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見守る部屋

作者: 平田

死体に関するグロテスクな記述がございます。

ご注意くださいませ。

私はずっと、彼だけを見ている。

彼が彼であった頃から彼でなくなるまで、ずっと、ずうっと。







その日帰ってきた彼は、いつもと何も変わらなかった。

スーツを脱いで、シャツと靴下だけ洗濯機に放り込む。そのままベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めてぶつくさ何か言ってる。

すると突然思い立ったように起き上がると便箋を取り出し、ぐしゃぐしゃと書きなぐる。

書いてる途中で泣き出す。

涙が止まらなくなって便箋はびしょ濡れ。それをくしゃくしゃと丸め壁に投げつける、そしてまたベッドへ―


そこまではいつもと一緒。

だけど、今日の彼はそこからが違った。


ベッドから起き上がって、捨てた紙屑を取りに行った。

丁寧にシワを伸ばすと、畳んでベッドの上に置く。

そうしたらカバンの中から薬を取り出して、二三粒ごくりと唾で飲み干した。


そうしたら彼は、左右のクローゼットの扉を開け放した。

そこにどこから出てきたのか、角材を渡した。

角材に長いベルトのようなものを引っかけた。

それを輪にする。輪の部分にタオルを敷く。




私には彼のしたい事なんてわからなかった。

だからただずっと見ていた。

タオルを敷くと彼はまたなき始め、私の方を向いて「ごめんな」って言った。

何がごめんかわからなかったけど、彼の涙だらけの顔を見て私もちょっと泣きそうになった。





彼はゴミ箱を逆さにして、ベルトの下に置いた。

そして震えながら足をかける。

輪の間に首を通し、彼はしばらくじっと動かなかった。何を考えていたんだろう。



「…サヨナラ」



最後に彼の声を聞いたのはこの時だった。

次の瞬間には、彼の足は床についていなかった。

倒れたゴミ箱がごろりと転がっていく。

彼の顔を見た。もう「考える」ことは出来なさそうだった。

足をかすかに揺らし、数回咳を吸い込むような音を出した後、彼の目は開いたまま閉じなくなった。

両手両足はだらりと力無くぶら下がっている。

水の滴る音が聞こえたので、よく見ると彼の下着が濡れて透明な黄色い液が滴っていた。



初めて、胸が痛んだ。




朝になった。彼はとても顔色が悪い。

当然だ、ずっと目を開けたまま寝ていない様子なのだから。

手足の先がなんだか紫色になっている。寒いのかも知れない、下着一枚しかつけていないのだから。

口が少し開いて、白っぽくなった舌がのぞいている。

もう一度目を見ると、何だか黒目がはっきりしなくなっていた。

瞬きをすれば良いのに。



陽が暮れた頃には、鼻と口からちょっと何かこぼれ出していた。

やっぱり裸でずっといるから、風邪を引いたんだと思う。

今日は30度だけれど、裸じゃ寒いでしょう?


どこから来たのか、ハエが数匹部屋の中を飛び回っていた。




また朝が来た。

彼はずっと目を開けたままなせいか、ちょっと目が飛び出してきている。

もう黒目は全然はっきりしない。卵のように白身に混ざってしまったみたいだ。

彼の身体中に赤紫の網目みたいなものが走ってる。

太いものもあれば細いものもある。

たくさん枝分かれして、ちょっと変なメロンみたい。

鼻からは変な色の液体がぽたぽた垂れて、床に小さな水溜まりを作っている。

良く見ればたまに液体と一緒に、白い小さな虫がぽたりと落ちてくる。

私は急に空腹を覚えた。そういや、最近何も食べていない。


彼の腹が赤紫色になっていた。




また夜が来て、朝が来た。

白い小さな虫は彼の目にも這い始めた。

たまに、口の中からも顔を覗かせる。

昨日腹とメロンの筋だけだった赤紫色は、全身に広がっていた。どちらかと言うと赤が強い。

その皮膚には、火傷をしたみたいにたくさんの水疱が出来ていた。熱いものなんかくっつけていないのに。

触ったらすぐ剥けてしまいそうでちょっと痛々しい。


夜になると、彼の身体は元の二倍ぐらいに膨れていた。

多分、水疱のせいだと思う。

なんだかとっても不思議な臭いが部屋を満たしている。

これは彼の香りなのかしら。




朝が来て夜が来て、朝が来た。

ずるっ、ばちゃん、という音で目が覚めた。

彼を見ると、そこに彼は居なかった。

代わりに床に彼の塊が散らばっていた。

彼の下がっていたベルトとタオルは真っ黒になっている。

落ちてしまった彼の身体には、あの白い虫が無数にはびこっていた。

いつの間にか窪んでしまった目の穴にも虫がびっしり詰まっている。

鼻と、口の辺りにもたくさん居る。あれじゃあ彼は息が出来ないんじゃない?

虫をはらってあげたかったけど、私は彼に近付けない。見守る事しか出来ない。

今や部屋中に充満したハエの中の一匹が、私に近付いてきた。

お腹の空いた私はそれをぱくりと飲み込んだ。


ちょっと、彼の味がした。



朝が来て夜が来て、どれくらい経ったか忘れたけれど、また朝が来た。

彼はほとんどその形を失っていた。

赤黒い液体と、赤黒い土の山みたいになっていた。

虫はますます増えて、彼の山の上でうごめいている。

その山の間から見える白いものは、彼の歯なのかしら。笑っているのね。

髪の毛は前と何ら変わらずにふさふさしていて綺麗。

ただ、汚れてるから洗った方が良いかもね。


彼だった液体はフローリングの床を流れて大きな水溜まりになっている。

泳げそうだけれど、結構臭いがするからやめておいた方が良さそう。

そう、臭い。溶けたバニラアイスにニラみたいな金属の臭いが混じって、腐ったらこんな臭い。

チーズみたいに発酵した、不思議な不思議な臭い。

私は慣れたけれど、他の人は無理だったみたい。

ある日鍵を無理矢理開けて誰かが入ってきた。






「っ…腐乱の首吊り死体か」


「ハエを外に出さないよう気を付けろ」


「見た感じ死後二週間は経っているな」


「遺書があります」


「よし、記録しろ」


「遺体撤去の準備をして参ります」





何人かの男たちが、彼だったものをビニールで包んで持っていってしまった。

後には土山と、黒い池と、透明な池と、毛髪と、白い虫たちが残された。

これも、彼なのに。全部で彼なのに。どうしてバラバラにしてしまうの?



私は泣きたくなった。

けれど、涙は出せない。








しばらく経って、老婆と、強そうな男の人が入ってきた。

老婆は部屋に入れず、扉の前で泣き崩れた。



「あの子、遺書に何て書いたんですか?」


時間が経ち、多少落ち着いたのか老婆が涙に震える声で尋ねている。


「仕事で大失敗して解雇を言い渡され、付き合っていた女性にも騙されており、相当悩んでいたようです……」


老婆はまた泣き崩れた。






『お母さん、ごめんなさい。親不孝な息子でごめんなさい。生命保険しか遺せなくてごめんなさい。

でも僕はお母さんの息子に生まれて嬉しかったです。

ありがとう。ありがとう。

ずっと、大好きです

見守っています』





私は知っている。

彼が残せなかった遺書にはそう書かれていたことを。

何度も書いては捨て、書いては捨て、そしてとうとう残せなかったその想い。

私はそれをこの女性に伝えたい。

彼の最期の想いを。








私は、女の人を見つめている。

曲がった腰に白髪、杖無しでは歩けないその老婆を。

彼女は私に優しく笑いかける。

そして、パラパラと水面に餌を降らせてくれる。

私はそれを口に含み、そして泡とともにいつも叫ぶのだ。





『ありがとう』




と。


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