3・謎の男
気をつけろという昇の忠告通り、アリアは身辺に注意を払って『仕事』を控えていたのだが、何も起こらないうちに一週間が過ぎた。緊張も緩んできた頃、アリアは久しぶりに『仕事』をした。
ヒロからは一向に連絡もなく、アリアはくさくさしていた。
柚子とは大きな仕事をした試しがないし、泥棒の弟子にしてくれと転がり込んできた柚子だったが、まさか未成年者を本格的に犯罪へと引き込むわけにいかない。
アリアのその方針に柚子は大いに反発していたが、アリアの多少残っている良心が待ったをかけていた。
仕方なく一人で出かけたアリアは、サングラス越しに目を光らせて、帰宅途中の会社員などで込み合うJR池袋駅地下構内で、五十代位の体格の良い女性に目星をつけた。
アリアはこともなげにバッグから財布を拝借した。だが、指に大粒ダイヤを光らせていたわりにはカードばかりで実入りが少なかった。
手慣らしのつもりが、当てが外れてしまった。
アリアは小さく舌打ちした。
「奥さん、バッグが開いていますよ。気をつけて」
「あら、本当。どうもすいません」
アリアはわざわざその女性に声をかけ、タイミングよく財布をバッグに滑り込ませてそのまま返したのだった。
「アリア、最近鈍ったんじゃない? 指先なら私のほうが上かもね」
最近柚子にそう言われたのが、アリアの頭の隅に残っていた。別に競うつもりはないが、どうも面白くない。
「仕切りなおしだ」
アリアはキオスクで新聞を購入し、記事に目を落とすように見せかけて壁に寄りかかり、辺りに視線を泳がせた。
あれがいい。
真向かいで壁にもたれかかり新聞を読んでいる男がアリアの目に留まった。
仕立ての良いスーツを着こなし、袖からちらりと見える腕時計はロレックスだ。だが、高価な持ち物に負けてはいない。どうみてもサラリーマンではなさそうだ。
親のすねかじりにしては浮ついた感じもなく、知的な印象がぬぐえない。青年実業家というところか。
歳は三十代か。地味な銀縁眼鏡と短く刈り上げられた頭髪が若々しさを削いでいるが、もしかするともう少し若いのかもしれない。
眼鏡の奥の瞳は鋭かった。新聞に見入っているようだが、周囲に注意を払っているような緊張感が漂う。
この雰囲気、誰かに似ている。
観察しながら、アリアに嫌な緊張が走った。
「刑事か」
刑事独特の冷たく鋭い人を疑う目つき。東十無が仕事中に見せるあれだ。
行きかう人の合間から、アリアが事細かにじっくりと観察できるほど、その男はその場に五分は立っていた。
見ようによっては、男がアリアを観察していたとも考えられる。しかし、他に刑事らしき人物は見当たらない。でも、下っ端の刑事がロレックスなんてどう考えてもちぐはぐだ。
どうする。
アリアが迷っているとき、男はおもむろに新聞を折りたたんで新聞片手にゆっくりと歩き出した。
思い過ごしか。
券売機まで、アリアは慎重にあとをつけた。
男はスーツの内ポケットから小銭を取り出した。黒皮の財布には厚みのある札が確認できた。
上玉かもしれない。
危険だという直感もあった。だが、挑戦したいという妙なチャレンジ精神がそれよりも勝ってしまった。
一介の刑事が大金を持ち歩くはずがない。アリアはそう判断したのだ。
人の流れに沿うように男はJR改札口へと向かっていく。
アリアはその男の向う方へ遠巻きに回りこんで対面し、右側からすれ違った。
アリアは一瞬、肩が触る程度にその男に接触し、何事もなかったように悠々と歩いて駅を出た。
難なく成功した。
アリアは笑いがこみ上げてきそうなのを我慢しながら路地裏に滑り込み、人影に注意を払いながら財布の中身を確認した。
財布はいち早く処分するに限る。いつまでも持っていたら足がついて危険なのだ。
財布の中を見て、アリアは息を呑んだ。
何も入っていなかったのだ。
「どういうこと?」
「なかなかの腕前だが、まだ甘いな」
呆然としているところに背後から唐突に男の声がして、アリアは勢いよく振り向いた。
一メートルも離れていない至近距離に、先ほどの男が笑顔で立っていたのだ。
つけられていた!
アリアの心臓は飛び出さんばかりに脈打った。
はめられた! 気配に気付かなかった。やはりこの男は刑事なのか。
アリアは本能的に後ずさりして逃げ出そうとしたのだが、アリアの片腕は男にしっかりと捕まえられてしまった。
男は長身で細身、さほど鍛えられているようには見えないのだが、易々とアリアの片腕を押さえつけたその手つきは手馴れていた。
アリアはサングラスの下から男を睨みつけることしかできなかった。
「これからは中身を確認してからスリを働くことだ」
男はニヤニヤと余裕の顔を見せている。その顔は知的な青年実業家でも、鋭い目つきの刑事でもなかった。
まるで品定めをするかのように、あからさまにアリアを嘗め回すような目つき。
例えるのであれば、餌を前にしたハイエナとでもいうべきか。
冷酷な微笑みを浮かべながら、男はアリアにぶしつけな視線を注ぎ続けていた。その視線の意味するものは何か。
好青年の仮面がはがれて本性がむき出しになった男に、アリアは足がすくんだ。
「男物の服装も、なかなか似合っている。確かに、少年を相手にしているように錯覚するかもしれない。面白い趣向だ」
男は笑みを漏らした。
女だと見破られたのか。いや、初めから知っているような口ぶりだ。
アリアにざわざわと恐怖が走った。
「男勝りで可愛げのない奴かと思ったが」
アリアは男の視線から逃げ出したい一心で顔を背けたのだが、顎を取られて強引に男の視線にさらされてしまった。
「確かに手癖は悪いようだが。なるほど、他は悪くない。ツラも拝ませてもらうとするか」
男がサングラスに手を伸ばしてきた隙に、アリアは男の腹に思いっきり蹴りを食らわせた。
男は小さく呻き声をあげて腹を押さえ、捕まえていたアリアの片腕を放したので、アリアは二、三歩離れることができた。
「お前、誰だ!」
恐ろしさを払いのけるように、アリアは声を荒げた。
「威勢がいいな。そういうの、俺の好み」
男はこの程度では堪えないとでも言うように、すぐに体勢を立て直して茶化すような口を利いた。
「刑事ではないのか」
「どうだろうね」
男はにやついた態度を急に変え、アリアに鋭い目つきを向けた。
「俺は何もかも承知している。あんたを手に入れるために来た」
男のペースに引き込まれ、アリアは余裕をなくしていた。そこへ追い討ちをかけるようなこの言葉。
手に入れるためって。
アリアはその言葉に凍りついたように身動きできなくなった。
「今日のところは挨拶ということで。次に会うときを楽しみにしているよ。それまではくれぐれも警察に捕まらないように願っていよう」
片手をひらひらさせ、その男は路地をゆっくりと歩いて行った。
知的な顔を豹変させ、大胆で野心に満ちたぎらぎらとした目つきを見せた二面性のあるこの男は何者なのか。
アリアの完敗だった。




