2・始動
「……あら、ヒロにも恋人がいるようね」
同時刻、美原ななは携帯電話の液晶画面を眺めながら、楽しそうにそう呟いていた。
夫が飲みに出かけた後、バーボンの水割りを片手に、ななは広々としたリビングでソファにゆったりと体を沈めて一人優雅に過ごしていた。
その液晶画面に表示されているのは、調査員、音江槇からのメールだった。そこにはヒロと会っている女性の存在が記されていた。
「これであの子もヒロに束縛されることはない。ヒロから離れて、私の元へ戻ってくるしかないわね」
東京にいる自分の娘のことを思い、ななはほくそえんだ。
娘を連れ去ったヒロを許さない。ヒロのせいであの子の人生はすっかり狂ってしまったのだから。
泥棒にまで引きずり込まれてかわいそうな子。
ななはグラスをゆっくりと傾けて、もてあそぶように氷をからからと鳴らした。
ななには音江槇というよく働いてくれる持ち駒があった。
音江探偵事務所副所長である彼女の弱みを握ったななは、思う存分利用していた。
音江槇は絶対に断らない。ななはそう確信していた。
その確信通り、メールは北海道の旭川にいるななの元へきちんきちんと定期的に届いていた。
今回のメールも、ヒロのこと意外はアリアの行動を知らせる淡々とした報告内容だった。
アリアなどという通称で身を隠す哀れな自分の娘のことを思いながら、ななはざっとメールに目を通した。
毎日アリアの元へ通う東昇の名前が、日にちを追ってずらりと並んでいる。東昇がアリアに惹かれていることがはっきりと見て取れた。音江探偵事務所の同僚、東昇に好意を寄せる音江槇は、どんな気持ちでこの報告書を作成したのだろうか。その行間から、ななは恋する音江槇の苦悩を読み取ってにやりとした。
「可哀想な娘ね」
人の恋路をあれこれと眺めるのは楽しい。まして、それが自分の手中にあって思うままになるのであればなおのこと。
アリアのマンションへ頻繁に出入りする東昇。それと同じくして、双子の兄、東十無はアリアと疎遠になっている。何があったかまでは不明だが、東十無は刑事である自分の立場を優先したと想像できる。
「ちょっと飲みすぎたかしら」
いい気分で、水割りの減りがいつもより早くなる。顔の火照りを冷まそうと、ななは立ち上がってベランダの大窓へと歩いた。
窓ガラスに手をかけたとき、ふと、ななはガラスに映った自分の顔を覗き込んだ。
鼻筋の通った均整の取れた顔立ち。大きな瞳をさらに印象付ける長い睫毛。男を惑わすに十分な潤んだ瞳。薄すぎない唇。
ななは物憂げな顔をつくってみた。主張しすぎない、はかなげな印象になったななが窓ガラスに映る。
男はこの手の女に弱いのよね。
私の娘だもの、あの子がいくら男の子の姿でいても男が放っておくわけがない。男の姿でいるほうが、かえって周囲を悩ましているに違いない。あの子も罪作りね。
「ふふ、ふふふ、馬鹿な子!」
声を立てて笑うななの姿は、がらりと雰囲気が変わって悪魔的な印象すら与えた。
そんな自分をななはじっと見つめた。
豊満なバストに引き締まったウエスト。長い髪は入念に手入れされ、大きなウエーブは艶やかさがあり、若々しい。
ジムで鍛えた自慢のプロポーションは、四十歳を当に過ぎた今でも衰えは感じられない。
「私もまだまんざらでもないわね」
張りのある肌は化粧乗りも良く、まだまだ『仕事』ができそうに思う。でも、今は『仕事』をする必要がないほどの財力がある。
「いまさら、結婚詐欺なんてする必要はないけれど、ちょっと寂しいわね」
ななは退屈していた。
何一つ不自由のない生活は時間をもてあます。ななは幸せというものに貪欲だった。
娘とその婿が欲しい。もう孫がいてもおかしくない歳になるのだ。あの子を取り戻して、娘や孫に囲まれた生活がしたい。あの子が結婚して婿を取れば、夫の跡を継いで何の心配もいらなくなる。
そのためにななは静かに忍耐強く、その頃合いを見計らっていたのだった。
美原ななはアリアを取り戻すことを諦めていなかった。
「楽しみに待っていなさい。お母さんが素敵なお婿さんを用意してあげるから」
ななは窓を開けて夜空を見上げた。暖房の入った暖かな部屋に、すうっと冷気が入り込んだ。冷えた空気が頬を刺す。雲の合間から満月が顔を出した。
「今夜は十五夜だったわね。あの子もこの月を見ているのかしら」
北国の秋の寒空。遠く東京の空へと思いを馳せながら、美原ななは目を細めて微笑んだ。
「月見しにきた。団子食べよう」
アリアのマンションの玄関扉が開くか開かないうちに、アリアが聞き慣れた威勢の良い声が飛び込んできた。
東昇だ。
声だけ聞いても、双子である昇と十無の声は聞き分けられなかったが、話し方とその内容でアリアは判断し、それはほぼ間違いなかった。
たわいのない理由で尋ねてくるのは東昇のほうだ。十無は事件がらみのときしか来ることはない。だが、昇が夜遅くに訪ねてくるのは珍しかった。
何かあったのだろうか。
アリアはボタンダウンシャツにスラックスといういつもの男のいでたちでいたため、慌てることもなく、おもむろにいつものサングラスをかけた。入浴後であれば、ガウン姿で女だとわかってしまったかもしれない。
「昇、朝来たのにまた来たの? それに、十五夜は昨日! もう九時過ぎなのに来ないでよ」
続いて、柚子の金切り声が玄関先から響いてきた。最近の柚子はぴりぴりしていた。昇が来るたびにヒステリックになる。昇が柚子の気に障るようなことを言ったに違いない。
「堅いことを言うな。昨日は忙しかったから来れなかったんだ。まだ九時だろ。ああ、お子様は寝る時間か」
柚子を軽くあしらうようにして、昇がどかどか上がりこんできた。その後ろから、「失礼ね、女子高生に向かって!」と文句を言い返しながら柚子も戻ってきた。
「昇、用事がないなら帰ってよ!」
「ここからだと十五夜お月さんよく見えるかなあと思って。おまえ団子好きか?」
柚子には気にも留めず、昇は団子が入ったスーパーの袋を、ソファにくつろいでいるアリアの目の前でぶらぶらさせた。
まったく、何を考えているんだか。
楽天的になれる気分ではなかったアリアも、つい苦笑いしてしまった。
「昇、何しに来たの」
「だから、団子」
昇を見上げたアリアに、悪びれずにそう繰り返した。
「そんな用事でいちいち来ないで! 第一、今夜は曇っていて月なんか出ていないわよ」
柚子が横から口を挟んだ。
「兄貴と団子を食べても面白くない。柚子、お茶を淹れてくれ」
アリアの横にどっかりと腰を下ろした昇は、柚子の気持ちを逆なでするように横柄な態度で命令した。
「自分で淹れなさいよ!」
「せっかく団子持ってきたのに、冷たいな」
「わかった、わかった。私が淹れる」
二人のやり取りを見かねてアリアが立ち上がった。
「えっ、アリアは座って。私がする」
アリアの一言で決着がついた。
柚子がキッチンへ行ったのを見計らったように、昇が声を落としてアリアに耳打ちした。
「なあ、おまえ最近やったか」
「え?」
「だから、『仕事』をしたのかって」
昇は袋から串団子を取り出して、団子にかじりつきながら唐突に切り出した。
ヒロはアリアの前に姿を見せていない。きっとDと行動を供にしているのだろう。そのせいで、ヒロが持ち込んでくるような大きな仕事は、ここのところしていなかった。
アリアの気分が沈んでいるのもそこに原因があった。
柚子もアリアの元気がないと感じているようだった。機嫌をとるようにやたらと明るく振舞って、あれこれと話しかけてくるのだ。それもまたアリアには重かった。
アリアの気分を憂鬱にさせたのは、五日前のある言葉だった。
Dの妹、宇野愛香がひょっこり訪ねて来たのだが、最後に言った愛香の言葉がアリアの頭に焼きついたのだった。
「姉は幸せなのですね。左の薬指に高価なピンクダイヤをしていて、好きな人から貰ったと……」
誰から贈られた物なのか、アリアにはすぐ察しがついた。
ヒロだ。
ヒロが遠く感じる。もう帰ってこないのかとすら思う。義理の兄なのだからいつかはそういうときが来る。頭ではそう思っていても割り切れない。
アリアはもがくほど抜けられない蟻地獄に落ちたように気持ちがどんどん沈みこんでいた。
家族同様の同居人である柚子に心配をかけているとわかっていたが、何も話せないまま過ぎていた。
ピンクダイヤの指輪の存在がアリアに知れたのは、柚子の予想以上に早かったのだった。
「アリア、どうなんだ。何かまずいことをやらかしたのか」
アリアが浮かない顔をしてぼんやりしていたので、昇が心配そうに顔を覗き込んだ。
我に返ったアリアは、とりあえず「秘密」と言っておいた。
昇は食べ終わった串団子の串を口にくわえ、その返事に不満そうに顔をしかめてアリアを見つめた。
「気をつけろよ。じゃなくて、悪さするなよ」
「なんだよ、改まって」
「いや、その、危険なことをするな」
「何かあったの?」
「うーん。依頼を受けたわけじゃないからな。話してもいいか」
腕組をして少し迷ったような素振りを見せた昇だが、柚子がこないかキッチンのほうをちらと確認してから口を開いた。
「実は、おまえを探してくれという男が事務所に来た」
アリアの頭に、自動的にある名前が浮かんだ。
美原なな。
アリアを探す人物。それは、母である美原なな以外には考えられない。母の息がかかった男だろうか。それにしても、音江槇が以前、アリアを密かに調査していたことを考えれば、真正面から音江探偵事務所を訪ねて依頼をするとは考えにくい。音江槇へ個別にコンタクトをとるに違いない。では、その男は何者なのか。そもそも、どういう理由で探しているのだろうか。
どちらにしても、かかわりを持ちたくない。
「心当たりはないか?」
「こっちが訊きたい。その男の名前は? 何のために探しているの」
「名前は名乗らなかった。俺より、一、二歳年上だと思う。二十八、九か。結構落ち着いた感じで、もしかしたら三十歳くらいかもしれない。背は百八十センチ切るくらいかな。エリートを鼻にかけたような、自信家で嫌味な感じの奴だ」
「まったく思い当たらない」
そんな知り合いはいないし、今まで仕事でもそんな人物とかかわったことはなかった。
「どういう理由で捜したいのかは言葉を濁していたが、人探しを頼みたい、通称アリアという男だとはっきり言っていた。手がかりはそれだけだと言うから、それだけでは見つけられないと断った」
昇は身を案じてくれたのだ。アリアは素直にありがとうと礼を言ったら、昇は「別に」と言って言葉を濁した。
だが、いくら考えてもさっぱりその男に思い当たらない。
「引っかかるのは、事務所に来たときは調査員が何人かいたのに、奥のデスクにいた俺のところに真っ直ぐ来たってことだ。で、俺を観察するようにじろじろと見た」
昇のことを聞き知っている人物か。
「俺が思うに、アリアを探してくれというのは口実で、俺のことを偵察に来たんだと思う。で、アリアの名を出して俺の反応を見た。あの目つき、こいつが東昇かって顔だった」
あいつ、俺を見て口の端で笑っていた。あれは絶対俺をさげすんでいた。絶対そうだ。
昇はそう話しているうちに興奮し、声が大きくなっていた。
それにしても、お茶を用意している柚子が遅い。きっと、盗み聞きをしているに違いない。
「あの男、ジーンズでラフな格好をしていたがしっくりしなかった。多分、そんな格好はあまりしたことがないような、普段はスーツで仕事をしている奴だ。あいつ、兄貴と同じ臭いがした。あの冷めた目つきといい、警察の人間に間違いない。それに、あの横柄な態度はキャリアだ」
昇はアリアにウインクして、俺の観察眼はなかなかなんだ。と付け足した。
「こそこそと何の話?」
話が切れたところで柚子がわざとらしく、お茶を運んできた。
「この団子が美味いって話さ」
聞き耳を立てられていたとは思っていないらしい。昇は澄ましてそう言った。
昇は何かに集中していると他はそっちのけになってしまう。本当に探偵として優秀なのだろうかと疑ってしまうのだが、憎めない。
アリアはつい苦笑した。
「どうした、何が可笑しい?」
「いや、なんでもない」
「嫌な感じだな」
昇は口を尖らせた。
「昇はいい味出しているってこと」
向かい合わせに座った柚子は、そう言って串団子を一本手に取り、にやりと笑った。
柚子もアリアと同じことを思っていたようだった。
「面白くないな」
昇は串団子を一本やっつけて言った。
「ねえ、それより、お月見に串団子はちょっと違うわね」
柚子が団子をかじりながら、首をかしげた。
「団子は団子だろ」
「どうせ買ってくるなら、スーパーの団子じゃなくて舟和の団子が良かったのに」
「贅沢言うな」
昇と柚子のやりとりは喧嘩腰だが、柚子の言葉に刺々しさは感じられなかった。
昇のとぼけたペースに、柚子がまんまと載せられているのが可笑しい。
アリアはにやにやしながら二人を眺めていた。
昇が話してくれた情報は、決して良い類の情報ではないことは明らかだった。
誰かが自分の周囲を嗅ぎ回って何かを企んでいるのだ。注意をしなければならない。
そんなことを考えながらも、アリアはのんびりと熱い緑茶をすすり、一時の安らぎに笑みを浮かべた。




