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37・決断

 同日の昼下がり、水広宝珠の屋敷にかかりっきりになっている東昇に、音江探偵事務所から招集がかかった。

「今立て込んでいるから、せめて八日以降にならないか?」

 東昇の返答に、携帯電話の向こうで甲高い声が反論した。

『待てないの。大至急事務所に戻りなさい。大事な用件があるの。所長の命令よ』

「仕方ないなあ。でもすぐ現場に戻るからな」

 昇は渋々承諾した。

「ここを離れるわけにいかないのに。急用って、他の奴に回してなんとかならないのか」

 面と向かって言えないセリフを、切った後の携帯電話にぶつけてから、それをポケットにしまった。

 水広宝珠に断りを入れてから外出しよう。柚子にも伝えて行ったた方がいいか。

 昇は柚子のことが頭をよぎり、柚子の部屋に顔を出した。

「昇、すぐ帰ってくるよね?」

 昇が柚子に出かけることを告げると、窓辺に座っていた柚子が不安そうに昇を見上げた。

 予想以上に柚子は心細そうだった。

「ああ。本当は今ここを離れたくはないが、所長がお呼びでね。すぐ帰ってくる」

「わかった。待ってるから」

 柚子は硬い表情で昇をじっと見つめたのだった。

「泣きそうな顔だな」

 昇は柚子の頭をくしゃりと撫ぜた。

「だって……」

本当に今にも大粒の涙が落ちそうだった。精神的に不安定な柚子を一人置いて大丈夫かと、昇は心配になった。

「お願いだから、早く戻ってきて」

柚子は立ち上がって、昇にしがみつくように両腕をしっかりと腰にまわしてその胸に顔を埋めたのだった。

「お、おい」

 こんなに弱い子だっただろうか。

意外なほど弱々しい柚子に、昇は戸惑いを隠せなかった。

「柚子、俺の助手なんだから俺がいない間は、怪しい動きがないかお前がしっかり見ていろ。できるな?」

「うん……」

 勇気づけるように昇が指示を言い渡したのだが、昇の胸元で顔を上げた柚子の瞳は一層潤んでいたのだった。

 昇は胸が締め付けられた。

「こら、俺のシャツに鼻水つけるなよ!」

 思わず抱きしめてあげたくなったが、思いとどまった昇はそう言って柚子を引き離した。

「そんなことしないもん」

「じ、じゃあな、行ってくる」

 昇は逃げるように柚子の部屋を出たあと、車を走らせながらも自分の態度を振り返り、戸惑っていた。

「女が暫くご無沙汰だからって情けない! ガキ相手に赤くなるとは。あいつは心細いだけなのだから勘違いするな」

ひとりごちた昇は耳まで赤く染まっていた。

「ありえない! 俺、ロリコンじゃないぞ。これは同情だ」

 昇は大きく頭を横に振った。

あれこれと考えているうちに音江探偵事務所につき、階段を駆け足で上った。

事務所のドアを開ける時も、昇はまだ上の空だった。

「昇、こっち」

 音江槇おとえまきが奥のついたてから顔を出して手招きをした。

 昇は呼ばれるままに奥の応接コーナーに足を向けた。

音江槇と所長は神妙な顔つきで並んで座っていた。その向かいに座ろうとしたと同時に、音江所長が勢いよく立ちあがり、昇の両手をしっかり握りしめたのだった。

「東君、とうとう決心してくれたのだね、私は嬉しい!」

「はい?」

 今の今まで硬い表情をしていた所長が満面の笑みをたたえているのだ。昇はたじろいだ。

「実は私の心臓の持病が最近あまり良くなくてね。無理ができなくなってしまった。ゆくゆくはと考えていたのだが、いやあ、本当に良かった。これで安心して入院できる。宜しく頼んだよ」

 所長の細めた目には涙が滲んでおり、昇の手はまだ強く握り締められていた。柚子のことなど昇の頭から吹っ飛んだのだった。

「槇、これは一体……」

「昇、所長は数日中に入院しないとならないの。だから……」

 だから、今だけでも話を合わせて。

槇の眼はそう懇願していた。

「東君、槇の気持は承知していると思うが、公私共に槇を支えてくれるとはこんな嬉しいことはない」

小躍りしそうな所長とは裏腹に、槇は昇の視線から逃れるように俯いた。

はっきりと交際を断ったのに、昇が所長職を受けるはずもない。槇が所長に嘘を伝えたのだろう。こんな芝居を打っても、いずれ嘘だとわかってしまうだろうに。父親を安心させたい一心なのはわかるが、後で落胆させるだけだ。

「手を放してください。所長、俺は……」

拒否的な話をしようとしたのをくみ取ったかのように、所長は昇に座るよう促して、先を続けたのだった。

「まあ聞いてくれ。君はやんちゃなところがあるが、それを差し引いてもいい感性を持っている。直観力というのかな。所長業務は縛りもあるが自分の思うようにこの事務所を作っていくことができる。娘と一緒に頑張ってくれないか」

所長就任の件は、今まで打診がなかったわけではないが、事務所には自分よりも優秀な人材がいるし、組織的に動けない自分には勤まるわけがないと、昇は本気にしていなかったのだった。

所長の目は真剣だった。本気なのだ。引退する気なのだろう。

昇に有無を言わせないような所長の態度は何か引っかかる。ひょっとして、所長は昇が槇との交際を断ったと知っていながら、どうにかしてまとめようとしているのではないか。

だが、自分の気持ちに嘘はつけない。槇のことも所長職も考えられない。気持ちを誤魔化して槇を引き受ける、そんなことをしても、槇を貶めることにしかならない。

わがままも聞いてくれ、所長にはよくしてもらってきた。恩を仇で返すような不誠実な発言をするわけにはいかない。でもどうやってわかってもらおうか。

思いもよらない展開に昇は頭の中が真っ白だった。口が渇き、つばを飲み込む。

 背筋を伸ばし、槇を一瞥してから所長をまっすぐに見た。所長の目は懇願していた。

「……考えさせてください」

昇は深々と頭を下げた。

「そうか、わかった」

 所長の声は穏やかだった。昇が顔を上げた時、所長は肩の力が抜けてほっとしているように見えた。槇は依然、俯いている。

 昇は結論を先送りにしてしまった。これが精一杯の返事だった。

元来、昇はあやふやな態度は嫌いだった。だが今回ばかりは拒否的な返事を伝えることができなかった。

「宜しく頼むよ」

 音江所長の言葉は昇の胸に重く響いたのだった。

 今は抱えている事件がある。それがひと段落したら、所長からの申し出を断って、この事務所を辞めよう。

 居心地が良いこの事務所を辞めたくはなかったが、所長と槇へのけじめは、そうするしかないのだと昇は心に決めたのだった。


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