっとした表情で望遠鏡を月に向け覗き込む。先端をふらふらさせて月に照準を合わせている。
男もつられて夜空を見上げる。濃い青紫の空模様を背景に、星々が輝きを放っている。それはどこまで続いていくようで、雄大なという言葉が似合っていた。吸い込まれそうな闇と光の幻想的な風景に男は圧倒された。蛙の鳴き声が喧しかったが、この時ばかりは気にならなかった。
「ほら、今日はレモン型だよ」
少女はけろっと気分を変えたように楽しそうだ。少女の言うレモン型というのは、満月の一歩手前の形をした月のことだった。
「ああ、美味しそうだね」
「月は食べられないよ」
冗談を真面目に返され、男は苦笑した。
「ごもっともだ」
そうして暫く、一人の男と一人の少女は月を眺めていた。
肌寒い風が二人を包む。夏とはいえ、男は薄着で外に出たことを後悔した。
一方少女は半袖に短パンと、手足を露出させている。それにもかかわらず寒そうな様子ではない。
「こんな時間に外に出て、お母さんが心配するんじゃないか」
男はゴツゴツした石の中から比較的大きいものを選び、腰を下ろした。横にそっと花束を置く。石は冷たく男は身震いする。
少女は相変わらず望遠鏡で月を眺めている。
「大丈夫、ちゃんと置き手紙してきたから」
さも当然のことのようにさらっと口にする。男には親御さんの苦労が垣間見えた。
「家族に心配かけちゃいけないよ。特に、夜の川は危険だ。今は天気がいいからいいが、雨の日は近付いちゃいけないよ」
「お兄ちゃんと同じこと言ってる。もし溺れても大丈夫だもん。あたし泳げるし」
その言葉に、男ははっとする。
「溺れても平気!泳げるから!」
黒い記憶が頭によぎる。いつかのその言葉は少女に重なり、そして視界がぼやけた。
「おじさん?」
少女が男の顔を覗き込む。男は慌てて取り繕った。
「ああ……ごめんよ」
少女は心配そうに顔を歪めた。そして思い出したようにコンビニ袋の中の板チョコを出した。
「食べよ!」
銀紙を剥がしぱきっと起用に割り、一欠片を男に差し出した。そして男の横に座る。
男は貰ったチョコを口内に運び入れ、舌で味わうより前に噛み砕いた。少女は美味しそうに口の中でチョコを転がしている。
ふと、二人の視線が対峙した。
少女はニコッと笑みを見せ、
「甘いものは辛いこと忘れさせてくれるよ」
そう無邪気に告げた。
いたいけな少女のその発言は、男の心に重くのし掛かる。
「おじさんもね、忘れたいんだけどね……」
男は歯切れが悪い口調で頬をぽりぽりと掻いた。そして一息つくと、花束を手に持ちそれをじっと見つめた。白い花達が甘い香りを漂わせる。
静かに、一輪の花が落ちた。
「時間かな……」
よっと声を掛けて、男は立ち上がる。そして草叢の方へ足を運び、立ち止まった。
「おじさん?」
少女は不思議そうに後をつけた。
男はそこで片足を付けると、花達をそっと置いた。そして目を閉じ、合掌する。それは何かの儀式のようにしなやかだった。
その間、少女は黙っていた。何かを察したのか、それともただ何も言わないだけなのか、男には分からない。
暫しの合掌を終え、男はポツリと、
「また来年、会いにくるよ」
一言そう言った。
男はその場を立ち去り、少女は一人になった。
手持ち無沙汰になってしまい、仕方なくまた月を見上げる。今度は肉眼でだった。
黄色く妖しく輝くそれは、少女を寂しくさせた。
突然寒さを肌に感じ、腕を摩る。蛙さえも寝静まったかのような静寂が少女を取り囲む。
ふと、あの花束が目に入った。
「あなたはだぁれ?」
答えが返ってくるわけもなく、ただ虚しさだけがあった。
少女は残った板チョコを花束の側に供え、合掌した。目を瞑ると、あの男が思い出される。
「あなたはだーれ……」
か細い声は、風の音でかき消された。
「あたしはね……」
その年から、男が亡くなった妹の為に花を供えようと川へやってくると、
「今年もか……何年目だろう」
必ず板チョコがあった。昼間の暑さと鴉のせいで形が変形している。それでも、男にとってはありがたいものだった。
男はふっと笑をこぼす。
「あの子は誰なんだろうね」
そして空を見上げた。黄色い円はまるで王のように悠々とそこにある。満月には満たない、半端な形だった。
「ははっ。レモン型、か」
いつぞやの少女の言葉を思い出し、笑いが込み上げてきた。男は誰かに話しかけるように言った。
その表情は慈愛に満ちた兄の顔だった。
「美味しそうだね……」