9・捜査
東十無が初めて本庁に呼ばれた日から三日が過ぎていた。氷室慎司からメールで呼び出された十無は、十月の冷たい秋風の吹く中、眠い目をこすりながら出向いたのだった。
今回も取調室に通され、氷室に奥の被疑者側のパイプ椅子を勧められて座った。氷室は十無の側に立ち、銀縁眼鏡を通して十無を見下ろしたのだった。
どちらが上なのか見せ付けているような威圧的な態度だ。
屈辱的な扱いに、十無は氷室を睨み付けそうな自分を押さえようとした。パイプ椅子を横にずらして足を組み、高い位置にある小窓に視線をそらして、秋口の灰色に淀んだ空を眺めながら、力を抜くように大きく息を吐いた。
「今日は晴れそうもないですね」
「世間話をする暇はありません。東さんから届くメールでは今のところアリアが動いている様子はなさそうですね。大丈夫ですか」
氷室はぴしゃりと皮肉を返してきた。せっかく場の緊張をほぐそうとしたのに、シャットアウトされてしまった。十無は言い返したくなったが、上司である氷室に口ごたえはできなかった。
「氷室警部、お言葉ですが、一人での張り込みは限界があります。きっちりやるのであれば、最低もう一人は必要です」
張り込みは二十四時間必要なのだ。相手はスリや窃盗を生業にしているのだから、部屋の電気が消えたからといって就寝したとは限らない。
十無はこの三日間、昇に電話をかけてアリアが眠ったことをさりげなく確かめ、そのあとに車内で仮眠をとるという生活をしていた。心身ともに疲労が蓄積し、一人では限界がきていた。
「アリアが必ずDと接触するとの確証がない状態では、人員を増やせません。できる範囲で構いませんから東さんだけで続けてください」
本当にそんな理由のためなのか。十無には氷室がアリアの件を隠密に進めたがっているように感じた。
「張り込みはアリアも気付いているはずです。上手くすり抜けて行動を起こしている可能性があります」
「だったら、あなたの弟さんと上手く連絡を取って把握してはいかがですか。弟さんはアリアのところにいるのでしょう。これは弟さんの名誉を挽回する絶好の機会だと思いますが」
そんなことは言われなくとも行っていた。十無は昇との電話でアリアの状況に探りを入れていた。昇もそれはわかっている。アリアだって自分の行動が筒抜けになることは昇を傍に置いた時点で予想していたに違いないのだ。アリアにそれを逆に利用された場合、情報をコントロールされる可能性もある。そうなったら、昇が嘘の情報を流したという嫌疑をかけられる危険性が出てくる。
だが、氷室に弱みを握られている十無は、選択する余地は残されていなかった。言われるままにやるしかないのだ。
氷室は銀縁眼鏡の奥に不敵な笑みを浮かべて十無を見下ろしていた。
仕方がない。
十無は口を硬く閉じて頷いた。
「では、東さんは引き続きアリアと東昇を張ってください。何か動きがあればすぐに連絡を。これは捜査の進展経過です。Dの足取りがつかめない状態なのでほとんど動きはないですが、参考にしてください」
氷室は灰色の事務机の上に資料を無造作に置いて淡々と告げた。
「昇は被疑者でもないのに、どうして呼び捨てるのか」
十無はずっと堪えていた苛立ちが飛び出して、とうとう険しい顔で氷室を見上げてしまった。
「ああ、すいません。つい……」
十無の態度に氷室は慌てる様子もなく、ほんの少し微笑んで謝罪の言葉を口にした。微塵も悪かったと思っていないようなその態度は、かえって十無の感情を逆なでした。
「証拠がない限り、弟を被疑者扱いするのはよしてください」
瞳に怒りを宿らせて、十無は静かに抗議した。
「東さん、一つ言っておきますが、私はあなたの上司です」
「わかっています」
「……グレーはクロと同じ扱いをします。それが私のやり方です。不服であればシロだという証明をしなさい。さっきも言ったように、兄弟で連携して有力な情報を得ることです」
氷室は薄笑いを浮かべている。
いちいち癇に障る嫌な言い方。氷室はあくまでも昇を疑っているのだ。その丁寧な口ぶりは余計に嫌味たらしく聞こえ、十無は氷室に対して反感を通り越して嫌悪さえ感じた。
十無の顔にそれが現われていたのだろう。氷室警部は銀縁眼鏡の奥に潜む鋭い瞳で十無を射抜いた。
「他に何かありますか」
「いいえ」
その視線に負けじと、真っ直ぐに見つめ返して答えた十無に、氷室はわかっていないなとでも言うように軽くため息をついた。
「東さん、いいですか」
氷室はそう前置きしてから、十無のほうへ身を屈めて声を潜め、こう続けた。
「私が今までのあなたの行動を上に報告するとどうなりますか。 情報を得るために小物を泳がしていたと好意的に取ってくれるとよいですが、やはり、犯罪者と知りつつ交友を持っている事実はあなたのステップアップに不利になるでしょう。あなたはキャリアではありませんが、優秀だと聞いています。弟の心配もいいですが、自分のことをまず考えたほうがいいと思いますが」
また脅すのか!
十無は喉元まで出かかったその言葉を必死に押さえた。弟を被疑者扱いされ、自分までも被疑者と馴れ合いになっているといわれ、十無の怒りは頂点に達していたが、何とか爆発しないように持ちこたえた。ここで喧嘩しても始まらない。黙って聞き流し、氷室の目的を探るのが先決なのだ。
捜査本部の情報は、十無の耳に直接届かない。全て、氷室慎司というフィルターを通さないとならないのだ。
氷室慎司はキャリアであり、ノンキャリアの十無とは比べることはできないのだが、係長という身分でこんなやり方を捜査本部が認めるほどに、この男は仕事ができるのだろうか。それとも、何かコネでもあるのかと、侮蔑するような視線をすぐ傍に立っている氷室に向けながら、十無は考えた。
氷室警部の言動は何か引っかかる。アリアを尾行して行動を探ることが、本当に怪盗Dを確保するためだけの目的で行っていることなのだろうか。
氷室警部がアリアに会ったと昇からきいたときから、十無は何か裏があると考えていた。アリアに直接会っても警戒されるだけで何もメリットはないはずだ。
アリアを探る真の目的は何か。それがわかるまではおとなしくしていたほうがいいだろう。
十無はやや間を置いてから素直に「わかりました。張り込みを続けます」と返事をした。
氷室は満足そうに口の端をあげ、屈めていた躯を起こして言った。
「では、せいぜい頑張って下さい」
氷室は背筋を伸ばして銀縁眼鏡を冷たく光らせた。今にも高笑いしそうな勝ち誇った態度だった。
その態度を見た瞬間、氷室に敵視されているのだと鈍感な十無でもはっきりと自覚した。
それは何故か。十無がその理由を知るのは暫く後のことだった。




