27・すれ違い(1)
東十無、それに昇と柚子までが水広宝珠の屋敷に向かっていることなど露知らず、アリアはヒロにすがりたい気持ちを跳ね除けることで精一杯になっていた。
ヒロの前で氷室の婚約者として振舞わなければならないのだ。自分がどうなろうとうまく切り抜けられると思っていたが、ヒロと顔を合わせてその考えはもろくも崩れ去りかけていた。
そんな状態の中、今朝の食卓は、氷室とDの刺々しいバトルが繰り広げられたのだった。
「和美さんは無職とか。大人の女性がふらふらと赤の他人の家に居候していてよいのですか」
「あら、赤の他人ではないわ。ビジネスパートナーですもの。これからジュエリーデザイナーとして独立しようと思っていますの。お婆様が出資してくださるって」
「本当ですか? どこの馬の骨ともわからないのに。やめたほうがいい」
Dは次々とでたらめを並べ立て、中野和美という架空の女性になりきっていた。それに対抗して、氷室もずけずけとものを言い敵意をあらわにしていた。
「和美さんは大丈夫ですよ」
始終この調子で刺々しい二人のやり取りが続いていても、宝珠はそう言って静かな微笑みを浮かべるだけだった。
アリアはそんな諍いに首を突っ込む心の余裕もなく、食事を早々に済ませて食卓をあとにしたのだった。
アリアはヒロの前を俯いたまま素通りした。
執事に徹しているヒロは壁際にひっそりと立ち、アリアには何の言葉もかけようとしなかった。
会えたのに、なにも言ってこない。こっそり耳打ちする機会くらいいくらでも作れるだろうに。きっとヒロはDの仕事で動くことのほうが大事なのだ。もうヒロは頼れない。
そんな拗ねた感情がアリアを支配した。
アリアは居間のソファに身を埋めてから、ヒロがいる食堂のほうを無意識にちらちらと視線を送っていた。ヒロのことを思わずにいられなかったのだ。
「食後の紅茶をどうぞ」
低い声がして、サイドテーブルにそっとティーカップが置かれた。
気配なく、いつの間にかヒロが傍らに立っていた。
はっとして見上げたアリアを、ヒロが冷淡な表情で見下ろしていた。
「ヒロ……」
「中原です」
「……中原さん、」
偽名を声に出すと、益々ヒロが遠くなった気がした。
「何でしょうか」
機械的な返事が返ってきた。
アリアは思い切って訊いてみた。
「D……和美さんの、目的は何ですか」
「さあ、先ほど話していたようですが私には詳しいことはわかりません」
「ヒロ、教えてよ。氷室は警視庁刑事だよ。危険なことをしようとしているんじゃないの?」
ドア一枚隔てて隣り合う食堂に気を使い、アリアは声を抑えながら問いただした。
ヒロはアリアの傍に屈み、怖い顔をしてこう言った。
「おまえこそ、本名まで教えて、本当に警視庁刑事と結婚する気か」
「そんなこと……」
本名を教えたわけではない。氷室はすでに知っていたのだ。そう弁解したかったが、そんなことをしても自分の失態でこんな状況になってしまったことに変わりない。
アリアは俯いて口ごもった。
「ま、頑張れ」
そう言ってヒロはにこりともせず立ち上がった。
突き放すような言葉。
今まで、仕方ない奴だ、などと文句を言いながらも、黙っていても手を貸してくれたのに、そんな素振りは全くないのだった。
一人で解決したいと思っていたが、うまくいくとも思えない。
アリアは声をかけてヒロを引き止めようとしたが、氷室が来てしまい口をつぐんだ。
「七草、勝手に席を立つな」
「べつに私がいなくても……」
早々と夫気取りの氷室に、アリアは呟き声で反論した。
「氷室様、お客様がお見えですが」
氷室の小言が返ってきそうだったが、執事の中野がタイミングよく入ってきた。
「同僚の東様というお方です」
十無だ。ここにいるとどうしてわかったのだろうか。
アリアは動揺した。
気分が優れないと言って部屋で休もうとしたのだが、氷室はそれを許さなかった。
「七草はここにいなさい」
氷室は慌てる素振りもなく、まるで来ることを予想していたように落ち着いていた。
そうこうしているうちに、鋭い目をした十無が居間に案内されてきた。
「東さん、何故ここへ?」
そう言って近づいた氷室を十無は無視して、ソファに縮こまっていたアリアにまっすぐ駆け寄ってきた。
こんな状態で会いたくなかった。氷室と一緒にいることを十無はどう思うだろうか。
十無の視線を強く感じながら、アリアは身を硬くして目を伏せていた。
「氷室警部、これはどういうことですか。アリアがどうしてここにいる」
十無はアリアを指差して氷室を睨んだ。氷室は慌てるでもなく、堂々とした態度を崩さなかった。
「『彼』だとわかるとは凄いですね」
「昨夜、この姿のアリアに会いましたから」
「なるほど。私はてっきり、この姿の『彼』をよく知っているからかと思いました」
十無をからかいながら氷室はニヤニヤしている。十無は無表情を装っていたが、顔が紅潮していた。
氷室はアリアをわざと『彼』と呼んでいる。女性だということを伏せておくつもりのようだ。
アリアには何故そうするのかわからなかった。
「氷室警部、病欠とお聞きしましたが、思ったより元気そうですね」
「軽い風邪です。どうしてもはずせない急用ができたので」
「急用はアリアのことですか。張り込み対象のアリアとどうして一緒なのか説明してください」
十無はいくらか冷静になったのか、さっきよりも丁寧な言葉使いだったが、声はかなり苛立っていた。
「そのことですか。『彼』はDと関係がないとわかったのでもう張り込む必要はなくなりました」
「おい、はっきりしたらどうだ! Dは口実で、アリアの動きを封じたかっただけだろう? 最初からアリアが目的だった、違うか」
「どちらにしても、それは済んだことです」
十無が声を荒げても、氷室は涼しい顔をしていた。アリアははらはらしながらも見守るしかなかった。
「Dと関連がなかったとしても、アリアはこちらでマークしている要注意人物だ。行動を共にすることは――」
「『彼』が法を犯したという証拠はない。私の友人としてここに泊まった。何か問題でもありますか」
「ふざけるな! アリアとお前が友人のはずがないだろう。アリアを脅しているな? わざわざ女装させて何のつもりだ!」
十無はとうとう怒りを抑えきれずに怒鳴った。だが、氷室は相変わらず落ち着き払っている。
「脅すことが私に何の得がありますか。仮に私がアリアを被疑者と断定するような証拠をつかんでいるとすれば直ちに立件します。東さんは何かつかんでいるのですか」
氷室がアリアのスリを見破って、それを見逃したことを十無は知ったに違いない。
氷室の言いなりになるより十無に捕まったほうがいい。
そんな考えがアリアの頭に一瞬よぎったが、捕まれば十無にまで迷惑が及ぶことになるという氷室の言葉を思い出してすぐに打ち消した。
「……証拠なんかない」
十無は暫しの沈黙の後、アリアと視線を合わさずにはき捨てるようにそう答えた。
ひょっとして捕まえる気がないのだろうか。この場合、十無は優しいというべきか。
アリアは俯いて微かに苦笑いした。
残された道は一つしかなくなった。諦めの境地。
「いづれにしても、こいつがここにいるのはおかしい。アリアを連れて行くぞ」
十無はアリアの片腕をつかもうとしたが、氷室はその間に入ってそれを制した。
「誤解をしているようなので言っておきますが、『彼』は、自分の意思でその姿になっている。私に気に入られたいということだ。ここにいることも了承している。『彼』は私と一緒に暫くここに滞在する」
「何を馬鹿なことを。そんなことをするわけがない! そうだろう?」
十無は怒りを抑えながらアリアに同意を求めた。
「……私の意思でここにいる」
アリアはぎこちなくそう答えたのだった。




