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第七章 「町のモザイク模様」

 本家サイトはもう7年以上更新しておりません。本家サイト(http://www2.famille.ne.jp/~nv4wm/)をご存知の方には、申し訳ない気持ちで一杯です。

 このサイトに小説『ワールドマスター』を転載しようと思ったのは、15年前の作品にまだ何らかの力があるのか確認したかったのです。

 どのような結末を迎えるかは定かではありませんが、最期までお付き合いくだされば幸いです。


「ワールド マスター 1  ~ マルカム王国編 ~」


--------------------------------------------------------------------------------


 第七章 「町のモザイク模様」


 


         1,


 


 一郎がフィビーと別れて三日が過ぎた。


 別れた最初の日、フィビーは部屋に籠もって、泣いて過ごした。一郎のことを考えると胸が熱く苦しくなった。


 二日目、フィビーは一郎のことを忘れられかもしれないと思って元の生活に戻ってみた。礼儀作法などの習い事と短い行事への参加、それがすべてだった。


 三日目、忘れられないと悟ったフィビーは、本を読むと言って、中庭やテラスで、一郎の思い出に耽っていた。


 だが、思い出すほどに、一郎への思いはつのり、フィビーの心の中で一郎は美化されていった。


 テラスに座って城門とその向こうに広がる城下町を眺めて、フィビーは深いため息をついた。


〔イチ・ロー様にお会いしたい。でも、お会いしたら、なんて言えばいいんだろう〕


 四日目の朝のことだった。フィビーの耳に侍女の噂話が飛び込んできた。


 リーアンがカンボジ老師に会いに出かけるという話である。


 フィビーはすぐさまリーアンの部屋へ向かった。


「お兄さま」


 リーアンは軽装というよりも平民服に着替えていた。「お忍び」で外出しようとしていることは明らかだった。


 リーアンは部屋に入ってきたフィビーを一瞥して素っ気なく言った。


「フィビー、呼んだ覚えはないぞ」


「いえ、お兄さまが出かけられると聞きましたので」


 そこでフィビーは言葉に詰まった。


 リーアンはフィビーの次の言葉を待った。


 しかし、フィビーは決心がつかないように視線をリーアンと床の間で泳がせていた。


 リーアンは、そうした妹の普通の女の子らしさが珍しくもあり、面白くもあり、にやにやと眺めていた。それでも、その状態が五分も続けば満足で、そこから先はリーアンも多少いらいらしてきた。


「用がないなら、俺は行くぞ」


「いえ、待って下さい」


 フィビーはやっと決心がついたように、言葉を絞り出した。


「わたしも連れていって下さい」


 リーアンは内心白々しいと思いながら、不思議そうな顔をした。


「おまえが、カンボジ老師に、何の用があるというんだ」


「いえ、老師にご用じゃなくて」


「だれに」


「イチ、‥‥」


 堪えきれずにリーアンの口の端が歪んだ。


 それを見てフィビーの顔が真っ赤になった。


「お兄さまの意地悪」


 フィビーの右手が宙をさまよい始めて、リーアンは多少あわてた。


「ま、待て。その辺りにあるものを投げるのは止めろ。ちゃんと連れていってやるから」


 フィビーは掴みかけた花瓶を放した。


「分かりました。着替えてきますので、お待ちいただけますか、お兄さま」


「はい、はい」


 それからリーアンが待つこと三十分、外出着とはいえ、着飾ったフィビーが再び現れた。


 リーアンは直ちに着替えを命じた。


「忍んで行くのに、そんな目立つ格好はだめだ。宝石も全部外しておいで」


「え、でも」


「『でも』は無しだ。できないなら、置いて行くぞ」


 渋々という感じでフィビーはもう一度着替えてきた。宝石類はなくなったが、服装はまだまだ人目を引きそうなものだった。


「もっと、地味な服はないのか」


 少しうんざりしたようにリーアンが言うと、フィビーは急いで着替えてきた。


 今度は着古した感じの落ち着いた服装になった。それは一郎と砂漠を越えて旅したときに着ていた服だった。


「よし、行くぞ」


「はい、お兄さま」


 フィビーは弾む心でリーアンの後に続いた。


 


         2,


 


 フィビーはリーアンに従って、裏口から城を出た。城を出た瞬間、フィビーは重たいものから解放されたような気がした。


 そのフィビーの後からローリーが付いてきていた。


 フィビーはローリーについて特に好き嫌いを感じたことはなかったが、何となく嫌な予感がした。それよりも今は、一郎に会える喜びでフィビーの頭の中は一杯だった。


〔イチ・ロー様にお会いしたら、なんて言おうかしら。今度こそ、ちゃんとしたお礼を言って。その前にきちんとご挨拶して。でも、先にイチ・ロー様からご挨拶されたら。あ、そう言えば〕


「ねえ、お兄さま」


「なんだ」


「老師にお土産とかお持ちしなくてよろしかったかしら」


「安心しろ。手ぶらで行ったりはしない」


 リーアンが一瞬ローリーの方を振り返った。


〔ああ、彼女が何か持ってるのね〕


 フィビーも釣られて振り向いたが、確かにローリーは小さな包みを抱えていた。


〔でも、イチ・ロー様へのお土産はどうしよう。お兄さまは老師に会いに行かれるのだからいいけれど〕


 そんなフィビーの心を察したかのように、リーアンが言った。


「イチ・ロー殿にも、『土産』は用意してある。心配するな」


 それを聞いてフィビーはほっとした。


〔やれやれ。人のことより、自分の心配をしてもらいたいもんだ〕


 リーアンは一瞥すると平和そうな妹の頭の中を思ってため息を付いた。


 王妃の全快祝いで城下町は浮かれているように見えた。その裏で、フィビーが王妃に会うのを妨害しようとした動きが現に存在した。


 宮殿の、それもリーアンの目の前で、フィビーに向かって剣が向けられた事実は、リーアンを慄然とさせた。フィビーを襲った兵士や、宮殿の屋上から一郎をボウガンで撃った兵士はその場で自殺した。その兵士たちの背後関係の調査はまだ終わっていなかった。


 王妃の全快からまだ四日、言い換えれば、フィビーが宮殿で襲われてからまだ四日しかたっていない。そんな時期にフィビーが外出するのは、ある種の冒険と言えた。ローリーはそのための「後衛」の役目を果たしていた。


 賑やかな中心街からはずれて一時間ほど歩いた頃、フィビーたちはカンボジ老師の道場に着いた。フィビーは何度か城をこっそり抜け出して町に遊びに出ることがあったが、ここまで町外れに来たことはなかった。


 フィビーは古びた道場を見て少しがっかりした。マルカム王国の元武術師範の開く道場だから、もう少し清潔そうな建物かと思っていた。


 リーアンが扉をノックすると、少女が扉を開けて出てきた。フィビーはその少女、チェリーとは初対面だった。


「あら、王子、お久しぶり」


 チェリーは屈託のない笑顔でリーアンを迎えたが、後にフィビーとローリーが控えているのを見てとたんに顔を曇らせた。


「また、女連れ? いい加減に、身を固めたら? その方が世のため、国のため、女のためよ」


 フィビーはチェリーの言葉に思わず蒼ざめた。


〔仮にも王族に向かって、なんて無礼な口を聞くの〕


 しかし、リーアンは気にもとめず笑顔で答えた。


「あいかわらず元気がいいな、チェリー。その調子だと、まだ、男はできないのか」


「関係ないわよ。男なんていなくたって、生きていけるんだから」


 フィビーには、チェリーが挑戦的な目でリーアンを見ているように思えた。


「で、そちらのお二人は?」


「ああ、チェリーは初めてだったな。妹のフィビーと、身の回りの世話をしてくれているローリーだ」


「え、王女様?」


 チェリーは直ちに外に出て、フィビーの前で深々と一礼した。


「失礼しました。王女様、わたし、カンボジの孫のチェリーと申します。よろしくお見知りおきください」


「あ、はい」


 フィビーはチェリーの急変に目を丸くした。


 チェリーは続けてローリーにも一礼した。


「ローリーさん、初めまして」


 ローリーは割合淡々と対応した。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 チェリーはリーアンに向き直った。


「おじいちゃんが、待ってるわよ」


「老師にはご連絡しなかったのだが」


「『そろそろ来る頃だろう』って、今朝から準備させられたのよ」


「老師はお見通しか」


 リーアンは苦笑すると道場の中に入った。


 フィビーはその後に続いた。


 


         3,


 


 中に入ったフィビーは一郎の姿を探したが、がらんとした道場には誰もいなかった。


 フィビーは一郎を探して駆け出したくなるのをじっと堪え、リーアンの後にじっと付き従った。


 リーアンはチェリーの案内で道場の右奥に進んだ。道場の右奥の引き戸のすぐ向こうにカンボジの部屋があった。


 カンボジの部屋の中には中央にテーブルがあり、奥にベッドと机があった。


 カンボジはテーブルの奥の椅子に腰掛けてリーアンたちを迎えた。


「よう、リーアン、よく来たのう」


「ご無沙汰しております、老師。今日は老師のお好きな古酒をお持ちしました」


 リーアンはローリーが懐に抱いている包みを指差した。


 カンボジは顔をほころばせて頷いた。


「彼は、元気でやってますか」


 リーアンが一郎のことを口にしたのはこれが最初だった。


 カンボジは右の眉を少し上げ、部屋の外に立っているチェリーに言った。


「チェリー、イチ・ローを呼んできてくれ」


「はい、おじいちゃん」


 一郎の名前が出てフィビーの顔はぱっと明るくなった。


「わたしも行きます」


 間髪を入れないフィビーのセリフに、チェリーは目を丸くした。


「ど、どうぞ」


 チェリーは廊下をまっすぐに進んだ。


 フィビーはわくわくしながら、チェリーの後に続いた。


 廊下の奥の扉を開けるとそこは裏庭だった。フィビーの目に、外に出て陽の光を浴びたチェリーが白っぽく見えた。


 フィビーもチェリーに続いて裏庭に出た。そこにはフィビーの背丈以上の薪が積んであった。


 チェリーは薪の山を回り込んでから一郎に声をかけた。


「イチ・ロー、おじいちゃんが呼んでるわよ!」


〔何よ、このチェリーって子。イチ・ロー様を呼び捨てにした〕


 一瞬、フィビーはむっとしたが、視界に入った一郎の姿に自分の目を疑った。


 一郎は上半身裸で、道着らしいズボンを履いていた。その体は汗でぎらぎらと光っている上、日に焼けて赤黒くなっていた。


 それよりもフィビーを驚かせたのは、一郎が斧を振るって薪割りをしていることだった。


 フィビーはずっと、一郎は颯爽と剣を振るって武術の修行をしていると信じていた。


 振り向いた一郎に、フィビーの声が重なった。


「イチ・ロー様」


 一郎はチェリーの隣に、フィビーの姿を見つけて、にっこり笑った。


 フィビーは信じられない表情で一郎に駆け寄った。


「武術の修行はどうなさったのですか。これでは、下働きも同じではないですか」


 薪割りは下男以下の身分の低い男がする仕事と、フィビーはずっと信じてきた。


 一郎は静かに斧を置くと、諭すように言った。


「これも修行の内ですよ、フィビー姫。まずはこうやって力を蓄えて、剣を振るう土台を作るんですよ」


「でも」


 フィビーは、一郎が他国者よそものなのでチェリーのいいように使われているのではないかと、訝った。


 フィビーの不信の視線が、チェリーを捉えた。それに気づいたチェリーはフィビーに冷ややかな視線を送った。


 それを知ってか知らずか、フィビーとチェリーの間に一郎が割って入った。


「老師がお呼びなんですね、先輩」


「そうよ」


「分かりました」


 そう言うと一郎は建物の中に入った。


「せんぱい」


 フィビーは一郎の言葉を繰り返して、不思議そうな顔でチェリーを指差した。


「当然ですわよ。わたくしの方が、イチ・ローよりもたくさん修行を積んでおりますのよ」


「あなた、何歳なの」


「十五歳です。それがなにか?」


〔わたしと同い年〕


「あなた、イチ・ロー様より、年下じゃないの。なのに」


 フィビーがほんの少し泣き出しそうな表情を見せた。


 それに気づいたチェリーは、フィビーが一郎をどう思っているのかが解った。


「お姫様、わたしは、あなたの『イチ・ロー様』をいじめているわけでも、下働き代わりにこき使っているわけでもありません。それだけは、信じて下さい。ただ、同じ修行するもの同士のしきたりというものがあるのです。ご理解いただけますか?」


 チェリーの頑とした口調は、フィビーを強引に頷かせた。


〔これだから、深窓のお嬢様って困るのよ。世間知らずなんだから〕


 チェリーは心の中で舌打ちした。


〔この子、イチ・ロー様がどんな立派な人か知らなさすぎるわ〕


 フィビーは心の中で抗議の声を上げた。


 二人とも心の中に不満を残し建物の中に入った。


 


         4,


 


 一郎はドアを開けて中に入った。


 カンボジの部屋の中は、酒盛りの真っ最中だった。


 そこにリーアンとローリーがいるのを見つけ、一郎はフィビーがここにいるわけが解ったような気がした。


「元気でやってるようだな」


 杯を片手に、リーアンが会釈をした。


「王子も、お元気そうで、なによりです」


 ローリーは一郎に会釈だけすると、カンボジにお酌をしていた。


 若い女性を侍らせてカンボジは締まりのない笑顔になっていた。


 そのときローリーが「あっ」と小さな悲鳴を上げた。


 一郎はカンボジの右手がローリーの腰から下を優しくなでているのが見えた。


 一郎がそれを見咎めようとしたとき、リーアンが声をかけた。


「イチ・ロー殿」


 リーアンは涼しげな表情をしていた。


「酒の席で野暮は止めてもらおうか」


 一郎は信じられないといった表情でリーアンを見た。


 宮殿で一郎にローリーを引き合わせたことを考えるとこれぐらいはリーアンにとって普通のことかもしれない。


 しかし、一郎は釈然としない表情で、テーブルに着いた。


 リーアンから酒を勧められた一郎は、城の宴会で飲んだ梅酒のような酒を想像して口に運んだ。


 だが、実際にはかなり強い酒だった。味も日本酒に近かった。


 一郎はたまらずむせた。


「イチ・ロー、酒は、はじめてか」


 カラカラと高い笑い声を上げてカンボジは笑った。


「いえ。こんな強いお酒は初めてですが」


「おお、そうか」


 フィビーとチェリーが入ってきた。


 カンボジは表情を崩さず、チェリーに言った。


「チェリー、すまんが、酒の肴を作ってくれ」


「はい」


 チェリーは部屋の中を見渡してから、台所に向かった。


「フィビー」


 リーアンはフィビーを呼ぶと何事か耳打ちした。


 フィビーは一郎を見て一瞬ためらったが、リーアンが再度耳打ちすると、意を決したように部屋の外に出た。


 リーアンとカンボジは視線で合図を交わした。


 一郎は二人の雰囲気が変わったのを感じた。


〔なんだ。何が始まるんだ〕


 部屋が静かになったところで、リーアンが切り出した。


「イチ・ロー、ここへ来てから、誰かの視線を感じたことはないか」


「いいえ」


「そうか」


「どうしたんです」


「実は、宮殿で君とフィビーを襲った兵士のことなんだが」


「何か解ったんですか」


「一応、解決したんでイチ・ローの考えを聞かせてほしいんだ」


「それで」


「犯人は全員自殺した。犯人は、フィビーの旅の護衛を命じられた騎士たちだった。その遺書によれば、砂漠でサンドボーラーに襲われたときフィビーを見捨てたため、それを責められるのを恐れ、偽物を立てて誤魔化そうとした、とあった。だが、フィビーが生きて砂漠から戻ってきたので、嘘を守り通すため、フィビーと君を口封じに狙ったというのだ」


〔なるほど、そういうことだったのか。だが、待てよ。変だな〕


「それでは、北の城門で僕らを襲った兵士たちは」


「そう、それの説明が付かない」


「犯人たちとの結びつきを示すようなものは何かないんですか」


「なにもない。それどころか、フィビーと君が泊まったという『海鳥亭』さえ、影も形もない」


「え、そんなことが」


「実際に行ってみたが、そこはただの空き家で、人が争った跡はおろか、人が暮らしていた形跡さえなかった」


「ということは、パンコムさん、宿屋のご主人ですけど、パンコムさんが再度の襲撃を恐れて片づけたか、兵士に命じた連中が痕跡を隠したか」


「そのどちらかだが、全く痕跡を残さないというやり方が、かえって不気味だ」


「犯人の一味、いや組織はかなり大きい、と見ていいわけですね」


「だが、それだけのことをしておきながら、君とフィビーにはもう手を出してはいない」


「では、犯人の組織の目的は、王妃様の全快を妨害するため」


「とりあえずそういうことだろう。いずれまた動き出すだろうが」


「なにかあったんですか」


「ああ、自殺した犯人たちの背後関係を調べてみたんだが、特にこれと言って何も出てこなかった。誰かに命じられたのだとしたら、命じた奴はとんでもない大物だな」


「まさか、王子は国の重臣の中に犯人がいるとお考えなのでは」


「可能性としては、叔父のベンデス大臣かな。だが、王位継承が目的なら、父やわたしを狙うはずなんだが」


「それ以外に目的があるんでしょうか」


「さっぱり、わからん」


 リーアンは最後には笑って肩をすくめて見せた。


〔国の一大事を笑っていられるとは、さすが大物と言うべきか〕


 そのとき、チェリーが食事を運んできた。


 


         5,


 


 その少し前、フィビーはチェリーに話しかけた。


「チェリーさん、ちょっといいかしら」


 チェリーは下ごしらえの済んだ材料を、鍋の中に放り込んでから返事をした。


「いいですよ。ただし、料理の邪魔はしないでくださいね」


「さっきはごめんなさいね。わたし修行のこと、何も知らなくて」


「べつに、いいんですよ」


「お兄さまのこともご存知のようだから、お友達にならない? 教えて欲しいことがあるんですけど」


「どうぞ、何でもおっしゃって下さい」


「ああ、もう、敬語は止めて。わたしのことはフィビーでいいわ。あなたのこともチェリーって呼んでいいかしら」


「ええ、まあ」


 急に親しげに話しかけるフィビーにチェリーは不審げに眉を動かした。


「イチ・ロー様の修行って、順調なのかしら」


 チェリーは手を休めてフィビーの顔を見た。


 少しはにかんだフィビーの表情が女の子らしく思えるが、チェリーには少しだらしなく見えた。


〔このお姫様の目的は、男か〕


 チェリーは「友達になりたい」という言葉が何となく怪しく思えてきた。


 短くため息をついて、チェリーは手を動かし始めた。


「そうね、ここへ来てまだ一週間だから、順調といえば順調かもしれないし、そうでないかも」


 フィビーはどちらともつかないチェリーの返事にもどかしさを感じた。


〔でも、まだ、一週間ぐらいじゃ、何も解らないかも〕


 そう考えるとフィビーも少しは気分が落ち着いた。


「それじゃ、イチ・ロー様って食べ物で好き嫌いとかあるかしら?」


「ないわよ。今までいろんなもの作って食べさせたけど、みんな、『おいしい、おいしい』と言って食べてくれたから」


 一瞬、フィビーの胸が疼いた。


〔イチ・ロー様が、この人の手料理を食べてる。わたしは料理なんて作ったことがない〕


 フィビーはチェリーが羨ましくなった。


〔宮殿で料理を習いたいなんて言ったら、みんなびっくりするかしら。でも、料理ができてイチ・ロー様に食べてもらえたら。そして、わたしにも『おいしい』って言ってもらえたら〕


「フィビー姫」


 チェリーに話しかけられて、フィビーは想像を中断した。


「あ、ごめんなさい」


「いいのよ、別に。友達にもそういう子が一人いるから」


「え、どういう」


「男に惚れて、なんにも周りが解らなくなっている子が、ね?」


「わたしは別に、そんなことは」


「友達になりたいって、言った人が、その友達のことは何も聞かずに、男のことばかり質問するのは、周りが見えてない証拠よ」


 口調が優しい分、フィビーにはチェリーが少し怒っているように思えた。


「あ、ごめんなさい」


 逆にフィビーの素直な口調が、チェリーには耳当たりがよかった。


「いいのよ」


 チェリーは皿を並べると、料理を盛りつけ始めた。


「でも、フィビー姫も、あんな男のどこがいいの?」


「イチ・ロー様は、『あんな男』じゃありません。賢くて、優しくて、凛々しくて、勇気があって、何より格好よくて、頼りになるんです」


「じゃあ、『友達』から言わせてもらうけど、あんな変態男はさっさと忘れた方がいいわよ」


 このときのチェリーはフィビーに他意がなかった。


「イチ・ロー様が、『変態』?」


 フィビーには信じられない言葉だった。その次のチェリーの言葉は、もっと信じられなかった。


「あの男はね、あたしの赤い帯を手にとって眺めてニヤニヤしていたのよ。背筋が寒くなったわよ」


「うそ」


「信じられない? 自分で聞いてみてもいいわよ。イチ・ローが本当のことを言うとは限らないけど」


 盛り付けが整ったところで、チェリーは大皿を運んだ。


 チェリーが皿を運び終わって次の料理を運ぼうと戻ってきたとき、フィビーはまだ呆然と立ちつくしていた。


〔ほんと、疑うことを知らないお姫様ね〕


「フィビー姫」


 チェリーはチェリーなりにフィビーを慰めようとした。


「男はみんな、スケベな生き物なのよ。女のことなんか、モノとしか思っていない勝手な生き物なんだから、あまり入れ込まない方がいいわよ」


「わたし、イチ・ロー様と一緒に、一週間も旅をしました。でも、イチ・ロー様は、わたしを守ること以外なにもしなかった、とても紳士的な人です」


「当たり前じゃない。いくら外国人だって、一国の姫に手を出したり、傷つけたりしたらどうなるか、想像がつくわよ」


 そう言われては、フィビーに返す言葉がなかった。


〔あらあら、すっかりしょげちゃってるよ、このお姫様は〕


 チェリーとしては、半分冗談めかして忠告したつもりだった。


〔それをここまで信じられると、責任感じるなあ〕


「フィビー姫」


「はい」


「一応、イチ・ローも言い訳はしたんですよ。何でも、赤い帯はイチ・ローの国では男の下着なんですって」


 フィビーはきょとんとした表情で、チェリーを見つめた。


「あなたは、このイチ・ローの言葉が信じられる?」


 フィビーは考え込んだ。


 フィビーは記憶の糸をたぐって一郎が似たような言動をしたのを思い出した。


〔そう言えば、パンコムさんの宿屋で、わたしの椅子を引いてくれたわ。あのときはイチ・ロー様は自分の国の習慣だと言われたわ〕


 フィビーの顔が明るくなった。


「信じます」


「なら、いいわ。あなたが見たイチ・ローとあたしが見たイチ・ローは同じだけれど、同じじゃない。今はそういうことにしましょうよ」


 チェリーの禅問答のような言葉にフィビーは返事をためらった。


「つまり、あたしと姫のどちらが正しいのか、はっきりするまでこのままということよ」


 フィビーはやっと納得した。


「はい」


「だけど」


 チェリーは釘を刺した。


「姫が男のこと以外目に入ってない状態なのは確かですからね。今のままじゃ、何もかも歪んで見えるわよ。これは、『友達』からの忠告、よ」


 そういい残してチェリーは最後の料理を運んでいった。


 チェリーの言葉をフィビーはまもなく実感することになった。


 


         6,


 


 カンボジとリーアンは、海賊退治の話で一時間ほど盛り上がった。


 一郎はリーアンやカンボジほど酒を飲んでいなかった。不思議に一郎にはあまり酒を勧めず、リーアンとカンボジばかりが杯を空けていた。


 一郎は海賊と聞くと、ピーターパンに出てくるようなフック船長を思い浮かべたが、リーアンの話の内容はそれとは違っていた。


 リーアンが言う海賊とは、かつてこのマルカム王国の北にあったサイレス王国の残党だった。


 それは、今もマルカム王国の港町を侵略して、領土を求めているという話だった。ただ、サイレスという国はもはや存在しないため、戦争ではなく「海賊退治」という名目が付いたと言うことだった。


 リーアンはそんな海賊たちのアジトの一つで、ローリーを拾ったと言った。だが、リーアンは今一つローリーのことを詳しく言おうとしなかった。


〔王子なりに、ローリーに気を使ってるのかな? だとしたら、案外フェミニストなのかも〕


 一郎はそう考えただけで、特にローリーのことを気にとめなかった。


 話が盛り上がったカンボジとリーアンは馴染みの酒場へ行くと言いだした。


「それで、イチ・ロー殿、まことにすまんが、フィビーを城まで送り届けてやってくれないか」


 酒で赤くなった顔で、リーアンは少しだらしなく笑いながら言った。


「はい、分かりました」


〔この状態じゃ、まともには帰れないだろう〕


 一郎は苦笑いを隠しながら、二つ返事で答えた。


 道場の玄関で、一郎とフィビー、リーアンとカンボジの二組が別々の方向に出発した。


 一郎が出かけようとした矢先、チェリーが一郎にお遣いを言い渡した。


「人参とほうれん草、帰りにもらってきてね。八百屋のおばちゃんには言ってあるからね」


「はい、先輩」


 一郎は笑顔で、チェリーから買い物かごを受け取った。


 それを見ていたフィビーはがっかりした。


 やはり、どう見ても、チェリーは一郎をいいように使っているように思えた。


 また、一郎もチェリーの言いなりになっていることを喜んでいるように見えた。


 それでも、一郎と並んで歩けるのがフィビーにはうれしかった。


「イチ・ロー様」


「なんですか、フィビー姫」


 一郎の口調もフィビーが覚えていたとおりやさしいものだった。


「修行って、辛くありませんか」


「確かに、今は楽しいとは言えません。でも、いずれ役に立つときが来ますよ」


「お食事は、どうですか。イチ・ロー様のお口に合います?」


「チェリーさんの食事は、けっこうおいしいですよ。なんでも、お友達に料理を教えているそうです」


〔そうなの。あの子、人に教えるほど料理がうまいのね〕


「イチ・ロー様、道場に寝泊まりされてると聞きましたけど、ご自分の部屋が必要とは思われませんか」


「今は、まだ、いりません。道場に寝泊まりするのは結構緊張感があっていいですよ」


「そうだわ。イチ・ロー様、新しいお召し物はいりません? いつも稽古着では、ご不自由でしょう」


 一郎は、笑顔で首を横に振った。


「フィビー姫、そのお気持ちだけで十分です。いずれここを出るときは、何かお願いに上がると思います。そのときまで、今のお気持ちは取って置いて下さい」


「はい」


 一郎とフィビーは、城下町の中央通りに出た。あとは城まで一本道だった。


 賑やかな通りとは対照的に、一郎もフィビーも一言も発しなくなった。


 フィビーが見る限り、一郎の表情はどことなく硬かった。


 それは、少し怒っているようにも、少し緊張しているようにも見えた。


 一郎は、先ほどのリーアンの言葉が心の中で引っかかっていた。


〔確かに、もう敵は現れないかもしれない。しかし、まだ敵が俺たちを狙っているとしたら〕


 昨日までは安全に思えた町の中が急に敵意に満ちているように感じられた。一郎は周囲に気を配らざるを得なかった。


〔フィビー姫と二人きりだなんて、狙って下さいと言ってるようなものだな〕


 そう考えて、一郎ははっと気づいた。


「イチ・ロー様」


 フィビーの声に一郎は、少しあわてたように振り返った。


「は、はい」


「なんだか、疲れてらっしゃるように見えますけど」


「そんなことは、ありませんよ。ただ、フィビー姫とこうして歩くのも久しぶりですから、少し緊張してるんですよ」


 それを聞いたフィビーの頭の中にチェリーの言葉が浮かんだ。


〔王族に手を出したり、傷つけたりはできない〕


 城までの短い距離とはいえ、一郎はフィビーの護衛をリーアンから命じられたようなものだった。


「イチ・ロー様、その、ご迷惑だったかしら、いきなりお訪ねしたりして」


 フィビーは遠慮がちに聞いた。


「いえ、決して、そんな」


 だが、一郎のはっきりとしない口調はフィビーを不安にさせた。


〔何か、違う〕


 フィビーの目には急に一郎が別人のように映って見えた。


「イチ・ロー様、はっきりとおっしゃって下さい。そんないい加減なお返事、いつものイチ・ロー様らしくありません」


 フィビーが声を上げた。


 


         7,


 


〔なんだ。急に、どうしたんだ〕


 一郎はフィビーの急変にとまどった。


 フィビーのらしくない大声に、通りを歩いている人たちも振り向いた。


 一郎はリーアンから聞いたことをフィビーに話そうか迷った。


 暗殺の危険性を告げたらかえってフィビーを怖がらせるのではないかと口をつぐんでいたら、逆にフィビーの気分を害する結果になっていた。


 一郎は世間の耳目を集めるのはまずいと思って、フィビーを促した。


「フィビー姫、ここではなんですから、先を急ぎましょう」


 一郎が差し出した手を、フィビーは拒むように後ずさりした。


「イチ・ロー様、わたしと一緒じゃ、楽しくないですか」


「ど、どうして、そんな」


「だって、お話ししても上の空だし、なんだか帰りを急いでいるみたいで」


「分かりました。訳をお話しします」


 そのとき、五、六人の子供が一郎とフィビーの間をはしゃぎながら駆け抜けていった。


 フィビーは一郎との間が開きすぎたと思って少し一郎に近寄った。


 そのとき遅れて走ってきた小さな男の子が、フィビーとぶつかった。


 フィビーはその場で少しよろめいただけだった。


 男の子は跳ね返るように転がった。転がった先に、建築の足場に使うような板や丸木が立てかけてあった。


 男の子はその丸木や板に勢いよくぶつかって、その場に尻餅を付いた。


 視線で男の子を追っていたフィビーは、驚いて目を見開いた。男の子の上に無数の板や木が倒れかかってきたのだ。


「どいて」


 一郎はフィビーを押しのけると、飛び込むように素早く男の子の上に倒れかかった板と丸木を両手で支えた。


〔さすが、イチ・ロー様〕


 フィビーがほっとしたのも束の間、今度は一郎めがけて殺到するように丸木や板が倒れ込んできた。


 フィビーは思わず息をのんだ。


「きゃあ」


 それを見た通りがかりの女性が悲鳴を上げた。


 三本の丸木が同時に一郎の右腕を叩いた。


 その衝撃に耐えられなかったのか、一郎は支えていた右手を曲げた。


 一郎はゆっくりとかがみ込むと、男の子の上に覆い被さった。その一郎の上に何本もの丸木が叩きつけられた。


 木と木がぶつかり転がる大きな音が通りに響きわたった。土埃が舞い上がり、一瞬、一郎の姿をぼやけさせた。


「イチ・ロー様」


 フィビーは思わず駆け寄った。


 女性の悲鳴もあってたちどころに野次馬が集まった。


 埃が収まったあとは、堆く積み重ねられた丸木の山が残った。


 子供に覆い被さるように、一郎は丸木の中に埋まっていた。


 その中で、一郎は涼しげな笑顔を浮かべていた。


「坊や、名前は」


「ビビアン」


 男の子は今にも泣き出しそうにおびえた表情で返事をした。


「いい子だ、ビビアン。えらいぞ。よく泣かなかったな」


「ぼ、僕、男の子だもん。泣かないよ」


「どこか、痛いところはないかい」


「ううん。おにいさんは」


「お兄さんは、鍛えているから、平気さ」


 駆け寄ったフィビーが声をかけた。


「イチ・ロー様、ご無事ですか」


 背中に丸木を載せながら、一郎は返事をした。


「大丈夫ですよ」


〔イチ・ロー様、今、大丈夫って、言った〕


 フィビーは一番聞きたかった言葉を聞いたような気がした。


 背中に載った丸木が邪魔で一郎は顔をフィビーに向けることができなかった。


〔よかった〕


 一郎の声が意外に明るかったので、フィビーはほっと胸をなで下ろすことができた。


 集まってきた男たちが、一郎の背中の木を取り除き始めた。


 その間、フィビーの目に、男の子に覆い被さっている一郎がかつての一郎の姿とだぶって映った。


〔城の中庭でああやって、わたしを弓矢から守ってくれた〕


 フィビーの胸の中に熱い水が一滴垂らされかき混ぜられた。


 上に載った丸木が取り払われて、ようやく一郎は立ち上がった。


 一郎の下になっていた男の子も元気に立ち上がった。


 それを見て、周囲の人垣から拍手と歓声が沸き上がった。


「おにいさん、ありがとう」


 男の子はぺこりと頭を下げると、一郎の前を走り去っていった。


 一郎は周囲の人垣を前にして照れくさそうに手を挙げて拍手に応えた。そして、フィビーの手を握ると人の輪の外へそそくさと逃げ出した。


 


         8,


 


 フィビーの右手を一郎の左手が握っていた。一郎の手から伝わってくるぬくもりがフィビーには懐かしく感じられた。


〔こうやって、猿人の森も、北の城門も、この城下町の中も、走ったんだわ〕


 少し離れたところで、一郎は歩度をゆるめた。


「すみません、フィビー姫。また、驚かせてしまいました」


「いいえ、いいんです」


 一郎は握っていた左手を開いた。


 力なくフィビーの右手が離れた。


「行きましょう」


 一郎は短くそう言って歩き出した。


 フィビーは頷いただけだった。


 歩きながら、一郎はリーアンから聞いたことを話した。


「結局、犯人の黒幕までたどり付くことができなかった、と王子はおっしゃってました」


「そうでしたの」


「それで、王子はもしかしたら、姫やわたしがまた狙われるのではないか、と心配しておられたのです」


「だから、イチ・ロー様は帰りを急がれたのですね」


「はい」


〔よかった。イチ・ロー様は、変わられた訳じゃなかった〕


 安心したフィビーの心の中に、まだ引っかかるものがあった。


〔では、なぜ、イチ・ロー様が、変わったと感じたの〕


 フィビーは一郎を頭から足のつま先までじっくり観察してみた。


 着ているのは、武術の稽古着なのだが、服装のせいではないように思われた。


 以前よりも日に焼けた顔は、一郎をたくましく感じさせた。


〔何が、変わったというの〕


 一郎を観察しながら歩いている内に、フィビーは一郎の右手が不自然な動きをしていることに気づいた。


〔そういえば、さっき男の子をかばったとき〕


 フィビーは一郎の右腕に丸木が倒れ込んだのを思い出した。


 一郎の右手はだらりと垂れ下がっていた。


「イチ・ロー様、右腕をどうかなさったのですか」


「何でもありませんよ」


 フィビーは一郎が一瞬困惑したのを見逃さなかった。


「では、見せて下さい」


 一郎は立ち止まって、明らかに困惑した表情を見せた。


 それでも、覚悟できたように一郎は右腕をフィビーの前に差し出した。


 フィビーはおそるおそる一郎の右腕に手を伸ばした。


 よく見ると一郎の右腕の中ほどが紫色に腫れ上がっていた。


「イチ・ロー様、痛くないのですか」


 フィビーの指先が軽く触れたとたん、一郎は腕を引っ込めた。


「平気ですよ」


 一郎は笑顔を作って見せたが、フィビーには信用されなかった。


「そんな。こんなに腫れてるのに」


「行きましょう、フィビー姫」


 一郎は再び歩き出した。


 フィビーはあることを思いついた。


「イチ・ロー様、お母様に見てもらいましょうよ」


「それだけは絶対にだめです」


 一郎はとりつく島を与えなかった。


「そんな。お母様の神聖魔法なら、あっという間に治りますわ」


「フィビー姫、忘れたんですか。王妃様は魔法の力を使い過ぎて倒れられたんじゃなかったんですか」


「イチ・ロー様は、特別です。イチ・ロー様なら、きっと治して下さいますわ」


 一郎は立ち止まった。続いてフィビーも足を止めた。


 一郎は静かに首を振った。


「それでもだめです。これは僕自身の責任で起きたことです。これから一人で生きて行くには、自分のことはなるべく自分の力で解決しなくてはだめです」


 一郎の言い方が強かったせいか、フィビーはうなだれてしまった。


 それを見て一郎は諭すように言った。


「フィビー姫のお気持ちは大変うれしいんですが、自分はまだ修行中の身です。こうした怪我も自分の力で乗り越えなければ、一人で旅をすることはできないでしょう」


 フィビーは自分の中の不安の正体が少し判りかけてきた。


〔イチ・ロー様は、やはり、お独りで行かれるつもりなんだわ〕


 フィビーがすっかりしょげ返っているように見えた。


〔きつく言い過ぎたかな。どう言えばよかったんだろう〕


 一郎はフィビーの気を別の方向に向けようとあることを思いついて、懐の中から、定期入れを取り出した。一郎の手元に残された数少ない元の世界の匂いがするものだった。


 定期入れの中から一枚のテレホンカードを取り出すと、フィビーの目の前に差し出した。


 フィビーは金の縁取りの四角い枠の中に描かれた小さな絵に目を見張った。


「まあ、きれい」


 テレホンカードには「宗谷岬の朝焼け」と但し書きが付いていたが、フィビーは日本語が読めなかったようだった。


「どうぞ。お手に取って見て下さい」


 フィビーはテレホンカードを受け取ると目を輝かせて食い入るように絵を見つめた。


「イチ・ロー様、これは素晴らしい細工ですわ。こんな薄い板の上に本物のような朝日の絵、それに加えて縁に薄い金箔を張るなんて、どんな名工がこれを作られたのでしょう」


 フィビーの顔がほころんだ。


 それを見て一郎も満足そうに微笑んだ。


「お城で何があったかは知りませんが、僕は元気な笑顔のフィビー姫が、一番フィビー姫らしいと思いますよ」


 フィビーは少し驚いたように顔を上げた。


「フィビー姫は気づかないでしょうけど、今日の姫の笑顔を見るのはさっきが初めてなんですよ」


 フィビーは心の中の絡まった糸をほぐす糸口を見つけた思いだった。


「わたしが、変だったの」


「そうじゃありません。いつもの笑顔をやっと拝見できたということですよ」


「いつものわたしじゃなかった、ということ?」


「それは、フィビー姫が自身で考えて下さい」


 一郎は肯定も否定もしなかった。ただ、涼しげな笑顔を浮かべて再び歩き出した。


〔イチ・ロー様は、変わってなかった。変わったのは、わたし〕


 一郎の背中を見つめてフィビーは自問した。


〔でも、わたしの何処が変わったの〕


 フィビーは一郎に付いて歩き出した。


「さっきの話の続きですが」


 一郎の言葉にフィビーは考えを中断した。


「さっきのお話、というと」


「実は、先ほどリーアン王子から聞いたことですが、僕らを中庭で襲った兵士のことなんです」


 フィビーは北の城門でも、そして王宮の中でも命を狙われたことを思い出した。一郎に聞かされるまで、フィビーの頭の中には襲ってきた敵に対する意識が全くなかった。


「そう言えば、すっかり忘れてたわ。あれからどうなったのかしら」


「城で僕たちを襲った犯人は全員自殺しました」


「よかった。それでは、もう大丈夫なのですね」


「リーアン王子は誰かに命じられて僕たちを襲ったと言うお考えでしたよ」


「黒幕がいるのですね。でも、それは誰なんです」


「わかりません。調査できたのはそこまでだそうですよ」


 やがて、城の正門が見えてきた。


「それでは、まだわたしたちを狙っているものがいるということですね。イチ・ロー様、あれから変わったことは」


「ありませんよ。フィビー姫はどうでしたか」


「わたしも特には」


 そこまで口に出してフィビーははっと気づいた。


〔だから、イチ・ロー様も、お兄さまも、わたしに気を使って〕


 フィビーはチェリーの言葉を思い出した。


〔本当だわ。わたし、まわりのこと、何も見えなくなっていたのね〕


 その直後、フィビーは自分の体重が急に増えたような感覚に包まれた。


〔わたし、イチ・ロー様に会いたい一心で、イチ・ロー様の迷惑になるなんて全然思いもしなかった〕


 紫色に腫れ上がった一郎の腕を見て、フィビーの心は重くなった。


〔わたしに神聖魔法が使えたら、すぐに治してさしあげるのに。なにもできないわたしじゃ、イチ・ロー様と旅に出るなんてとんでもないこと、イチ・ロー様の足手まといになるだけだわ〕


 フィビーは目の前の一郎の背中がひどく遠くにあるように感じた。


「さあ、着きましたよ」


 振り向いた一郎の向こうには正門が見えていた。


 一郎のほっとしたような表情の意味が、今ならフィビーにも理解できた。


〔そうよ。イチ・ロー様はずっとわたしのことを考えていてくれたんだ〕


 フィビーは一郎の視線を避けるように一礼した。


「イチ・ロー様、どうもありがとうございました」


 フィビーは手の中のテレホンカードを一郎の前に差し出した。


 一郎は首を振って受け取らなかった。


「差し上げます」


「よろしいんですか。大切なものではないのですか」


 フィビーは恥ずかしさに染まった顔を上げた。


「姫の笑顔が見られるなら、安いものです」


「ありがとうございます、イチ・ロー様。大切にします」


 フィビーはテレホンカードを胸の中にしまった。


「イチ・ロー様、一つだけ、約束して下さい」


「なんでしょう」


「この国を出るときは、必ずわたしのところに来て下さい」


 一郎にお願いするのは虫が良すぎると、心のすみで思った。


 一郎は比較的あっさりと返事をした。


「もちろんですよ。姫に黙ってどこかに行ったりなんてしませんよ」


 フィビーは少しだけ心が躍った。


 改めて一礼すると、フィビーは門の中に入っていった。


 門番はフィビーを深々とした一礼で迎えた。


 フィビーは少し小走りに城の中に消えていこうとしていた。


 不意にフィビーは振り返ってみた。


 門の向こうにまだ一郎は立っていた。


 フィビーは思わず、少し遠慮がちに手を上げて振ってみた。


 一郎も、左手を肘から下だけ上げて手を振り返した。


 フィビーの心に熱いものが満たされていった。


〔結局、また、何も言えなかった。こんなにイチ・ロー様のことが好きなのに〕


 フィビーは、手を降ろすと、駆け込むように城の中に入っていった。


 


         9,


 


 一郎はフィビーの姿が城の中に消えて、やっと手を降ろした。


〔やれやれ、騒がしいお姫様だったな。でも、そこが結構かわいかったりして〕


 それにしても、と一郎は自分の右腕を見た。


「よく我慢できたものじゃのう」


 いつの間にかカンボジが一郎の隣に立っていた。


 一郎は少しだけ驚いたが、それより先にカンボジが右腕を思いきりつかんだため、激痛に顔をゆがめた。


「痛っ、痛い。痛いですよ、老師」


「なあに、大丈夫じゃ。骨に軽くヒビが入っただけじゃ」


「やっぱり、イチ・ロー殿の腕、ヒビがはいってたか」


 リーアンもカンボジの隣に立っていた。


「やっぱり、二人とも、僕たちの後を付けてたんですね」


「まあ、そういうことじゃ」


 カンボジは用意していた添え木を一郎の腕に当てた。とたんに激痛が一郎の腕から全身に走った。


「痛い。老師、できれば、もっと、優しく」


「甘えるでない」


「『これぐらい自力で切り抜ける』、じゃなかったのかね」


 リーアンは意地悪そうに笑顔を浮かべて言った。その隣に立っているローリーは無表情だった。


「いやだなあ。王子は立ち聞きもしてたんですかっ。いてっ」


 カンボジは添え木を包帯で巻き、しっかりと固定した。


「ま、こんなもんじゃろう」


 カンボジは、包帯のできばえを見て、頷いた。


 一郎はとりあえず痛みが収まったことに驚いた。


「さすが、老師。お見事なお手当ですね」


 一郎は右手を開いたり握ったりしてみた。忽ち激痛が右腕から全身に走った。


 一郎は思わず顔をしかめた。


「こりゃしばらく修行はお休みじゃな」


「老師、左手一本でも、薪は割れますよ」


「ほほう、頼もしいことじゃ。修行が辛いとすぐに逃げ出した誰かさんとは大違いじゃのう」


 リーアンは肩をすくめて鼻白んだ。


 一郎が視線を向けるとリーアンは照れた笑顔を浮かべて言った。


「遠い昔のことだ」


「その男が今やこの国の正規軍の司令官で、武術師範代理というのじゃから、世の中とは面白いものよのう」


「軍の司令官で、武術師範代理。それはすごいですね」


「なんじゃ、知らんかったのか」


「すみません。お城では王子としか聞いてなくて」


 一郎は恐縮して頭を下げた。


「いいさ。特に説明もしなかったのは確かだ」


「女がおれば、男は変わるもの、ということじゃな」


 カンボジの言葉に、無表情だったローリーが恥ずかしそうにうつむいた。


「それにしても、老師も王子も人が悪いですよ。フィビー姫とわたしをおとりにしようなんて」


「まあ、二人一緒ならひょっとして何か動きがあるかと思って、観察してたんだが」


「何も起こらなかったのう」


「しばらくは、安心ということだな」


「じゃ、リーアン、わしらは飲み直すとするか」


「そうですね、老師」


 そして、一郎を残して三人は今度こそ本当に酒場に入っていった。


 一郎はチェリーの用事を済ませると道場へ戻った。


 


         〇


 


 宮殿は静まり返っていた。


 足早に王妃の元に急ぐフィビーの足音だけがよく響いた。


 着替え終わったフィビーは即座に王妃の部屋へと向かった。


 扉の前に立ったフィビーは一瞬ためらった。


 母には内緒で、一郎の元に出かけてしまった負い目があった。そして、これからする自分の願いを母である王妃が聞いてくれるかどうか、判らなかったからである。


 フィビーは気を取り直して、扉をノックした。


 すぐに返事が帰ってきた。


「どうぞ。お入りなさい」


 フィビーは扉を開けた。


 部屋の窓際の明るいところで、王妃フィルーは椅子に腰掛け本を読んでいた。


 王妃は静かに本を閉じると、机の上に置いた。


「ただいま戻りました、お母様」


「お帰りなさい。フィビー、あなたももう大人なのですから、わがままを言ってリーアンを困らせては駄目よ」


 すでにフィルーはフィビーがリーアンと出かけたことを知っているようだった。


「はい」


「それで、ご用は何」


 フィビーから見て母の視線はすべてを見通すような澄んだ輝きを持っていた。その視線と自分の視線を重ねるのが何となく辛かった。これから言うことがわがままなのかもしれないと、感じていたからだった。


〔でも、言わなかったらなにも始まらない〕


「お母様、お願いがあるのです」


「なにかしら」


「わたくしに、神聖魔法を、ご教授下さい」


 フィルーの目がきらりと光った。


 やや沈黙があった。


「わたくしも、お母様のように、人のために役に立ちたいのです」


「その言葉に、嘘、偽りはありませんね」


「はい」


「覚えた魔法を決して自分のために使わないと約束できますか」


「できます」


〔わたしが魔法を使うとしたら、それは、イチ・ロー様のため〕


 フィルーは椅子から立ち上がった。


「修行の中には、命がけのものもあります。それでも、やりますか」


「はい。覚悟はできております」


「判りました」


 フィルーは机の引き出しから、白い布の包みを取りだし、フィビーに手渡した。


「これに着替えていらっしゃい」


「はい」


 フィビーは包みをしっかり抱えると、一礼して部屋を出た。


 フィルーは部屋の中でぽつりともらした。


「まもなく、チャレンジャーが誕生する」


 


         〇


 


 包みを抱えて自分の部屋に戻ったフィビーは、窓の外に広がる町の景色に目をやった。


 むろんここから、一郎のいる道場は見えない。しかし、その町の中で一郎が暮らしていると思ったとき、フィビーの目には町が生き生きとしたモザイクの絵のように思えた。


 


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