30・大切な人
水広宝珠の屋敷は狐と狸の化かし合いの様相を呈していた。
宝珠の企みに協力することになたヒロとDだったが、東十無を引き留めたのは、D単独の思いつきだった。
部屋に下がったヒロは、開口一番、Dに文句をぶつけた。
「お前どういうつもりだ。刑事を引き留めるようなことを言って」
「あら、面白いじゃない。やっぱりイベントは盛り上がるようにギャラリーが多くなくちゃ」
Dは謝るどころか何が不満なのとでも言うように、ソファに腰をおろしながら口を尖らせた。ヒロは腕組をしてDを見下ろした。
「首を絞めるようなまねをわざわざする必要はないだろう」
「緊張感が足りないと、また失敗しそうですもの」
「慎重にことを運べば問題ない」
「でもねえ……」
Dは小首をかしげた。
この屋敷に忍び込んだとき、いつも通り周囲に気を配っていれば防犯カメラにも気付いただろうし、屋敷の無防備すぎる状態も、何かあると勘繰ったはずだった。
ヒロが一緒にいることで、デートの延長のような感覚で浮かれてはしゃぎすぎたことを今も悔やんでいた。
もう失敗したくない。Dにはそんな気負いがあった。
「敢えて、自分を追い詰めたいのよ」
「俺には理解できないね」
「別に、ヒロは参加しなくてもいいけれど」
「お前、ずるいな。この状況で俺が絶対に抜けないと思ってそう言っているだろう?」
「そんなことないけれど」
ヒロの指摘通り、危険な状況になればヒロは手助けしてくれるだろうとDは高をくくっていたのだった。
「これ以上馬鹿なまねをしたら、手を貸さない。俺は静観している」
「ふーん。見守ってくれるということね」
「違う、危機になっても助けない」
「そう、わかったわ」
Dが肩をすくめてあっさり了解したものだから、ヒロのほうが困ったように眉を寄せた。
「簡単に肯くな」
「だって、嫌だといってもだめでしょう」
「もういい! 勝手にしろ」
「はいはい」
背を向けたヒロに、Dはにやりとした。
結局はヒロが了承した形になったのだ。Dのほうが上手だった。
Dは音もなく立ち上がり、ヒロの肩幅のある背中にもたれかかった。
「ねえ、大丈夫よ。心配しないで」
「そんな猫なで声を出してもだめだ」
「いつもと同じ声よ」
Dはそう言いながら、ヒロの腰に両腕を巻きつけて頭をもたれさせた。
ヒロの黒いジャケットから煙草の匂いがして、Dは傍にいることを実感する。
今一緒にいるのは自分なのだと。
だが、ヒロは冷たくその腕を引き離した。
「やめろ」
「冷たいのね。アリアちゃんが屋敷にいるから?」
「関係ない」
「あるわよ。ぜんぜん態度が違うじゃない。アリアちゃんが来てからずっと、よそよそしいもの」
Dは負けずにするりとヒロの正面に回り込んで、今度はヒロの首に両腕を回してからませた。
「いいじゃない。部屋の中までは見えないんだから」
つま先立ちをして唇を寄せようとしたが、Dの手はまたもや振り払われた。
「ふざけるのはよせ。そんな気分じゃない」
「だったら、どんな気分なのよ」
「俺はもう休む」
「逃げるの? そんな態度をとるのなら、今度はアリアちゃんの前でキスするわよ」
「いい加減にしろ!」
ヒロは部屋から出ていった。刑事たちが滞在することになってから、執事の役回りであるヒロは、別の部屋に生活の場を移していたのだった。
「なによ、いつまでもアリアちゃんから離れられないじゃないの。私はアリアちゃんがいない時だけの女なの?」
Dはヒロが出て行った扉を睨みつけながら唇をかんだ。
本当はヒロに面と向かってそう問いただしたかったが、その勇気はなかった。言った後にもし、ヒロが何も言い返さなかったら、アリアの次にしかなれないと思い知らされて惨めになるだけなのだ。
自信家のDも、こと恋愛に関しては臆病だった。
同じく、案内された部屋で一人、アリアはこれから自分がどう行動したらよいのかと、途方に暮れていた。
アリアはよもや、屋敷の女主である宝珠とD、ヒロが結託しているとは微塵も思っていないのだった。
月明かりだけの部屋でソファに沈み込み、瞬きさえ忘れて。
氷室とのことは自分だけで解決し、ひっそりと東京から姿を消すつもりだった。それなのにヒロとDに会ってしまった。何故か、十無や昇まで首を突っ込んできた。
あと四日間は顔を合わせなければならないのだ。
耐えられるだろうか。ヒロとDが一緒にいるところで。
無意識にため息が漏れる。
天井まである大きな窓から、不気味に光るオレンジの月が見えていた。
氷室の機嫌を損ねて捕まるわけにはいかないのだ。そうなれば、氷室は脅しではなく十無の職を奪うだろう。もしかすると、ヒロやDにも勘付くかもしれない。
胸騒ぎ。何か悪いことが起こりそうな予感にアリアの不安が増していた。
アリアはお酒で気を紛らわせたくなって、執事の中野に頼もうとふらふらと立ち上がったそのとき、他に聞こえないようにややトーンを抑えぎみにしているものの、聞き慣れた甲高い声がアリアの耳に飛び込んできた。
「アリアの馬鹿! 一人で抱え込むのはやめて」
月明かりの中、アリアのほうへ駆けてきて抱きついてきた。
甘い香りがふわりと漂う。何年も離れていたわけではないのに、アリアは懐かしい感覚に襲われて思わず「柚子」と呼んで抱きしめた。
だが、アリアは現状をすぐに思い起こし、笑顔を消して硬い表情で柚子から離れた。
「ここにきてはだめだ。私のそばにいたら、柚子まで巻き込む」
「そんなことはいいの。氷室に脅されているってどうして教えてくれなかったの」
「知っているのか」
「うん、昇も知っているし、十無も」
「十無も?」
アリアは頭から血の気が引いていく感じがして、ふらふらとソファに座った。
スリの現行犯で捕まえられるところを、氷室が見逃す代わりにアリアが指示に従うという交換条件。十無はやはり知っていたのだ。
それなのに何故、十無は知らないふりをしたのか。
アリアは両手で顔を覆って俯いた。
「十無は氷室の企みをどこまで知っているのだろう」
柚子に言うでもなく、アリアは思わず言葉を漏らした。
「企みって……」
「いや、大丈夫だから。柚子は昇と一緒に帰りなさい」
心配させないように、アリアは慌てて笑顔を作った。
「昇は水広宝珠の執事と打ち合わせしているの」
「じゃあ、昇の側でおとなしく待っていなさい」
「ここにいる」
アリアの足元に屈んだ柚子は、アリアの顔を見上げた。その目は赤く充血していた。
きっとこれからのことを考えて心細かったに違いない。アリアは胸が苦しくなった。
「ごめん」
「どうして謝るの?」
「今まで色々と心配かけさせたから」
アリアは辛うじて微笑んだ。
「そんな、会うのが最後のような言い方はやめて」
柚子はアリアの膝に手をかけて、不安そうに顔を見つめた。その瞳は一人にしないでと訴えているようだった。
氷室から逃れる手立てがない今、柚子との生活を取り戻すことは不可能だ。柚子とはこれきり会えないかもしれない。
そんな覚悟をしていたアリアは、膝にある柚子の手をごく自然に除けて、ソファに座りなおして姿勢を正した。
「柚子、言っておきたいことがある。昇の仕事に首を突っ込まないで学校へ行きなさい。柚子に必要なのは学校の友達だ」
「違う! そんな上辺だけの友達より、アリアのほうが大事だもん」
「学校で自分を出さないからそういう付き合いになる。大人の中ばかりにいてはだめだ。同年代の子と過ごす必要がある」
「一番大事な人が危険な目に逢っているのに学校なんかに行っていられない」
「柚子が大事にしなければならないのは学校での生活だ」
「そんなもの!」
「私も学校は無意味だと決めつけて逃げていた。でもそれは違う。同じことをして後悔してほしくない」
「押し付けないでよ! 何が大事なのか自分で決める。保護者面しないで!」
柚子の声が段々大きくなっていた。
「静かに。何事かと思われる」
「どう思われてもいいの!」
「そういうわけにはいかない」
「どうして分かってくれないの?」
喧嘩したくないのに、顔を合わせると言い合いになってしまうのが辛かった。
「柚子が大事だから言っている」
「籠の中で大事にされるより、危険でも一緒にいるほうがいい」
「柚子、わかってほしい」
「いや! そんなのわかりたくない」
柚子は立ち上がって言い返した。
こんなに心配しているのに伝わらないのが、アリアはもどかしかった。
アリアは柚子の手を取って両手で包んで握り締めた。
「お願いだから、無茶なことをしないで」
「アリア……」
目を潤ませた柚子は、座っているアリアに抱きついた。
「どんなことより、離れるのが一番つらいの」
「わかった、だから一緒にいられるように無茶はしないでいて」
とにかく柚子を安心させようと、アリアは優しくそう答えてそっと抱きしめ返した。
「……うん」
ようやく柚子は安心したようにそう言って頷いた。




