4・任務
「最近、お前らしくないぞ」
「すいません」
アリアが『仕事』に取り掛かったその夕刻、東十無は同僚の年配の刑事にぽんと肩を叩かれていた。
「女にでも振られたか」
「そのほうがまだましかも……」
大きくため息をついた十無に、年配の刑事は少し首をひねってから、はっとしたように目を見開いて「ああ、悪かった。そうか、そうだったな。そりゃ、色々と大変だよなあ」とニヤニヤしながら大きく頷いた。
「どういう意味ですか」
「いや、いいんだ。俺が悪かった」
以前、アリアが女装して署を訪ねてきたときのことを彼は思い出したのだろう。あのとき、十無はニューハーフと付き合っているという噂が流れたのだ。
十無は否定するのも面倒くさくて、小さくため息をついた。
「それより、本庁の三課から、お前をよこせと要請してきたらしいぜ」
「俺ですか? なんでまた」
話題がそれて内心ほっとした十無は、声がやや大きくなった。
「さあな。課長に聞いてみたらいい。うまく本庁に引き抜いてもらえるように頑張れよ」
「他の誰かに代わってもらえないかな」
「ああ? チャンスを棒に振る気か。本庁からの命令だぞ」
「……そうですが」
「おかしな奴だな。本庁のデカになるんだって言っていただろう? 今は大きなヤマがあるわけでもないし、なにを迷っている」
確かに以前は、本庁の刑事になって大事件を扱ってみたいという夢があった。
だが、今はその野望はしぼんでいた。不純な動機が、十無の夢を萎えさせてしまっていた。
同僚にせっつかれて、十無は上司から詳しい話を聞き、本庁の刑事と捜査することを渋々承諾した。
十無は署内の自動販売機で缶珈琲を買い、その場にあるベンチにどさりと腰掛けた。
「夢に近づいたんだよな」
自分を納得させるように、十無はそう声に出してみたが、言葉とは裏腹に陰鬱なため息が出るばかりだった。
本庁の事件に関わることになれば、アリアの担当から遠のいてしまう。
それでなくとも、アリアに会うことは容易ではないのだ。
そんな不純な理由で、夢に近づくチャンスさえも気乗りしない自分が情けなかった。
だが、どうしようもないのだ。感情は押さえつけるほど高まっていく。
東十無は実際、困っていた。
街の雑踏の中、ちょっと線の細い少年を見ると、アリアではないかと立ち止まって見てしまう。物憂げな女性が通り過ぎると、今のはアリアではないかと後を追いたくなるのだ。重症だった。
「だめだ。仕事に集中しないと」
十無は苦い薬をのどに流し込むように、缶珈琲を一気に飲み干した。
そんな沈んだ気分を引きずった状態で東十無は帰宅したのだった。
居間で、双子の弟の昇が寝転がってビールを飲みながらTVを見ていた。風呂上りらしく、昇はシャツに下着姿でくつろいでいた。
昇が転々と脱ぎ捨てた服やバスタオルが十無の行く手を阻んでいた。新聞も広げっぱなしで足の踏み場もない乱雑さだった。
帰宅早々、部屋が散らかっていると疲労が倍増する。
十無はこれ見よがしに大息をついた。
「おい、昇。服を脱ぎ散らかすな」
「あとで片付ける」
こちらを見向きもせずに、昇が返答した。
「風呂から上がったら、バスタオルくらい干しておけ」
「いちいちうるさいなあ。風呂上りのビールくらいゆっくり飲ませてくれ」
肘を突いて体を起こした昇は、ようやく十無を見上げた。
「大体お前がきちんとしないから――」
「ちょっと待った。兄貴、カリカリしてる。それ、俺のせいじゃないぞ。八つ当たりだ」
「話をすりかえるな!」
「兄貴はいっつもそうだ。何か嫌なことやストレスがあると小言が増える」
「俺はいつもと変わらないぞ」
「あっそ、自覚がないのか。最悪だな。最近酷いぜ、その苛々。とばっちりはごめんだ。ほとぼりがさめるまで暫くここに帰らないことにする」
「どういうことだ」
十無が声をかけても、昇は返事もせずにすっくと立ち上がって自室へ引っ込んだ。
「おい、どうする気だ」
部屋をのぞいた十無を無視して、昇はボストンバッグに着替えを詰め込んでいる。
「適当なところを見つける。じゃ」
昇は本当に部屋を出て行った。
「短気な奴。どうせ飲みに行くか事務所にでも泊まるのだろう。そのうち帰ってくるさ」
十無は軽く考えていた。まさか昇がそんなところへ泊り込むとはこのときの十無には全く予想できなかったのだった。