21歯車(1)
東十無が午前零時に出勤したときも柚子は寝ていなかった。床についても頭が冴え渡り、一向に眠くならなかったのだ。
何度も寝返りを打つうちに、薄いカーテンの隙間から眩しい朝日が漏れ始めたのだった。秋晴れのようだ。だが、体が鉛のように重くて、柚子は布団から起き上がる気になれなかった。
ここは、アリアのマンションじゃない。
ぼんやりとそう思いながら、柚子は仰向けに寝転がって少し煤けた天井を見つめていた。
居間のほうからは何の音もしなかった。昇も昨日の夕方仕事へ出かけたきりだった。
そんなに広いアパートではないのに、柚子は一人取り残されたように感じていた。
学校は休まないようにと、昇と約束したが、とても行く気になれなかった。
人形のように微動だにしない柚子の中で、脳細胞だけが活動していた。
アリアと出会ってからのことが次々と頭に浮かんでくる。柚子はアリアの声が無性に聞きたくなった。
鉛のように重い体を起こして、部屋に転がしていた鞄を引き寄せ、携帯を取り出した。
だが、携帯を握り締めただけで、柚子は電話をかけることをためらった。
もし、アリアにさよならを言われたら……。
握り締めていた携帯が鳴った。画面表示はアリアとなっていた。
柚子はためらいがちに携帯を耳に当てた。
「柚子」
アリアの声。まだ一日しか離れていないのに、柚子は涙が出そうになった。
「昨日はごめん。嫌なことを言って」
アリアの声は優しかった。柚子は声を出してしまうと泣き声になりそうで、アリアには見えないのに首を大きく横に振った。
「柚子、聞いてる? 今後のことだけれど、やっぱり当分会わないほうがいいと思う。でも、いつまでもそこにいるわけにもいかない。一人で生活できる学生寮を手配するから」
「ここでいい」
柚子は即座に断った。寮に入ってしまったら、アリアはもう迎えに来てくれないのではと柚子は思ったのだ。
「そんなことを言っても……」
アリアの声は困っていた。
アリアは自分から離れていこうとしているのだ。
「いつ迎えに来てくれるの?」
不安に駆られた柚子は、考えるより先に言葉が口を突いて出てしまった。
「……私は迎えに行けない」
「どういうこと?」
「……ごめん、また電話する」
柚子がアリアの名を呼びかける間もなく、電話は切れた。
当分っていつまで? また一緒にいられるよね。アリアは捕まらないよね。
思っていたことを声にだせないままに、電話は一方的に切られたのだった。すぐにかけなおせばアリアの声は聞けるかもしれないが、冷ややかな言葉が返ってくるのではと思うと柚子は怖くてできなかった。
「アリア……」
思わず名を呼んだ。自分の声が弱々しく聞こえた。
柚子は急に自分がか弱くなったように思えた。
アリアなんて、一人ではまともに生活できないようなやつなのに。危なっかしくて目が放せないのはアリアのほうなのに。
いつも支えているのは自分のほうだったはずなのに。
アリアなんか――。
「アリアの馬鹿!」
柚子はかすれ声でそう小さく叫びながら泣いていた。
昇はそんなところに帰宅してきたのだった。
「おい、何があった!」
昇はどかどかと部屋に飛び込んできて、柚子の両肩を掴んで揺さぶった。
「わーん!」
柚子の泣き声は知らず知らずに大きくなっていた。
泣きはらした真っ赤な目をした柚子は、幼い子供のように声を立てて泣きながら昇の腕にしがみついた。わけがわからない昇はうろたえた。
「どうしたんだ」
面食らっていた昇だったが、すぐに柚子の状態が普通ではないと察知し、背中をゆっくりとさすり始めた。
「まず落ち着け。それだけ泣く元気があるならば病気ではないな。肩の力を抜いて大きく息をしてみろ。楽になるぞ」
昇の声が柚子の耳に優しく響いた。
柚子は素直に昇の指示に従った。大きく息を吸い込んでため息のように息をはく。初めは短くしかできなかったが、三回目にはゆっくりと深呼吸できた。
強張っていた肩の力が抜けた。
「よしよし、それでいい」
昇はそう言って柚子をそっと抱き寄せた。温かい腕が柚子を包み込んでくれた。
「大丈夫だ。心配するな、うまくいく」
昇はアリアと柚子のやり取りを知らないはずなのに、柚子の耳元で繰り返し囁いて、柚子の背中を優しくさすったのだった。
大丈夫だ。心配するな、うまくいく。
その言葉は、呪文のように柚子の気持ちを落ち着かせていった。
まるで暖かくて居心地の良い繭の中に守られているように安心感があった。
そうしているうちに、柚子は泣き疲れて昇の腕の中で眠りについたのだった。
昇は柚子を布団に寝かせようとしたのだが、柚子の両手がしっかりと昇を掴んで放さなかった。
「参ったな……。ま、いいか。俺もずっと寝てなかったし」
苦笑いした昇は、柚子を抱きしめた格好で布団に寝転がった。
「心細くなったのだろう……。強がっていてもやっぱり子供だな。ゆっくり休め。ひと寝入りしたらきっと楽になる」
そう呟いて、柚子の髪を撫ぜていたのだが、不眠不休で動いていた昇は瞬く間に一緒に眠りについたのだった。
この出来事をきっかけにして、昇は大変なものを背負い込むことになるのだが、このときの昇には想像もつかないことだった。
柚子と昇が熟睡してしまった同日の夕刻。渋谷区松涛の水広宝珠宅では、Dはアリアと柚子が離れ離れになってしまったことなど露知らず、ソファにもたれて優雅に読書をしていた。
「別人だな」
ヒロはDを見てぼそりと呟いた。
淡い水色のワンピースに長い髪を下ろしたDは、いつもの派手な服装からは想像できない爽やかさがあった。
Dは執事の姪になりきっていた。
「アリアちゃんほどではないけれど。あなたもその格好、似合っているわよ」
Dはそう言って、黒いスーツに蝶ネクタイという執事姿のヒロにウインクした。
ヒロはそれには無反応に、苛々とした口調で話題を変えた。
「あの婆さんの誕生日が過ぎたら、本当にすぐここを出るんだろうな」
「もちろん、頂くものを頂いてからね。……ヒロ、アリアちゃんに電話した?」
「いや」
「今だったらいくらでも電話できるのに。……心配、かけたくないから?」
Dはヒロの顔色を伺いながら恐る恐る訊いた。
「意味がないことはしない」
シャットアウトするような冷たい言い方だった。まるで、お前には関係ないとでもいうように。
ヒロは早くここから出たがっている。ヒロの落ち着きのない苛々した態度から、Dはそう感じていた。理由ははっきりしている。アリアにずっと会っていないからだ。ヒロはアリアのことばかり考えているに違いない。Dは面白くなかった。
「あらそう。そんな冷たい態度をとるなら、私も勝手にしますから」
「何を怒っている」
「怒ってないわよ」
言葉とは裏腹にDの口は尖がっていた。
痴話喧嘩の途中で、来客を告げるチャイムが鳴った。
執事の中野が応対したようだった。
「ほら、執事見習いでしょう。あなたも行きなさいよ」
「執事見習いのふりだけだ。本当にするわけではない」
二人が押し問答をしているところに、中野が顔を出した。
「宝珠様のお孫さんがお見えになりました」
警視庁刑事だという水広宝珠の孫が来たらしい。
痴話喧嘩どころでなくなり、ヒロとDは緊張した面持ちで顔を見合わせた。
「心配には及びません。本日は公務ではなく宝珠様に会いにいらしたようです」
二人の空気を察した中野が無表情でそう付け加えた。
今の自分は中野和美なのだから、慌てる必要はない。Dはすぐに冷静さを取り戻した。
「早速、その孫の顔を拝んで、おばあちゃんの財産を狙う悪人かどうか吟味してあげようじゃないの」
Dは余裕の笑みを浮かべた。ヒロはやれやれとでもいうように、Dを見ながら苦笑し、退室した。
入れ違いに廊下から、水広宝珠の明るい笑い声が聞こえてきた。
「さあこちらへ」
宝珠の案内で、広々とした客間に若い男が通された。
銀縁眼鏡のその男は、仕立ての良いスーツを着こなしていた。上背はあるが細身のその男に、Dは少し神経質な印象を持った。
足組をして我が家のように寛いでいたDに対して、眼鏡の男は探るような視線を向けた。
親しい知り合いなどいるはずもない祖母の屋敷に、若い女がいる。孫にとっては予想外の闖入者だったに違いない。
宝珠がDを紹介した。
「中野の姪の和美さん。遊びに来ているのよ」
「中野?」
「執事よ。といっても中野は家族同然だから、和美さんは私の孫のようなもの。この屋敷を自由に使ってもらっているの」
宝珠はDに同意を求めるように視線を合わせた。
Dは立ち上がり、宝珠の孫に向かってにこやかに軽く会釈をした。
Dのフレアスカートがふわりと揺れた。
さりげない仕草の中にもあでやかさを魅せる。Dのそんな演出は、氷室を当惑させたようだった。
「は、初めまして。孫の氷室慎司です」
Dの好意的な笑顔に表情を硬くし、氷室はぎこちない挨拶を返した。
こちらの出方がわからなくて困っているようね。警視庁の刑事といっても、この程度か。
そう値踏みしたDは、余裕の笑みを浮かべたのだった。
この男のためにアリア達にひと波乱起きているのだが、そのことを知る由もないDは、強気だった。




