33・感情
そんなアクシデントがあったとも知らず、屋敷の一階では東十無が朝食も摂らずに、私服警官の配備に奔走していたのだった。
理由は違うのだが、十無も昨夜はアリアと同様に眠れていないのだった。
アリアを氷室の手から解放したい。だが、妙案は何もない。結局、一晩中悩んで、考えても仕方のないことだと結論し、今は仕事に専念すると決めたのだった。
「朝食くらい食べたらどうです。警官は体が資本ですからね」
一階へ降りてきた氷室は、アリアの部屋での出来事はおくびにも出さず、しかし楽しげに、走り回っていた十無を呼び止めたのだった。
「既に屋敷の警備体制は整いました。ただ、屋敷全体が高い塀に囲まれており、庭全体に植え込みが多く暗いため、人が紛れると面倒です」
氷室の冷やかしを無視して、十無は事務的に報告した。
「そうか、では水際でチェックを厳重に。昨夜、不審者はいませんでしたか」
「見回りする限りではいませんでしたが、何かありましたか」
「いいや、たいしたことではない」
氷室は昨夜の女のことを言わなかった。
女にねじ伏せられたうえに逃げられたという事実を告げるなど、氷室のプライドが許さなかったのだ。
「何かあれば、必ず教えてください。Dは既に近くに潜んでいるかもしれません」
「東さんも、警備に隙のないようお願いします」
「わかっています」
互いに相手を睨みつけるように視線を交差させて、敵意を露わにしていた。
氷室は警視庁のお飾りとして祭っておけばいい。刑事を辞めるつもりだというし、どうせ私利私欲のことで頭が一杯なのだ。
仲間内でいがみあえば敵の思うつぼだ。そうわかっていても、十無は氷室と共同戦線を取る気になれなかった。
廊下で刺々しいやりとりをしていた二人のところへ、執事の中野に手を引かれた宝珠がやってきた。
「慎司さん、あまり大ごとにしないでほしいねえ。物々しい警備はせっかくのパーティが台無しになっていしまうからねえ」
「お婆様、極力目立たないようにしますから安心してください」
「でもねえ、怖い顔した刑事さんがあちこちに立っているのでしょう。せめて今の半分の人数にしてほしいねえ」
警備方法が不満だという宝珠に、氷室は顔をしかめて答えた。
「それは困ります。これだけの屋敷を警備するとなると……」
「Dという泥棒は本当に来るのかねえ。こんなことでお客様に不快な思いをさせたくないねえ」
「警備を縮小することはお勧めできません。何かあってからでは遅いですから」
十無も渋い顔をした。
「Dという輩は今まで人に危害を加えたことがないと聞きましたよ。それに、財産なんて老い先短い身にはどうでもいいのです。残しておいても一人身の私には後を継ぐ者などいないんですからねえ」
宝珠の言葉に、氷室は血相を変えた。
「私がいるではありませんか。お婆様をこんなに心配しているのにわかってもらえないのですか」
「ありがとう。でもねえ……慎司さんが警備してくれるだけで十分」
わざとらしい氷室の心配顔に、宝珠は素直に礼を言ったのだが従おうとはしなかった。
「……わかりました。お婆様の意向通りにしましょう」
不本意な警備を嫌がる宝珠を見て、ここで機嫌を損ねてはと思った氷室は、睨んでいる十無を無視して警備人数を半減するように指示を出したのだった。
宝珠は内心、舌を出していたのだが、口車に乗った氷室は全く気付かなかった。
いくら財産に執着のない人間でも、賊が襲ってくるかもしれないというのに警備を減らすように頼むとはおかしな話なのだが、十無もまた氷室の方針に反発するばかりでそのことに疑問を持てず、宝珠が強引に我を通した真意を見抜くことはできなかった。
まして、宝珠がDとグルで、Dの仕事がスムーズになるように口出ししたとは思いもよらないことだった。
宝珠は二人ににっこり微笑んで寝室へ戻った。それは、まるで悪戯小僧のような微笑みだったが、いがみ合う二人にそこまでの観察眼はなかった。
宝珠がいなくなったのを見計らったように、執事の姪、和美に扮したDが氷室に声をかけた。
「七草さんと、朝からお熱いこと。外から丸見えでしたわ」
「覗き見ですか」
氷室は余裕で微笑み返している。
「窓辺であんなことされたら嫌でも目につきます」
十無はDの、「あんなこと」という言葉に、どんな想像をしたのか顔をひきつらせた。氷室はそれを知ってか知らずか、十無を無視してDに話しかけた。
「あなたの恋人はつれないようですね」
「執事の中原さんのこと? 彼はそんなんじゃないわ」
「それにしては、七草が気にしていましたが」
氷室は銀縁眼鏡の奥から鋭い目を向けている。
アリアと若い執事に扮しているヒロの関係を疑って探りを入れているのだ。やはり、アリアがヒロを見て動揺していたことを氷室は見過ごしていなかった。話せば話すほどほころびが出てきそうなまずい状態だ。
だが、Dは臆することなくにっこり微笑んでこう返した。
「あなた、本当に七草さんと結婚するつもり? 今にも壊れそうなガラス細工のお人形でも扱っているようにしか見えないわ。七草さんがあなたを好きなようにも見えないし。あなたもあの子も不幸になりそう」
「余計なお世話です。和美さんは本能のままに生きているといった感じですね」
話題を変えたDに、氷室がうまく乗ってきた。
「見ていて苛々するのよ。その気があるなら、自分をさらけ出してぶつかりなさいよ」
「これが私ですから」
氷室は憮然として答えている。
険悪な空気だった。二人の間に挟まれて無視もできない十無は、仲裁に入ろうとしていたが言葉が見つからずに開けかけた口を閉じた。そんなことはお構いなしに、Dは言葉をぶつけた。
「違う、あなた、何かぎらぎらしたものを隠しているわね」
「どうしてそんなことを?」
「私と同じ匂いを感じる」
「あなたのように野生動物的なところなど私にはありませんね」
「自分を知らないのね。あとで後悔するような生き方だわ」
「あなたと人生について議論したいと思いません」
「私だって、ただ七草さんが可哀想だから忠告しただけ」
「そんなことを言われる筋合いではない!」
感情を表に出しそうもない氷室が熱くなっている。核心を言い当てられて腹立したのだ。
氷室の注意を逸らすだけでよかったのに、Dはつい饒舌になって少し言い過ぎてしまったのだ。
「氷室警部、そんなにむきにならなくても」
やり込められた氷室に、十無はつい目が笑ってしまった。
「東君、警備配置の再確認を」
「わかってます」
目がつりあがっている氷室は、十無を追い払うように指示を出した。十無は内心舌を出していたが、真顔で返事をして二人から離れた。
「本心を覗かれたからって部下に当たったらだめじゃない」
「戯言はこのくらいにして、和美さんは警備の邪魔をしないでいただきたい」
「あら、お邪魔でした? ごめんなさい。隙のないようにしっかり警備してくださいね」
氷室に向かって、また余計なことを言ってしまった。何故か氷室を前にすると憎まれ口を言って苛めたくなるのだ。
そこまで敵視しなくてもいいのに、無意識のうちに心底敵視していたのだと、Dは改めて思ったのだった。
「和美さんに言われるまでもなく、十分に警戒しています」
「あら、それはどうも」
「あの中原という執事に逃げられたくなかったら、しっかりとつないでおけ」
「あなたこそ、七草さんに愛想尽かされているじゃないの。どうせ弱みでも握って鎖でつないでいるのでしょう?」
氷室がその言葉に反応した。
「七草が君に何か言ったのか?」
「いえ、なんとなくそんな感じがしたから……」
話しすぎた。Dの存在を氷室に印象付けるようなことはするべきではないのだ。執事の中野の姪として、おしとやかな令嬢を演じていたはずなのに。
案の定、氷室の銀縁眼鏡がDを注視している。
「和美さん、あなたはお婆様の知り合いでしたね」
「ええそうよ」
「こんな威勢のいいお嬢さんがお婆様のお知り合いだったとは、つい今まで知りませんでした」
「いつも静かに過ごしているお婆様には私のような友人が必要よ」
「人を不快にするような方はふさわしくない」
「あら、本当のことを指摘したまでです。気分を害したのなら謝ります」
そう言ってDは軽く頭を下げたが、謝る気が毛頭ないのが見て取れる、形ばかりの態度だった。
氷室は無言でDに背を向けて屋敷の裏口のほうへ大股で歩いて行った。
大人げなかった。熱くなる必要などなかったのにとDは思う。氷室の気を少しそらすだけでよかったのに、ブレーキをかけられなかった。同じ匂いを感じるなどと、どうして口を衝いて出てきたのだろう。
Dの中に自分でも処理しきれない感情が残った。




