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第十三章 「もう一つの刻印」

 本家サイトはもう7年以上更新しておりません。本家サイト(http://www2.famille.ne.jp/~nv4wm/)をご存知の方には、申し訳ない気持ちで一杯です。

 このサイトに小説『ワールドマスター』を転載しようと思ったのは、15年前の作品にまだ何らかの力があるのか確認したかったのです。

 どのような結末を迎えるかは定かではありませんが、最期までお付き合いくだされば幸いです。


「ワールド マスター 1  ~ マルカム王国編 ~」


--------------------------------------------------------------------------------


 第十三章 「もう一つの刻印」


 


         ○


 


 ベンデス大臣の反乱は結局その日のうちにすべて鎮圧された。


 バネコバの暗示で動かされていたとはいえ、反乱の首謀者として動いたことを聞かされたベンデスは、その日の夕方、毒を飲んで自殺した。


 だが、死者はその一人だけだった。


 戦いのさなか死んだ者はすべて、フィビーの復活の呪文で生き返った。


 


         1,


 


 大宴会が始まった。


 つい三日前、収穫祭で大騒ぎだった城下町が再び、活気に満ちた。


 城下町の至る所で、チャレンジャーの旗が掲げられその誕生を祝った。


 城の大広間では、一郎が上座の中心に据えられ、その左右にフィビーとチェリーが腰を下ろした。


 チェリーは今まで着たことのない豪華なドレスを着せられ、落ち着かない様子だった。さきほどから水ばかり飲んでいる。


 もっと落ち着きがないのが、一郎だった。


 砂漠からフィビーを連れて生還したときは、上座に王室の面々が控えていたのでまだ救いがあった。今度は、大広間に集まった大勢の目がもっとも注がれる場所に座らされたわけである。


 ただ、前回と違うのは、返杯責めにあわずにすんでいることである。というよりみんな遠巻きに一郎たちを眺めるだけで、あまり近寄ってこないのが実状である。


 フィビーは少し寂しそうな表情を浮かべていたが、一郎に向けて笑顔を見せていた。


 そんな一郎たちにも、微かな話し声は聞こえてくる。


「あの、王女様を助けた異国の男が、チャレンジャー様になられたそうだ」


「それで、チャレンジャー様の脇に控えているのは、やはり、チャレンジャー様への供え物になったということか」


「いや、驚いたことに、チャレンジャー様の両脇の女性は、チャレンジャーの刻印を受けたということだ」


「そんなわざわざ刻印を施さなくても、チャレンジャー様のモノに手を出す者などおらぬのに」


「いやいや、それが、王女様は王妃様より神聖魔法を伝授され、力は王妃様を凌ぐほどだし」


「もう一人の少女は、カンボジ老師の孫娘で武術に秀で、この国には敵う者などいないとか」


「なるほど。さすが、チャレンジャー様。目の付け所が違う。頼もしい方々を部下にされたものよ」


「案外、一石二鳥ねらいかもしれぬ」


「これでワールドマスターが交代しても、マルカム王国は安泰というわけですな。いやあ、めでたい」


 一郎には、やむを得ず緊急避難的に刻印を与えたという認識があった。そのときは後のことはなにも考えてはいなかった。ただ側にいる二人を死なせたくないという思いだけで刻印を与えたのだが、人の評価はどうしても異なるものらしい。


 一郎はこの場の空気を察した。


〔チャレンジャーというのは、あまり歓迎されないものらしい〕


 手に持ったコップの中を飲み干すと、側にいるフィビーが次の酒を注ぎ込んだ。一郎は意識せず口を付けた。


〔考えてみたら、チャレンジャーは反ワールドマスターの急先鋒みたいなもんだし。俺はこの世界の支配者と戦わなきゃいけないのかな。できれば、話し合いで済ませたいんだけど〕


 一郎の頭にウィズとコンプの言葉がよみがえった。


〔もう引き返せないのかもしれない〕


 一郎はこれからの自分がどうなってしまうのか考えた。


〔それにしても、あと五人の仲間と六つの宝石か、どうやって集めるんだろう。くそ。考えることはいっぱいあるのに、考えがうまくまとまらない〕


 一郎は再びコップの中を飲み干した。


 


         ○


 


 ベンデス大臣の反乱という不吉な出来事で始まった一日が、チャレンジャーの誕生を祝う大宴会で閉じようとしていた。


 宴会が終わりに近づいた頃、一郎はリーアンに、フィビーはフィルーに、チェリーはカンボジに、それぞれ呼ばれて席を外した。


 肝心の主役がいなくなったことで宴会も次第に盛り上がりを失い、自然解散に近くなっていった。


 


         2,


 


 チェリーはカンボジについて、城の中庭を進んだ。


 しばらく黙ってついてきたチェリーはやがてその沈黙に耐えられなくなった。


「おじいちゃん、ごめんね」


「なにを謝る」


「黙って家を出てきて」


「ああ、そうか」


「でも、どうしてもイチ・ローの側にいたかったの。イチ・ローはいつか自分の国に帰ってしまう。それまで、短い間だけでも側にいたかったの」


「だが、事はもうそういう話ではすみそうになくなったのう」


「うん、分かってる」


「なにがじゃ」


「イチ・ローを助けて、あの、ワールドマスターを倒すんでしょう。やるわ、わたし。きっと、お父さんの仇を討ってくる」


「こらこら、仇討ちなど考えるな。おまえはイチ・ローのことだけを考えておればよいのじゃ」


「うん。わかった」


「それから、フィビー姫とは仲良くするんじゃぞ」


「言われなくたって、そのつもりよ。心配しないで」


「そうは言うが、負けず嫌いのおまえのことじゃから、何かと王女様と張り合うのではないかと心配でな。夜会の件もあるし」


「夜会のときはどうかしてたのよ。もう、大丈夫だから」


「そうか」


 しばし、カンボジは口をつぐんだ。どことなく言いにくそうだった。


「おじいちゃん?」


「ああ、ときに、チェリー」


「はい?」


「おまえ、『女モノ』の服を持っておるか」


 チェリーはとたんに顔を赤くして黙ってうなずいた。


「そうか。なら、いい」


 カンボジの声のトーンが少しあがった。


 カンボジは一回咳払いすると、懐から小さな箱を取り出した。


「おじいちゃん、それは?」


 質問には答えず、カンボジは箱を開けて見せた。中には赤い宝石の指輪が入っていた。


「ワンタイの、おまえの父の形見じゃ。きっとおまえを守ってくれるはずじゃ」


「ありがとう、おじいちゃん」


 チェリーは箱ごと受け取るとドレスの胸の中にしまいこんだ。


「では、行くがよい。イチ・ローが待っておるじゃろう」


「おじいちゃん、ごめんね。帰ってきたら、いっぱいいっぱい、孝行するからね」


 チェリーはカンボジを思い切り抱きしめた。


 カンボジはその頭を軽く撫でた。


 チェリーはカンボジの手が離れると、ゆっくりとカンボジから離れた。


 一歩二歩と後ずさりするチェリーに背中を向けてカンボジは言い放った。


「早う行け」


 チェリーはくるりと背を向けて歩き出した。その目に少し涙がにじんでいた。


 カンボジの目にも涙が浮かんでいた。


〔ワンタイに続いて、チェリーも、か。わしは、よっぽど前世で悪行を重ねてきたようじゃ。だが、あの子は好きな男の側にいられるんじゃ。少しは父親よりましかもしれん〕


 カンボジが振り向いたときには、もうだれも中庭にいなかった


 


         3,


 


 フィビーはフィルーの部屋に引き入れられた。


 フィビーは部屋の中央のテーブルについて椅子に腰を下ろした。


「フィビー、いつも話していたように、このあとのことは分かっていますね」


「はい、お母様」


「その前に、おまえに、私の妹の話をしましょう」


「おばさま、ですか」


「そう、あなたは一度も会ったことはないわね。妹は、私より神聖魔法に長けていて、『白の塔のファジー』と言えば知らぬ者がないほどでした。私は先に陛下と出会って、おまえを産んだものですから、白の塔に残っていたのはファジーだけでした。そのファジーが恋に落ちた相手が、十年前のチャレンジャーでした。ファジーは刻印を受けて、チャレンジャーとともに今のワールドマスターと戦ったということですが、ワールドマスターが代替わりしていないところを見ると」


「亡くなられた」


「としか思えません」


 フィルーはそこまで話して一息ついた。


「私に言えることはなにもありません。全部おまえが選んだことなのですから。ただ、おまえに一つ気にかけておいて欲しいことがあるのです」


「何でしょう、お母様」


「もし、旅先で、ファジーのことで何か分かったら、母に知らせてもらえないかしら」


「喜んでお引き受けしますわ、お母様」


「ありがとう、フィビー」


 フィルーはフィビーの手を握った。


「でも、あなたは明日からは、チャレンジャーズ、刻印を受けた者の一人として、チャレンジャー様に尽くすのです。父や母のことは忘れなさい」


「そんな、お母様。できません」


「できなければ、おまえはチャレンジャー様にとって足手まといになるだけです。今日の奴らのやり方で、分かったでしょう。奴らはチャレンジャー・イチ・ローを倒すためなら、人質を取ることさえ厭いません。分かりましたね」


「は‥い」


 フィビーはフィルーに呼ばれたわけが分かった。これは別れの儀式なのだ。フィビーの目から涙が一粒こぼれた。


「お母様、最後にお聞かせください」


「なにかしら」


「お母様はこうなることをご存じでしたの」


 フィルーは微かに首を縦に振った。


「途中までは。あの予言は一部しか伝わっていなくて、本当は、『砂漠から姫が連れてきた者』で『その家に初めに生まれし外つ国の者』がチャレンジャーとなる者だったのです」


「なぜ、教えてくださらなかったのですか」


「無理を言わないで。私が寝込んでいたのは知っているでしょう」


「でも、治られてから今までの間は」


「それでは、あなたの行動が変わってしまう恐れがあったからです。あなたも彼がチャレンジャーだと分かっていたら、見る目が違ってくるのではないかしら」


 フィビーは静かにうなずいた。


「でも、あなたが刻印を受けることだけは想像していませんでした。かえってその方が良い結果になるかもしれません。何の支えもなしにチャレンジャー様の側にいるのはもっと危険なことでしょうから」


 フィルーは立ち上がって、フィビーを促した。


「さあ、陛下にご挨拶してきなさい」


 そのとき、カンパミ王が入ってきた。


「いや、それにはおよばん」


 フィビーは席を立ち上がった。


「お父様」


「あなた」


「あまりイチ・ロー様を待たせては失礼になろう。このままでよい」


 カンパミ王はフィビーに歩み寄るとじっとフィビーの顔を見つめた。


「ふむ。綺麗になったな。小さい頃いたずらばかりしてフィルーを困らせていたことを考えると、見違えるようだ」


「お父様」


「この愛しい姫を、他の男にくれてやるのはあまりにも惜しいが、フィビーが選んだ男だ。間違いはあるまい。わしもあの男は好きだ。きっとフィビーを大事にしてくれるだろう」


「お父様!」


 フィビーはカンパミ王にすがりついて泣いた。


 カンパミ王はそのフィビーの髪を優しく撫でた。


「もう行くがよい。彼を待たせるような無礼だけはしてはならんぞ。今からはマルカム王国の第一王女ではなく、チャレンジャーの刻印を持つ者の一人、神聖術士のフィビーとして生きるのだ。よいな」


 涙に濡れた顔でフィビーはうなずいた。


 カンパミ王はフィビーの背中を軽く押すように叩いた。


 フィビーは数歩進んで、扉のところで振り返った。


「あ、そうそう」


 フィルーは何かに気づいたようにフィビーに駆け寄った。


 フィルーはハンカチを取り出してフィビーの涙を拭うと言った。


「お化粧は薄目にしなさい。口紅も薄く、決してチャレンジャー様のお体を汚さないように。わかりましたね」


 フィビーはこくりとうなずいた。


「フィルーは心配性だな。そのようなこと、イチ・ロー様が気になさるものか」


「あら、結構気にする殿方もいらっしゃるようですわよ」


 フィルーが振り向いて言うと、カンパミ王は憮然とした表情を返した。


「昔のことは忘れた」


 それを聞いてフィビーは少し微笑んで、二人に一礼した。


「では、行って参ります。お父様、お母様、長い間、本当にお世話になりました」


 フィビーは扉を開けて部屋を出た。


 フィビーが扉を閉めて歩き出すまで、フィルーはじっと扉の側で立ちつくしていた。


 やがて、フィビーの足音が聞き取れなくなった。


 フィルーは低くすすり泣きを漏らし始めた。


 


         4,


 


 リーアンは王宮の自分の部屋に一郎を招き入れた。


「イチ・ロー殿、寝室の用意ができるまで、しばらくここで待っていてもらえるか」


「ええ、いいですけど、ここは王子のお部屋ですか」


「ああ、そうだ」


 部屋の中には王子の肖像画が飾ってあり、狩猟の成果なのか、動物の大きな角や頭部の骨も飾ってあった。


 そして、部屋の片隅では例によってローリーが控えていた。


 一郎とリーアンは部屋の中央のテーブルについた。


「ローリー、酒はいいから、別の飲み物を用意してくれ」


「はい、かしこまりました」


 リーアンが注文してからさほど間をおかずに、ローリーは湯気の上るティーポットとカップを持ってきた。


 ローリーは丁寧にカップを置くと、ティーポットから湯気の上る薄茶色の液体を注ぎ始めた。一郎としては真っ先に紅茶を思い浮かべたが、一郎の知っている紅茶と一致するかどうかは飲んでみなければ分からない。


 ローリーはリーアンの分を注ぎ終えると一礼してその場を離れた。


「これは南方で採れた木の葉を干して乾かしたものだ。葉っぱの成分が体にいいと聞いた。酒を飲んだあとにはこれがいい。二日酔いにならずにすむ」


 リーアンは一郎に飲むように勧めた。


 一郎はカップに一口付けた。


〔これは、紅茶でもウーロン茶でもない。不思議な味だが、お茶の一種には違いないようだ〕


「おいしいですね」


「生まれて初めての遠征のときに手に入れた。以来気に入って、酒を飲んだあとには必ず飲むことにしている」


 リーアンは一口付けると話を始めた。


「初めて、全軍の指揮を任されて海賊退治に出かけたときだった。やっと一人前に認めてもらったと思って、私は有頂天だった。敵の数は我が軍の半分にも満たなかった。絶対に勝てると思った。だが、私はまだまだ青かった。正面から押し込むことしか考えなかった。背後から少数だが敵の別働隊が現れたとき、私は慌てた。優秀な参謀と父の援軍がなかったら、全滅はしなかったろうが、ひどい損害を出していただろう。それでも、味方の兵士に死者が出たのはショックだった。そのとき父に諭された。全軍を預かる者は常に大局に立ち冷静であれ、と」


 一郎は静かにリーアンの話を聞いていた。


 リーアンは、他に遠征のときに起こった失敗や成功を一郎に語った。


「王子、いつになく雄弁ですね」


 一郎は慎重に言葉を選んだ。


「イチ・ロー殿も、チャレンジャーとして人の上に立つ身、なにがしかの参考にしていただければ、と思ってな」


 リーアンがローリーに目配せをすると、ローリーがうなずいた。


「どうやら、寝室の準備ができたようだ。ご案内しよう」


 ローリーがドアを開けて、リーアンと一郎は部屋を出た。


 リーアンは一郎の先に立って歩きながら話した。


「妹をよく見捨てずに助けてくれた。心からお礼を申し上げる」


「お礼だなんて。僕はただ助かりたかっただけですよ」


「そう言いながら、妹のために命を投げ出そうとしたそうじゃないか。なかなかできることではないぞ」


「いえ、そんな、大それた事では」


「イチ・ロー殿、謙虚なのもいいが度を超すと卑屈になる。自分のしたことに自信を持たれよ」


 リーアンは階段を上がって、廊下をさらに奥へ進んだ。


 その歩みがもっとも奥の部屋の前で止まった。


「ここだ」


「わざわざありがとうございました」


 一郎は扉のノブに手をかけた。


「イチ・ロー殿、指揮官として辛いのは、ときとして選択を強いられることだ」


 リーアンの言葉に、一郎は不思議そうに振り返った。


「勝利と部下の命を比べたらどちらを優先すべきなんだろうな」


「それは、部下の命じゃないんですか」


「次の質問。敗北が決定的になったとき、部下の内一人を犠牲にしなければならなくなったとする。イチ・ロー殿はどんな部下を犠牲にすればいいと思う」


「それは、前提が間違ってますよ。敗北が決定的になったのなら、犠牲が必要だとしても、全員が生き残る方法を考えるべきでしょう」


「わかった。だが、現実は時として残酷な選択を私たちに強いることがある。そのことを忘れないでくれ」


 リーアンはそう言うと涼しげな笑顔を浮かべて、一郎の肩を軽く叩いた。


「妹をよろしく頼む」


「はい、わかりました」


 一郎にはリーアンの行動の意味が今ひとつよく分からなかった。リーアンの後ろ姿を眺めながら、一郎はドアを開けた。


 


         5,


 


 話は数分前に戻る。


 フィビーがドアを開けたとき、すでにそこにはチェリーが立っていた。


「遅かったわね。なにしてたの?」


 フィビーは一瞬驚いたが、次の瞬間納得した。


 フィビーは気を取り直して、チェリーの隣に立った。


 チェリーはフィビーの着ている物に軽く触れてみた。


「へえ、王族でもこんなの持ってるんだ」


 二人が着ているのはデザインとしては全く同じ服だった。


 チェリーはフィビーの着ている物の方が少し生地が上等に思えた。


 フィビーはチェリーにどう接して良いか分からなかった。この場にチェリーがいることは全く考えていなかったからだ。


 しかし、よく考えれば、チェリーもその資格があるのだ。フィビーはどうすればよいかじっと考えた。


「考えても無駄よ」


 チェリーはフィビーの心を見透かしたように行った。


「どうして、ですか?」


「決めるのはあたしたちじゃない。イチ・ローなんだから」


「そう、ですね」


 フィビーはチェリーの言葉に少しほっとした。


 フィビーのため息にチェリーの表情が少し曇った。


「余裕ね。イチ・ローに選ばれるのは自分だと思ってるのね」


「いえ、そうじゃなくて」


「なによ?」


「チェリーさんと、ここで争わずに済んだので」


「そんなこと、あるわけないでしょ。同じ刻印を持つ者同士なんだから」


 そう言ってチェリーはフィビーを上から下まで視線を走らせた。


「胸の大きさで、選んでくれないかなあ。それなら、あたしの勝ちなんだけど」


「スタイルの良さで選ぶなら、わたしということですね」


「言うわね、フィビー姫も」


「チェリーさんこそ」


「『さん』は止めてくれる。あたしのことは名前でいいから」


「わたしの方も、『フィビー』って呼んでください。もう、王族じゃなくなりましたから」


 フィビーがふと寂しそうな表情を見せた。


「そっか。ご両親と別れを惜しんできたのね」


 チェリーの言葉にフィビーは軽くうなずいた。


「チェリーさんは?」


「言い直して」


「あ、ごめんなさい。チェリーの、ご両親は?」


「死んだわ。小さい頃に」


「ごめんなさい」


「いいわよ。気にしないで」


 会話がそこで途切れた。


 しばらく沈黙したあとに、フィビーが口を開いた。


「チェリーかもしれない、イチ・ロー様が選ぶとしたら」


「ふーん、あたしはフィビーだと思ってるんだけど」


「イチ・ロー様がね、刻印を与えたとき、あなたの心臓が止まったでしょう」


「そんな自覚はなかったけど」


「あのとき、イチ・ロー様はね、チェリーのこと抱きしめて、大粒の涙を流してたのよ。イチ・ロー様がどんなにあなたのことを好きか、わたし、わかったわ」


「それを言うなら、フィビーだって」


「わたし?」


「収穫祭の日に、あなた、イチ・ローとキスしたでしょ?」


「なぜ、それを」


「イチ・ローに鎌を掛けたのよ。で、あたしもキスしてって頼んだんだけど、ほっぺにしかしてくれなかった。あのとき、フィビーに負けてるって思ったのよ」


 チェリーがくすっと笑ったので、フィビーも釣られて笑った。


「イチ・ロー様のことだから、二人とも一緒ということはないかしら」


「まさか。それはおかしいわよ、フィビー」


「え、どうしてですか」


「あなた、これから、なにがあるか聞いてないの?」


「お母様は、『どんな辛いことや恥ずかしいことをされても我慢しなさい。チャレンジャー様はそれだけあなたを気に入ってくださったのだから』って」


 そのとき、扉が開いて、一郎が入ってきた。


 


         6,


 


 一郎は部屋の中に入ってまず、広いベッドが目に入った。


〔一人で寝るには、広いベッドだな〕


と思って、広い部屋の中を見渡したとき、二人の女性が立って深々と頭を下げているのを見つけた。


「ご主人様、お待ち申し上げておりました」


 二人の声が重なって、同時に顔を上げた。


 一郎は二人の顔を見てびっくりした。


「チェリー、フィビー姫」


 さらに一郎は二人の服装にびっくりした。


 二人が着ているのは、一郎が初めてローリーに会ったときと同じ物だった。


 肩から膝までの薄い生地に細い肩紐だけのワンピースで、体の線がはっきりと分かる物だった。それ以外なにも身に着けていないようで、胸の頂上にある突起がそれを連想させた。


 特に、フィビーの方は生地が薄くできていて、体毛の集まった場所や身体の色の濃い部分がぼんやりと分かるほどだった。


 一郎は思わず目を背けた。


「ふ、二人とも、なにをしてるんだ」


 言ってしまってから、一郎は馬鹿な質問をしたと後悔した。


「刻印を持つ者として、今宵の伽に参りました」


「ご主人様の思し召すまま、我らのうち、一名にお命じください」


〔二人の内、一人を選ぶのか。残された一人はどうするんだろう。この部屋から出ていくんだろうか。それとも、部屋に残って床にでも寝るのか〕


 一郎はおそるおそる視線を戻した。


 二人とも、顔を赤く染め、一郎をじっと見つめていた。


 フィビーはすがるような熱い視線を送っていた。


 チェリーは少し潤んだ瞳で一郎を見つめていた。


 二人の真剣な表情が、一郎の胸にずきんと響いた。どちらかを選んだら残った一人が傷つくのは目に見えていた。


〔どうすればいいんだ〕


 一郎の胸に先ほどのリーアンの言葉がよみがえった。「残酷な現実」とはこのことだったのか。


〔俺をここまで導いてくれたフィビー姫と、修行の間身の回りの世話をしてくれたチェリーと、どちらかを選んで一緒に寝ろってか〕


「ご主人様」


 チェリーは重々しく口を開いた。


「女が、男の『モノ』になるというのは、こういうことなのです」


 一郎は自分のしたことに責任を感じた。


〔できない。だいたい、こんなことするつもりで刻印を与えたんじゃない〕


 一郎は再び考え込んだ。


 一郎の言葉を待って、フィビーもチェリーも口を閉じた。


 しばらく経って、一郎はぽつりとつぶやいた。


「三人、一緒に寝ようか」


 フィビーはそれを聞いてほっとため息をついた。


 しかし、チェリーが顔を真っ赤にして声を出した。


「本気ですか?」


 その強い語調にフィビーは少し驚いたように身を退いた。


「いけないんですか」


 チェリーはフィビーの顔を覗き込んで言った。


「当たり前でしょう。普通はねえ」


 チェリーの言葉が不意に止まった。少し怒ったような表情が、フィビーが瞬きしている間に笑顔に変わった。


「それもいいか」


 チェリーは身を躍らせるように、一郎の左側に立った。


「あ」


〔ずるい〕


 フィビーも負けずに一郎の右手を握って立った。


 フィビーとチェリーに挟まれて、柔らかくて暖かい肉の感触がつたわってきた。緩みそうになった顔を一郎はぐっと引き締めた。


 まず、一郎がベッドに上がった。一郎はベッドの真ん中で足を伸ばして身体を傾け半分起きているような姿勢をとった。


 続いてフィビーが一郎の右に身体を預け、チェリーは一郎の左側に身体を横たえた。


 チェリーとフィビーがシーツの中に身体を隠すのを一郎はじっと見ていた。


 二人の刺激的な姿が隠れて一郎はほっと一息ついた。


〔これでやっと落ち着いて話せる〕


 一郎は二人の顔を交互に見比べた。チェリーは笑顔で一郎を見上げていた。フィビーは少し顔を赤くして一郎を見つめていた。


 チェリーが一郎の服の裾を引っ張って言った。


「ご主人様、横になってください」


「ああ、そうだね」


 一郎はシーツの中に身体を滑らせた。


 すると、チェリーが身体を寄せてきた。


 続けてフィビーも一郎の身体にぴたりと自分の身体を寄せてきた。


「これでよろしいでしょうか、ご主人様」


 一郎が顔を向けると、フィビーも顔を一郎の方へ向けていて、恥ずかしそうに視線を反らした。


 一郎は天井に視線を向けて話した。


「二人とも、聞いてくれるか」


「はい」


 二人の声が重なった。


「まず、その『ご主人様』って言うのは止めてくれ」


「でも、ご主人様は『ご主人様』ですわ」


 チェリーの言葉が一郎の心を重くした。


〔これが俺が選んだ道か〕


「わかった。それじゃあ、今まで通り、『イチ・ロー』と呼んでくれ。ご主人様の最初の命令だ」


「でも」と、チェリーは少し不満そうな声を出した。


「わかりました、イチ・ロー様」


 フィビーは明るく返事をした。


 その声に一郎がほっと安堵のため息をもらしたので、チェリーも承諾した。


「わかりました、イチ・ロー様」


「チェリー、今まで通り、イチ・ローでいいんだ。『様』は要らない」


「イチ・ロー」


「うん、それでいい。いつも通り、話してほしい」


 一郎はチェリーの頭を撫でた。一郎が笑顔を向けるとチェリーもいたずらっぽく笑った。


 一郎は顔の向きを変えてフィビーの方を見た。


 フィビーも笑顔を見せていた。


 一郎は両腕を伸ばした。


 意図を察したチェリーは頭を少し浮かせた。


 フィビーも頭を軽く浮かせた。


 二人の頭の下に一郎の腕が潜り込んだ。


 一つ一つの動作が、深海の底に沈められたようにゆっくりと行われた。


 フィビーとチェリーの呼吸と鼓動が腕を通して伝わってきた。一郎はそれで十分満足だった。


「暖かいね、二人とも」


 一郎はぽつりと言った。


「二人とも、生きてるんだ。夢じゃないんだね」


「どうしたのですか、イチ・ロー様」


 フィビーは少し不安そうに一郎の横顔を見つめた。


「なにを言ってるの、イチ・ロー?」


 チェリーは一郎の横顔に少し不思議そうな視線を当てた。


「俺は、この世界へ来たとき、自分が長い夢を見ているのかと思った。全く知らない土地、全く知らない言葉、全く知らない人。普通ならこんなことは起こらない。自分の知っていることが何一つ通用しないなんて」


「正直に言うと、自分は気が狂ったのかとも思った。自分はこの世界に来たのではなく、元からこの世界の住人で、自分の頭の中で勝手によその世界を作り上げて帰ろうとしているのかと思った」


「でも、どちらでもなかった。俺は確かに元の世界を証明する物を持っているし、側にいてくれる君たちは暖かい。そう考えたら」


 フィビーは一郎の語尾が震えたような気がした。


「そう考えたら?」


 チェリーは不安そうに聞き返した。


「淋しくなった。どうしても元の世界へ帰りたいと思った。すぐに帰れないなら、寂しさを紛らわしてくれる、友達が欲しかった。話し相手が欲しかった」


「だから、わたしたちがいるんでしょ?」


 チェリーの言葉に一郎は首を振った。


 それを見て、チェリーもフィビーも信じられないといった表情になった。


「俺は友達が欲しかった。なのに、その友達を俺は、自分の『モノ』にしてしまったんだ。俺が死んだら一緒に死んでしまう、俺の言葉に逆らえない、所有物に」


「あたしたちに刻印を与えたことを後悔しているの?」


 チェリーの言葉に一郎は頷いた。


 チェリーは上半身を起こした。見ると、少し悲しげな表情を浮かべていた。次の瞬間、チェリーの右手が一郎の左の頬をはたいた。パシッと薄っぺらい乾いた音がした。


 驚いて、フィビーも上半身を起こした。


「チェリー」


 一郎は驚きのあまり声が出せなかった。


「情けないこと言わないでよ!」


 チェリーは一郎を見据えていった。


「あなたは、あたしたちの命を助けただけじゃなくて、おじいちゃんや、王様や王妃様や王子や、たくさんの人の命を助けたのよ。それも後悔するの? あたしは後悔なんかしてない。むしろ、うれしいわ」


 チェリーはうっすらと涙を浮かべていた。


「チャレンジャーの部下として選ばれたことに誇りを感じるわ。なにより、イチ・ローにそれだけ信頼されている証だもの、刻印は。それに『逆らえない』なんて言わないで。あたしもイチ・ローのことを信じてる。だから、イチ・ローの言うことなら何でも聞いてあげる。それが友達じゃないの?」


 チェリーの言葉に一郎の胸は熱くなった。


 一郎は上半身を起こすと、チェリーをじっと見つめた。


〔そうか、まだ、友達をなくしたわけじゃなかったのか〕


 チェリーは視線を反らさずじっと一郎を見つめていた。


 一郎はフィビーを見た。フィビーも同じように一郎に熱い眼差しを送っていた。


「フィビー姫も?」


 フィビーは一郎の言葉に力強くうなずいた。


「わかった。もう二度と言わない。後悔もしない」


 フィビーとチェリーを見渡して一郎は言った。


「ありがとう、二人とも」


 一郎は頭を下げて見せた。フィビーはそれが少し元気なく項垂れているようにも見えた。


 三人はまた、ベッドに並んで横になった。


「何か、聞きたいことはない?」


 そう切り出したのは一郎だった。


 チェリーが口を開いた。


「明日は、もう、ここを出るんでしょう?」


「ああ、いつまでもここにいたら、また、迷惑を掛けるかもしれないからね」


 今度はフィビーが質問した。


「どこへ向かうんですか」


「チャレンジャーの剣が教えてくれた。とりあえず、東の方だそうだ」


「東、ね。海の方に向かうのね」


「そこになにがあるんですか」


「二つ目の宝玉さ。チャレンジャーの剣が教えてくれるのは宝玉の場所だけで、次の仲間を決めるのは俺の意志だそうだ」


 しばらく考え込んだあと、フィビーは声を上げた。


「そうだわ」


「な、なによ?」


 フィビーの高い声にチェリーは少し驚いたようだった。


「イチ・ロー様、元の世界ではいつも何なさってたのですか」


「そうだなあ。毎日、学校へ行って、家へ帰ると、テレビを見て、受験勉強してたな」


 チェリーは聞き慣れない単語に不審そうに聞き返した。


「学校? テレビ? 受験?」


「元の世界では、子供を全員集めて、文字や計算を教えるところがあるんだ。それが『学校』さ」


「誰でも? 貴族の子だけじゃないの?」


「もちろん、だれでもさ」


「すごい」


「テレビっていうのは、自動的に次々と絵が出てくる箱、という説明で解るかな」


 これには、チェリーもフィビーも首を傾げた。


 一郎はロウソクを使った影絵や、薄い布に字を書いてそれをロウソクにかざしてテレビの原理を説明しようとした。


 しかし、電波のような目に見えないモノの説明は二人には理解できなかった。


 一郎は困惑する表情の二人に、調子に乗ってしゃべりすぎたと反省した。ただ、影絵は好評だった。


 そのあとは、簡単なパーティーゲームで夜遅くまで盛り上がった。


 


         8,


 


 フィビーは静かな寝息を立てていた。


 うとうとしかけていた一郎は、チェリーがベッドを降りたのに気づいた。


 一郎が顔を上げて見ると、チェリーはベランダの方へ向かっていた。薄いカーテンをくぐって、扉を開けるとチェリーは静かにベランダへと足を運んでいった。


〔あんな寒い格好で、外へ出ることないのにな〕


 一郎はベッドを降りて、サイドテーブルの上に載っている毛布を掴んだ。


 一郎がベランダに出たとき、チェリーは手摺にもたれかかって遠くを眺めていた。


 外の景色は完全な闇に包まれていた。しかし、注意して見れば、空と山並みの境や、所々に洩れている町の灯りが分かった。


 一郎は静かにベランダに通じる扉を閉じた。


 一郎が近づくのを待っていたように、チェリーが話し始めた。


「イチ・ローは」


 チェリーの声は少しうれしそうに弾んでいた。


「こういう景色って見たことある?」


 一郎は持ってきた毛布をチェリーの肩に掛けた。


 チェリーは横に立った一郎に笑顔を見せた。


「ありがとう」


 チェリーは毛布の端をつかんで身体に巻き付けるようにした。


「どういたしまして」


 一郎は視線を外の景色に戻して言った。


「あるよ」


「あたしは、見るのは初めて。王宮に入ったのも初めて」


「この景色を見て何か感じたんだ」


「うん。世界ってこんなに広かったんだなって、思った」


「びっくりした?」


「少しだけ。びっくりというより感動した方が大きかった」


「明日からは、もっと広い世界を訪ね歩くことになるからね。もっと感動することがたくさんあると思うよ」


 チェリーは一郎に身体をすり寄せた。


「ねえ」


 一郎は少しどきっとしながらも、外の景色に視線を定めて気分を落ち着けた。


「どうして何もしないの?」


「えっ」


 チェリーは羽織っていた毛布を広げて見せた。チェリーの下着のようなドレス姿が一郎の目に飛び込んできた。窓から漏れてくる部屋の明かりがドレスの微妙なカーブや膨らみを一層浮かび上がらせた。


 一郎は思わず目を背けた。


「ちゃんと、見て」


 チェリーは一郎の手を握った。同時に羽織っていた毛布も滑り落ちた。


 一郎は視線をチェリーの顔に固定した。


 少し潤んだ瞳が何かを訴えるようにじっと一郎を捉えて離さなかった。


「このドレスは、『女モノ』といって、女が男のモノになったとき、夜はこれを着るのが習わしなの」


 少し風が吹いて、チェリーの女モノの裾が軽くめくれ上がった。足の付け根まで見えきわどいところで裾が元に戻った。


「この姿を見てどう思う?」


「どうって」


 一郎は言葉に詰まった。


「この格好は、イチ・ローのためなの。だから、寒くても恥ずかしくても平気。イチ・ローはこの格好は嫌い?」


「いや、嫌いじゃない」


「そう?」


 チェリーは一郎の手を握ったまま身体を近づけた。一郎の手がチェリーの胸に触れた。


 一郎は顔が燃えるほど熱くなった。


「一郎の好きにしていいのよ」


 チェリーは目を閉じて、一郎の手を離した。


 一郎はどきりとして反射的に手に力がこもった。そのとき、一郎の掌に確かな弾力が伝わってきた。ぱっと一郎の手が離れた。


 恨めしげに一郎を見つめるチェリーを横目に、一郎は毛布を拾うとチェリーの肩に掛けた。


「あたしより、フィビーの方がいいの?」


「いや、そうじゃないよ」


 一郎はチェリーの身体に毛布を巻き付けると、そのままチェリーの身体を抱きしめた。


「女の子の身体に興味がないわけじゃないけど、素直に喜べないんだ。明日からは、危険な旅に出るんだ。考えなきゃいけないこともたくさんあるし」


「わかった」


 チェリーは一郎の身体を押すように離れた。


「じゃ、最後にお願い」


「なんだい?」


「今夜の記念に」


 チェリーはまた、毛布を開いた。


「身体に印を付けて」


 今度は毛布を手摺に掛けると、チェリーは『女モノ』の肩紐をずらした。肩紐と布が少しずつ交互にずり落ちていった。


 一郎はその肩紐が二の腕の中程へ来たところで止めるようにチェリーの腕をつかんだ。


「全部脱がなくても、いいだろ?」


 チェリーは少しとまどったような表情を見せた。


 一郎はそれに気づくことなく、チェリーの胸元、谷間ができる少し上あたりに唇を近づけた。


 顎に一郎の髪が触れ、チェリーは顔を背けた。一郎の唇の感触がしてそれがすぐに離れた。


「だめ」


 チェリーはすぐに一郎の頭を抱きしめた。


「えっ」


 チェリーは腕の中の一郎がおとなしくなるのを待った。


「痕が残るくらい、強く吸って」


 一郎はチェリーの必死な気持ちが何となく分かった。一郎はもう一度唇をチェリーの胸元に着けた。逆らうことなく一郎はチェリーの肌を強く吸い上げた。


「あっ」


 チェリーは一郎の唇を中心に広がる熱い感触に思わず至福の声を上げた。チェリーは切ない気持ちが満たされていくのを感じた。


 熱い感触が微かな痛みを伴い始めたとき、チェリーは視界の隅でカーテンが動いたのを見た。チェリーが視線を送ると、部屋の中で人影が動いた。思わずチェリーは満足げな笑みを浮かべた。


 


         9,


 


 フィビーが目を開けたとき、隣に一郎がいなかった。その向こうのチェリーの姿もなかった。


 しばらく呆然と眺めていたフィビーは、はっとなって起きあがった。部屋の中を見渡しても二人の姿はなかった。


 フィビーは急に不安になった。一瞬、置いていかれたのかと思った。だが、すぐにそれは否定した。


〔イチ・ロー様が黙って行ってしまう事なんてない〕


 フィビーはベランダに出る扉の前のカーテンの微かな乱れを見つけた。


 フィビーは足音を忍ばせてカーテンの前に立った。そして、カーテンをめくってみる。


 次の瞬間、衝撃的な映像がフィビーの目に飛び込んできた。


 一郎がチェリーの胸に顔を埋めていた。チェリーはうっとりとした表情で一郎の頭を抱きしめていた。


 チェリーの視線がフィビーの視線と合った。少なくともフィビーはそう感じた。


 フィビーは思わずカーテンから飛び退いた。


〔いや!〕


 フィビーは思わず部屋から逃げ出したくなった。身体が震えていた。しかし、寒気はない。


 フィビーは母フィルーに言われたことを思い出して踏みとどまった。


〔どんなに辛いこと、恥ずかしいことをされても、ここから逃げちゃいけないんだわ〕


 フィビーはベッドに戻って、顔を埋めた。


 とたんに涙が溢れてきた。


〔でも、イチ・ロー様、どうして。どうして、わたしを選んでくださらなかったの〕


 フィビーは恥ずかしさと悔しさで胸がいっぱいになった。


 そのとき、ベランダの扉が開く音がした。


 フィビーはシーツで涙を拭った。


「ちょっと待ってて」


 チェリーの小声が聞こえた。


 足音が近づいてきて、フィビーは目を堅く閉じた。


 ぽんぽんとチェリーがフィビーの肩を叩いた。


 フィビーは寝た振りをした。


 チェリーが小声で話しかけてきた。


「なに、寝たふりをしてるのよ。やっとイチ・ローを説得したんだから、起きなさいよ」


 チェリーの言葉の意味が分からず、フィビーは思わず目を開けた。


 フィビーの目を見つめて、チェリーは少し笑った。


「あたしとイチ・ローが仲良くしてるの見て、泣いてたの?」


 フィビーは何か言おうとしたが言葉にならず、口を少し動かしただけだった。


 チェリーは諭すように言った。


「いい? このまま二人とも朝を迎えたら、きれいな身体のままでしょ? もしそうなったら、あなたのお父さんやお母さんは、あなたに何か粗相があったんじゃないかって心配するわ。もしかしたら、イチ・ローがおかしいんじゃないかって、イチ・ローが疑われてしまうわよ。そんなの、嫌でしょ?」


 フィビーは微かにうなずいた。


「だから、あなたもつけてもらいなさい。もう一つの刻印を」


 チェリーはそう言うと、胸元を広げて見せた。


 チェリーの胸に付けられた赤い跡がフィビーの胸を締め付けた。羨ましくなり、同じものが欲しくなった。


 チェリーは手をさしのべると、フィビーの体を起こした。


 フィビーは少し恥ずかしそうに一郎の方を振り向いた。


 一郎も気恥ずかしそうにフィビーに微笑んでいた。


「イチ・ロー、来て」


 チェリーの手招きで一郎はフィビーの側に来た。一郎はフィビーの顔に涙の跡が残っているのを見た。一郎の心は痛んだ。


 少し身を引いてチェリーが一郎に言った。


「フィビーにもしてあげて」


 一郎は驚いたようにチェリーを振り返った。


 チェリーは大きくうなずいて見せた。


〔そうか、そこまで等しく扱わないとだめか〕


 一郎はチェリーの言いたいことが判った。


 一郎はフィビーを正面から見つめて肩の上に手を置いた。


 フィビーは戸惑った表情をチェリーに向けた。


 チェリーはその意味に気づいた。チェリーは頷くとまたベランダに出た。


 それを見届けてから、フィビーは唇を動かした。


「お願いします、イチ・ロー様」


 一郎は少し緊張した表情を和らげた。


 フィビーも少し表情を和らげると、目を閉じた。


 一郎はフィビーの肩に置いた手に力を込めた。


 フィビーは逆らわず、ベッドの上に身体を横たえた。


〔わたし、これで本当にイチ・ロー様のモノになるんだわ〕


 一郎の顔が近づくごとに、フィビーの心の中で歓喜の気持ちが膨れ上がっていった。


 


         10,


 


 そして、夜が明け、一郎たちの旅は始まった。


 城の裏手門にカンパミ王やフィルー、カンボジ、リーアンが集まって、一郎たちを見送った。


 フィビーも、チェリーもそれぞれ家族との別れを惜しんでいた。


 だが、フィビーの顔もチェリーの顔も明るかった。


 チェリーは昨夜のことで一郎やフィビーをリードできたことに満足していた。


 フィビーは、一郎から三つ目の刻印をへその上に付けられていた。一郎にはチェリーに悟られないように言われていた。


 一郎は「二番目だから、二つ」と言っていたが、フィビーには特別扱いされたようでうれしかった。


 そんなことよりも二人の胸を一杯にするのは、一郎と一緒に旅に出ることだった。


 一郎を先頭に、三人はマルカム王国を出発した。


 見送りながら、カンパミ王がぽつりと漏らした。


「『旅姫』は本当に旅を続ける宿命にあったわけか」


「でも、あの子は幸せですわ。好きな人の側にいられるのですもの」


 フィルーはそう言って、カンパミ王の手をとった。


「それにしても」


 リーアンは遠ざかる三人の後ろ姿を見ながら苦笑していた。


「あの姿では、チャレンジャー一行というより、どこかのお嬢様とそのお供二人という気がしますね」


 リーアンが指摘するとおり、先頭を歩く一郎は一番大きな荷物を背負っていた。荷物が一番少なく見えるのはフィビーだった。


「ちょうどいい目眩ましじゃ」


 カンボジがまぶしそうに手をかざして一郎たちを見送った。


 


         〇


 


 先頭を歩く一郎にチェリーが声をかけた。


「いい天気だね」


「いい天気ですね」


 フィビーも空を仰ぎながら言った。


「ああ、そうだね」


 一郎も透き通る青い空と広がる畑を眺めながらそう言った。


 


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