6・盗難事件
「君が東十無君だね」
「はあ……」
警視庁、捜査三課の部長を前にして、東十無は気の抜けた返事をした。
弟の昇が部屋を出ていってから三日が過ぎていたが、昇は未だに何の連絡もしてこないので、十無はさすがに気になり始めていた。
それに、一人分の朝食を作るのが面倒で、十無はここのところ珈琲だけ飲んで朝食抜きで出勤していた。そのせいもあって、十無は朝っぱらから力のない返事をしてしまったのだ。
部長はごつい眉を寄せてじろじろと十無の風貌をあからさまに観察した。
「おいおい、君が本当に東君か」
「そうです」
確かめるように言った部長に、十無は憮然として応えた。
期待はずれということか。来たくて来たわけでもなく、何を期待されて呼ばれたのかわからない十無は、やる気のない返事をしてしまった自分の態度を棚に上げ、内心腹を立てていた。
捜査部長はごつい眉をいっそう眉間に寄せて、直立姿勢の十無の顔を覗き込んだ。
ゴリラみたいだ。
失礼だと思ったが、それが部長の第一印象だった。
首が太く、いかにも柔道で鍛え上げたというような体形に、への字に結ばれた大きな口。
十無は外見だけで判断してはいけないと思いつつ、キャリアというよりは、現場でたたき上げの刑事という感じを受けた。
「まあいい。氷室から詳しいことを聞きたまえ」
十無の肩を叩いたその手も、グローブをはめたようにがっちりとしていた。
「氷室、お待ちかねの刑事が来たぞ」
顎をしゃくって十無を指し、奥にいる刑事を呼びつけて、自分はさっさとデスクに戻った。
氷室と呼ばれたその刑事は、奥の席から返事もしないで立ち上がり、つかつかと十無に近寄ってきた。
その銀縁眼鏡の奥にある鋭い瞳を細めて、氷室慎司は見下すような視線を十無に向けた。
それは一瞬だったが、十無は見逃さなかった。
値踏みされて、たいしたことなさそうだと判断されたのだ。十無は瞬時に反感を持った。
「東さんですね。よろしくお願いします」
そう言ったときには、先ほどの人を蔑むような態度はすばやく引っ込み、氷室は気持ちの良い笑顔を湛えながら、白い歯を見せた。
十無も氷室をそれとなく観察した。
袖からちらりと見えた腕時計の文字盤には、宝石が光っていた。金持ちの息子に違いない。背広も仕立てがよく、短く刈り上げられた頭髪も清潔感があり、育ちのよさを感じる。たぶん二、三歳年上か同年齢だろう。上背があるが細身で、笑顔を見せればさわやかな優男だが浮ついた感じはしない。知的な印象だ。
外見は良くても裏表がある奴だ。仮面の奥は野心に満ちたキャリアだろうか。
うまくやっていけるか不安だったが、十無はそれをおくびにも出さずに氷室に負けないポーカーフェイスで「よろしくお願いします」と挨拶をして笑顔を貫いた。
「早速ですが、東さんに加わってもらう捜査の資料に、まず目を通していただきたい」
水広家盗難事件と題された厚い資料を受け取り、十無はその場でぱらぱとめくって斜め読みした。事件は別の管轄で起こったものだったため、十無は新聞記事で知っている程度だった。
しかし、目を通し終えた十無は、あることに気付いた。
「これは……」
十無は氷室に渋い顔を向けた。
「Dの事件だと思いませんか」
渋谷区松涛にて、水広宝珠(七十歳)宅で九月十八日、午前十時から午後二時の間、家人が不在中に空き巣の侵入あり。隠し金庫より、総額八千万円相当の盗難があった。現金六千万と一千万円相当の貴金属類、そのほか有価証券がきれいさっぱり盗まれ、その現場は荒らされた様子もなく、防犯カメラも全て見事に止められていたのだった。
その鮮やかな手口からして、Dの可能性が高い。十無もそう感じたのだが――。
「ですが、ちょっと引っかかりますね」
「なにか?」
「金庫の中は何も残っていなかったということですよね。これは今までの手口とは異なっています。Dは今まで証券類には手を出したことがなく、貴金属類は気に入ったものしか持っていかないのです」
「なるほど。だが東さんもこれはDの犯行だと感じたのでしょう?」
「そうですが……はっきりとした根拠はありません」
「直感というやつですね。……まずは、打ち合わせをしましょう。こちらへどうぞ」
氷室は微笑みながらそう言って、取調室の一つに案内してくれた。
捜査本部のおかれている最寄りの所轄に移動すると思っていた十無は、多少違和感を覚えながら部屋に入った。
先に部屋に通された十無は奥に座らざるを得なかった。被疑者が座る椅子だ。なんとも嫌な感じだ。
Dの件に関しては、宇野ジュエリー事件のときに既に所轄の手を離れ、広域窃盗犯ということで警視庁の案件となっていた。加えて、Dの件に関して十無が報告を怠っていたとして厳重注意を受けていた。それなのになぜ、今回警視庁に呼ばれたのか。十無は不思議でならなかった。
「私が是非にと東さんを推しました」
パイプ椅子に腰掛けて足を投げ出すように組んだ氷室は、十無の疑問を推し量ったように穏やかに言った。
「あなたが?」
「そうです。意外ですか? あなたは的確な判断に基づいて冷静に行動し、事件の解決に大いに貢献してきた」
「はあ……」
買いかぶりだ。地道にこつこつと捜査に従事しているだけだ。
十無は素直に喜べず生返事をした。だが、ほめられて悪い気はしなかった。氷室が次の言葉を口にするまでは。
「しかし、ある人物に関しては別のようですね」
氷室は一呼吸おいてから十無のほうへ身を乗り出し、ある名前を口にした。
「アリア」
十無は息が止まった。どくんと心臓が飛び跳ねた気がした。まさか、こんなところでアリアの名が出てくるとは思いもよらなかったのだ。
氷室は反応をうかがうように腕組をして十無の顔を注視している。
ここで動揺を見せるわけにはいかない。十無はそ知らぬふりをして「アリア?」と聞き返した。
「とぼける必要はありません。怪盗Dの周りをうろちょろしている小者のことです。どこまで知っているのですか?」
「待ってください。話がよくわかりません」
アリアをかばうつもりはなかったが、はい知っていますとは口が動かなかった。十無はアリアを氷室に引き渡してしまうことに躊躇したのだ。冷徹な一面を持つ、この男を信用できなかった。
穏やかな口調を崩さない氷室だったが、鋭い視線は十無の嘘を見抜いているようだった。
「では質問を変えます。あなたの双子の弟で探偵業に従事している東昇は、アリアに肩入れしていますね」
これは詰問だ。十無は取調べを受けているのだ。
冗談じゃない! 十無は立ち上がって被疑者扱いされたことを非難したかったのだが、できなかった。
氷室は嘘を言っていない。事実なのだ。
「それは……」
二の句が出ない。嘘をつくのが苦手な十無は、昇を援護する言葉が思い浮かばなかった。十無は宙に目を泳がせてしまった。
「いいでしょう。これではっきりしました。東さんには弟さんの行動を私に逐一報告してもらいます」
氷室が予想していた通りの行動をとってしまったのだろう。氷室は両肘を机について満足そうに口の端だけで笑った。
「身内が関係するのであれば私はこの捜査から抜けたほうがいいのでは? 弟を監視するというのは――」
「私情を挟んでしまいそうだということですか」
「いえ、それは――」
「あなたに限ってそれはありませんね。では早速、仕事に取り掛かってください。連絡は私の携帯電話に」
十無の言葉尻をとって続けた氷室は、有無を言わせない口調で十無に命令してから立ち上がった。
「待ってください。これはDの件と何か関係があるんですか。捜査本部に顔を出さなくていいんですか」
取調室を出て行こうとした氷室を、十無が引きとめた。
「アリアをあぶり出せばDという大物が引っかってくると思いませんか」
氷室は振り返ってにっこりと笑顔を向けた。銀縁眼鏡に蛍光灯の光が反射してどんな視線を向けているのかわからなかったが、多分冷たい目で笑っていたに違いなかった。
「安心してください。アリアの件は私個人で動いています。あなたがきちんと報告してくれるのであれば、身内が被疑者に関係していることは他言しません。ですからあなたは捜査会議に出る必要もありません。言っている意味がわかりますか」
不利なことを黙っていてやるかわりに情報を提供しろということか。
正式に本庁の捜査に加われたわけではなかったのだ。氷室慎司が周囲を出し抜いて手柄を立てるための道具として呼ばれただけなのだ。
十無は唇をかんだ。
「うまくいけばあなたを本庁に推してあげましょう。悪い話ではないと思いますが」
ドアを半分開けて部屋を出ようとした氷室は、何かを思い出したように足を止めてもう一度振り向いた。
「そうそう、アリアという男、なかなか威勢がいいですね。気に入りました」
「会ったのか」
「三日前に。東さん、何を怖い顔をしているんです。まさかあなたもアリアに加担して――」
「俺は関係ない!」
「……そうですか。それでは情報を待っています」
氷室は片手を上げて悠々と歩いていった。
その背中を見送りながら、十無は放心していた。
今まで表に出てこなかったアリアがマークされている。それもDとのつながりまでつかまれている。
氷室は何処まで知っているのか。
十無は手段を選ばない氷室という男に薄気味悪さを覚えた。
そして、アリアの身を案じずにはいられなかった。




