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34・ぬくもり

 同じく朝七時過ぎ、水広宝珠の屋敷に泊まった柚子は、少し憂鬱な顔でベッドから起き上がった。

 室内は広々として快適で、ベッドも居心地が良かったが、体が水を含んだスポンジのように重く感じたのだった。

 それでも柚子は素早く着替えを済ませて髪に櫛を入れ、いつもの三つ網にすっかり整えてから、窓辺にもたれかかって片肘をついた。

窓を開けて秋晴れの爽やかな朝の空気に浸ってみたが、雲がかかったような気分は変わりそうもなかった。

 原因は分かっている。アリアのあの姿。

柚子は今までにアリアの女性姿を何度も目にしていたが、それは女装としてで、あくまでも扮装の一つであり、アリアではない別の女性だった。だが、今回は本名で皆の前に現れ、素に近い女性のアリアなのだ。

 柚子はそんな状況に違和感を覚えたのだった。

 頭の中ではアリアが女性だと理解していたはずだったが、男の姿に慣れてしまっている柚子の感覚はどうしても女性姿のアリアを受け入れられないでいた。

「ふう……」

 柚子はため息と共に肩を落とした。

 昇についてきて屋敷に乗り込んでみたものの、今のアリアは見たくなかったというのが柚子の正直な気持ちだった。

 氷室はアリアを手に入れて虎視眈々と水広家の財産も狙っているようだ。十無と昇は気づいていないが、執事見習いの中原洋なかはらひろしと、執事の中野の姪の和美かずみがヒロとDだということを、柚子は一目で見抜いた。まさか水広家に潜伏していたとは予想外のことだったが。その企みは未だわからないが、多分、水広家に目当ての品があるのだろう。アリアとは無関係でたまたま鉢合わせしてしまっただけに違いない。接触してアリアを救う手助けをしてほしいところだったが、氷室の目があるため慎重に接触しなければ正体がばれて互いに危険だ。十無も昇も頼れるとは思えない。こんな状況で、氷室の手からアリアを救い出すことなどできるのだろうか。

 ただアリアとの平穏な日々を過ごしたいだけなのに。

 柚子は何度目かのため息を漏らした。

 そんな重い気分のところへ、頼りがいのない男の片割れが、柚子の部屋をノックもせずに入ってきた。

「おい、朝から呑気だな」

「何よ、デリカシーがないのね。女性の部屋に入るときはノックくらいしなさいよ」

「ガキにそんな気遣いは必要ない」

「ひっどーい!」

 柚子がぷーっと膨れた。

「待て、別に喧嘩売りに来たわけじゃない」

 昇は苦笑しながらごめんと軽く謝って、すぐ真顔になり、柚子に窓の外を見るように言った。

 庭には綺麗に刈り込まれた背丈ほどの植え込みが整然と並び、シンメトリーに長方形を作っている。ちょっとした英国のマナーハウスの庭園のようだ。その奥の植え込みの陰からときおり細い腕が見え隠れして、横には黒い頭が見えている。

 柚子はすぐにヒロとDだとわかった。

昇はあの二人を何か不審に思っているのだろうか。昇の意図がわからない柚子は、昇の顔を見ることをためらった。

「この屋敷にいる人物は限られている。あれは中原という執事と中野和美だろう」

「そう? アリアと氷室かもよ」

 窓の外を向いている柚子の横に、昇が並ぶように立った。

「どうしてそう思う?」

「えっ、だって……どうして執事と水広さんの友達の女性がこそこそ隠れて会うの?」

 昇が黙って柚子を見下ろしている。

観察されているのだ。柚子はそう思い、今自分が変なことを口走ってしまわなかっただろうかと不安になりながら、窓の外に視線を向け続けた。

「ふうん」

 昇は納得しないような声を出した。

 ポーカーフェイスはアリアに負けず得意だったし、動揺することなどそうそうない柚子だったが、昇のその一言で、背中に冷や汗が滲む感じがした。

 本当にそう思っているのか? 違うだろう? と言わんばかりだ。

 昇は二人が怪しい人物だと感じて、柚子がどんな反応をするか試しているに違いない。

 柚子の出方次第で、Dとヒロの立場が怪しくなる。

「朝からナンパ? あの若い執事、真面目そうだけれどなかなか手が早いのね」

 顔は強張ってない自信があった。声も上ずっていないはずだ。

 柚子は自分に大丈夫と言い聞かせて、にっこり微笑みながら昇の顔を見上げた。

「ま、いいか」

 そう言って昇は瞳を細めた。

 とりあえず大丈夫だった。でも昇は庭にいる二人に視線を移してまだ注視している。

「何か気になるの?」

 柚子は思い切って訊いてみた。

「う〜ん、まあね」

 昇は髪をかき上げながら曖昧な返事をした。眼はしっかり植え込みの二人を追っている。そうしているうちに、人影は植え込みに消えた。

 やはり引っかかっているのだ。あの二人と接触したら即座に正体がわかってしまう。接触は絶対にだめだ。

アリア救出のための援軍を頼む僅かの希望も消えた柚子は、内心落胆していた。

残るは昇ただ一人。でも、頼って良いものか。

柚子はやや緊張した表情で昇の横顔を見つめた。

鼻筋の通った顔立ち。彫りが深いわけではないが瞳はしっかりした二重だ。耳にかかるほど伸ばしている髪以外、こうして間近で見ると十無と同じ造形だ。

双子の兄を裏切ってまで手を貸してくれるだろうか。

「なに、俺に惚れた?」

 昇はにやりとしながら、柚子を見た。

「絶対にあり得ない!」

「ははは、そうかあ?」

 柚子は力を込めて否定した。昇は笑いながら柚子の頭をぐしゃぐしゃと撫ぜた。

「やめてよっ」

 昇の大きな手からなかなか逃れられなかったが、昇はすっと手を放して柚子の顔を覗き込むようにし、口の端をあげて微笑みこう言ったのだ。

「俺とお前の立場があるから全ては相いれないと思うが、俺をうまく利用して自分を守れ」

「なによ、そんなこと言われなくてもいいように使ってやるわよ」

「いつもの柚子だな」

「大きなお世話! 用がないならさっさと出てって」

「はいはい」

 昇はポケットに両手を突っ込んですごすごと部屋を退散していった。

昇は心配してくれたのだ。

庭にいる二人のことを探りに来たのだろうが、柚子はそれ以上に昇の気遣いが胸に残ったのだった。

 大きくて力強い手のぬくもりに包まれた柚子は、昇が頼れる存在に感じたのだった。


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