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23・歯車(3)

 暗闇の中、アリアはマンション周囲に十無がいないことを確認し、待たせてあるタクシーに乗り込もうとした。

しかし、それは成功しなかった。不意に腕をつかまれたのだ。

「アリアだろ? どこへ行く」

 ごまかせないと思ったアリアは、後ろを振り向いて十無ににっこり微笑みかけた。

「刑事さん、私がわかるなんてすごいね。それに、張り込みも上手くなった」

「お前に褒められても嬉しくない」

「素直にお礼を言ったらいいのに」

アリアが茶化しても十無は眉一つ動かさず、刑事の仮面は外れなかった。

「どこに行く」

「それ、職質?」

「……そうだ」

 十無は硬い表情でうなずいた。

「買い物」

 それでもアリアはとぼけた返答をした。

「わざわざ女の格好をしてスーツで?」

「刑事さんがべったりはりこんで息が詰まりそうだから」

「なにか、あっただろ」

「なにが?」

 アリアはしらを切った。

「氷室は何を言った」

「別に」

「お客さん、早くしてくれないか」

 タクシーのドアを開けた状態で立ち話になっている二人に、痺れを切らした運転手が口を挟んだ。

 アリアは十無の腕を振り切って、タクシーに乗り込んだ。

「尾行はお好きにどうぞ。運転手さん、車出して」

「待て、まだ話は終わってない」

 十無はドアが閉まらないように手をかけて押さえた。そして、躊躇いがちに、こう言ったのだ。

「俺に、言ってくれ」

「え?」

「お前に困ったことがあれば――」

「じゃあ、捕まりそうになったら、刑事さんのところへ行くとしようか」

アリアは肩をすくめて嫌味を言った。

 十無はそんなアリアの態度にも怒らず、

「氷室には気をつけたほうがいい」

 と、心配そうに声をかけたのだった。

「……ご忠告ありがとう」

 アリアは優しすぎる十無に戸惑ったが、それを態度に出さず、にっこり微笑んでタクシーのドアを閉めた。そして、真っ直ぐに前を見て運転手に行き先を告げた。

 タクシーは発車し、十無がバックミラーに映った。十無は尾行するでもなく、棒立ちになっていた。

十無のほうを振り向いてはだめだ。余計なことを口走って、巻き込むわけにはいかないのだ。

 十無は氷室慎司に何かを感じたのだろうが、深く関わることになれば、十無は危険な橋を渡ることになる。

 お前が捕まれば、東十無の刑事生命は終わりだ。

 氷室のその言葉がアリアをしっかりと捕らえていた。

アリアを乗せたタクシーは、渋谷区松涛へと向かったのだった。


  

 街頭の薄明かりの中、氷室慎司ひむろしんじは紺色のスーツをすっきりと着こなして、塀に寄りかかっていた。

「待ちくたびれた」

 タクシーから降りたアリアを、氷室の不機嫌な声が出迎えた。

「出かけるのに少し手間取ったから」

 アリアは無表情で答えた。

「東十無は上手く撒いたようだな。もっとにこやかにしなさい。せっかくの可愛い顔が台無しだ」

「それはできない」

「まあいい。ここであなたがしくじったら――」

「わかった! 言うとおりに演じる。それで文句はないな?」

「それと、その大股や言葉使いも」

「……」

 アリアは口を噤んだ。逆らいたいのを堪えるのがやっとだった。

「欲を言えば、服装はもう少し華やかなほうが好みだが」

 銀行員の制服ような、地味なグレーのスーツ姿をチェックした氷室は、不満を言った。

「そこまで言われなかった」

「ではこの次は指示するとしよう」

 氷室は銀縁眼鏡の奥で、余裕の笑みを見せた。

こんな奴の言うなりになるしかないとは。

アリアは屈辱に耐え、唇を噛み締めた。

「さて、お婆様がお待ちかねだ」

氷室はアリアの肩を抱くようにして屋敷の門へ促した。

大きな門の奥は、屋敷を取り囲むようにして背の高い木々が茂っていた。用を足していないような暗い外灯が、木々の奥にある玄関までの道をわずかに照らしていた。

アリアは肩を抱いている氷室を押しのけたい衝動を堪えながら、辺りを観察した。

敷地が広いのに防犯カメラがない。無用心な屋敷だ。高い塀は中で何が起きてもわからない。泥棒に入ってくれと言わんばかりだ。Dやヒロであれば自由に出入りできてしまうだろうとアリアは想像した。

屋敷の大扉の前で、氷室はアリアに向き直った。

「失敗は許されない。事前に話したが、あなたは私の婚約者としてお婆様に会ってもらう。そして、信頼を勝ち取るのだ」

「そんなことが絶対できると思っているのか」

「やってもらう」

 氷室は断言した。

アリアが氷室から聞かされているのは、資産家の水広宝珠が氷室の祖母であり、氷室は祖父が離婚して以来、最近初めて会ったこと、祖母は弱視で滅多に外出せず、執事と家政婦だけの生活ということだけだった。

氷室が祖母の資産を狙っているのだということは想像できた。だが、そのための持ち駒として自分が何故必要なのか、これだけの情報では推測できなかった。

アリアはどう行動すべきか皆目見当がつかなかった。小細工をすることもできず、氷室の言いなりになるしかない状況なのだ。

「……美原ななとどんな取引をした?」

「話す必要はない」

「私を妻にしても何のメリットもないし、むしろキャリアに傷がつくだけだろう?」

「そんなことは問題ではない」

 そう言ってから、氷室は唐突にアリアの腰に手を回して顎を引き、顔を近づけてきた。

 アリアは何をされたのか理解できなかった。

 いきなりのキスだった。

頭の中が真っ白になったアリアは、棒立ちになっていた。拳を食らわすことも思いつかなかったのだ。

「そんなに驚くことはないだろう。婚約者なのだから」

 氷室はくっくっと笑っている。遊ばれている。アリアはだんだん怒りがこみ上げてきて、氷室を押し退けた。

「私はあなたが嫌いだ!」

「それは結構。じゃじゃ馬慣らしといこうか。さあ行こう」

 氷室は動じる素振りもなく、アリアの片腕を掴んだ。

「私に触るな!」

「これ以上私を怒らせないほうがいい」

 氷室の腕を振り払おうとしたアリアの鼻先に、氷室は顔を近付けて、低い声で凄んだ。

 アリアは負けじと氷室を睨みつけた。

「一つだけ教えよう。こんなところで油を売っている暇はない。遅い時間だが、どうしても今夜中にお婆様に会っておかなければならない。先手を打つ必要ができたのだ」

「もっとわかるように説明してほしい」

「知る必要はない」

食い下がったアリアに、氷室は冷たくあしらった。

 今は相手の出方を見て、対策を練るしかないのか。アリアは唇を噛んだ。

 氷室はアリアに背を向けて古めかしい大扉を開けた。

 ほのかな明かりの玄関ホールに足を踏み入れたアリアは、息を呑んだ。

闇の中では、古ぼけて大きいだけの外観に見えたが、玄関ホールは吹き抜けの天井に年代もののシャンデリアが吊り下げられ、柱や壁には彫刻が美しく施されており、屋敷自体が美術品のようだった。時を重ねた重厚なたたずまいに、アリアは見とれた。

「氷室様、宝珠様がお待ちかねです」

 突然、男の低い声がして、アリアはぎょっとした。

 ホールの隅に同化するように、白髪の老紳士が佇んでいたのだ。

アリアはホール内を見回していたはずなのに、男の気配がわからなかったのだ。

いつからそこにいたのだろうか。この執事は只者ではないなとアリアは思った。

「中野、こちらは私の婚約者の美原七草みはらななくささんだ」

 氷室はアリアを本名で紹介した。

 何年も封印していた実名。それを耳にしたアリアは、違和感を覚えてやや表情を硬くしたが、微笑むことで辛うじて氷室の婚約者を演じていた。

「初めまして。遅い時間にすいません。慎司さんがどうしてもというものですから」

 軽く会釈をしてから顔を上げたアリアは、驚きのあまり目を見開いて絶句した。

 見間違うはずがない。

 執事の中野の背後に、黒いスーツ姿のヒロがいたのだ。

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