19・孤独
その頃、柚子は東昇のアパートにいた。
「いいか。今日は仕方ないが明日からは学校を休むな。あとは気が済むまでここにいていい」
目を赤く腫らして俯いている柚子に向かって、昇は最低限の約束事を告げた。
昇なりに気遣ってくれているのだろう。アリアと何があったのか昇は一切聞かなかった。
「ありがと……」
柚子はぼそりと呟いた。
そっといておいてほしいと思っていた柚子には、昇のその気使いが心地良かった。だが、素直に表現できずに怒ったような口調になってしまった。
「腹減っただろう。昼飯用意するから待ってろ」
昇は部屋に続くキッチンに行って冷蔵庫を開けた。
「仕事に行かなくていいの?」
「メシ食ってから行く」
昇は玉葱と人参を手に取りながら言った。
「手伝う?」
「いやいい。お前は座っていろ」
包丁が小気味良いリズムで音を立て始めた。
柚子は居間にぺたりと座って、昇の調理を黙って見ていた。
馴れた手つきだが、量が半端じゃなく多いのが柚子は気になった。三人前はありそうだ。
刻んだ肉と野菜がフライパンへ次々と豪快に放り込まれてジュッと音を立てた。どうやらチャーハンらしい。
「お代わりあるから、沢山食べろ」
皿に盛られたチャーハンは、山盛りだった。
居間のテーブルに向かい合わせに座って、頭を着き合わせるようにして食べた。
「美味しいだろう」
「少し焦げているわね」
「このくらいがいいんだ」
昇はがつがつと食べた。柚子がお代わりをしないと言うと、昇は残りのチャーハンを黙々と平らげた。
すっかり食べ終わってから、昇は真面目な顔になった。
「兄貴はほとんど家にいないが、お前と兄貴の二人でいるわけにもいかないだろう。……俺もここに戻る。俺の荷物をアリアのマンションから引き上げないとならないな」
「アリア、一人になっちゃうの?」
「そうだな。心配か?」
アリアのことが心配になった柚子だったが、意地を張って、頭を大きく横に振った。
昇は本当か? と言ってにやりとした。
「あいつにお前のことを頼むと言われたぞ」
「アリアに?」
「あいつは、身の危険を感じている。お前と離れていたほうがいいと考えているようだ」
「警視庁の氷室慎司って何者? アリアは捕まっちゃうの?」
「……アリアは泳がされているようだ。アリアの話だと、そいつの狙いはDではないかということだ」
「アリア、もしかして『仕事』を見られたの?」
柚子に心配をかけないよう、昇はアリアがスリの現場を目撃されてしまったことを伏せて話したのだが、柚子は鋭い勘で察知してしまった。ここで否定しても、柚子にはわかってしまうだろうと思った昇は、無言で肯定した。
柚子の顔が青ざめた。
「やっぱり……アリアの所へ帰る」
「待て、氷室はアリアを捕まえないと言っていたそうだ。それに、あいつはそうそう罠にはまる奴じゃない。そうだろう? 大丈夫だ。今はここに居ろ」
「でも……」
「アリアが言うように、少しの間、離れていたほうがいいかもしれない。相手の出方を伺ってから行動しろ。アリアのことは心配するな。俺が目を放さないようにしているから」
アリアのことが心配になり、柚子は飛んで行きたい衝動に駆られたが、昇に説得されて仕方なく頷いた。
「アリアは氷室のことを知っているようだったか?」
「……昇の情報を見て初めて知ったみたい」
「そうか……」
昇は腕を組んで少し考え込んでいたが、すっと立ち上がり、暫くの辛抱だぞと言って、顔に不安の色を滲ませている柚子の頭をくしゃくしゃと撫ぜ回してから仕事に出かけた。
昇の力強い言葉でいくらか不安が拭われた柚子だったが、独りきりになってしまうと不安が再び増してきた。
もしこのままずっとアリアと離れ離れになってしまったらどうしよう。
柚子は何もする気になれなかった。不安が消えない。延々と繰り返されるその考えに、柚子は取りつかれていた。
気がついたときには、日が陰って部屋はすっかり暗くなっていた。
明かりをつけて、カーテンくらいしておかなければ。
そう思って、柚子が立ち上がったとき、玄関ドアが開いてただいまと声がした。
「昇! 私やっぱりここにじっとしていられない。もしDが捕まったら、アリアも捕まってしまうかもしれないでしょう? アリアのそばにいたら、何かできることがあるかもしれない」
柚子は玄関へ走っていき、ずっと考えていたことを一気に声に出した。
「おい、待て。何の話だ」
暗がりでてっきり昇だと思ったのだが、明かりがつけられて柚子ははっとした。コートにスーツ姿。それは、十無だった。
「あの、昇と間違えちゃった」
「そんなことはどうでもいい! それは昇の情報か」
「う、うん」
十無は柚子の両腕を掴んで声を荒げた。柚子は気迫に押されて頷いた。
「あいつ、へまでもしたのか!」
「でも、捕まえないと言われたって……」
「氷室に?」
柚子はこくんと頷くしかなかった。いつも冷静で穏やかな十無が、別人に感じるくらい怖かった。
十無の腕が乱暴に離されて、柚子はよろけそうになった。
「氷室はまさか、ゆすりでもしているというのか」
十無は柚子のことなど眼中にないようで、その場で腕組をして考え込んでしまった。
そんな十無の様子を見ているうちに、柚子は少し冷静さを取り戻した。
ここにいることを昇と約束したばかりなのだ。昇はアリアを見守るといってくれたのだから、昇のことを信じよう。
「あのう、私はここに居ていい?」
思い直した柚子は、一応十無にも承諾を得ようと、おずおずと声をかけた。
「あのう、私はここに居ていい?」
一応十無にも断っておかなければと思った柚子は、おずおずと声をかけた。
「居ていいかって……」
十無はきょとんとした。
「昇に暫くここで暮らせって言われたの」
「あいつ、そんなことを言ったのか! 参ったな」
十無は頭をかいた。
「ごめんなさい。やっぱり、アリアのところに戻る」
十無の困った素振りを見て、柚子はぺこりとお辞儀をして玄関へ出て行こうとしたが、十無はそれを遮った。
「待て、アリアはきっとお前を守ろうとしているのだろう? とりあえずここにいたほうがいい」「いいの?」
「……仕方がない」
「ありがとう。十無って融通が利かないと思っていたけれど、アリアに関しては違うのね」
「お前のことを考えて、それが最良と思っただけだ。本来であれば児童相談所に相談するところだが、そんなことをしてもお前は逃げてしまうだろう?」
柚子は嫌味を言ったつもりだったが、十無には通じず、真面目腐った返答が返ってきたのだった。
「よくわかっているじゃない。じゃあ、少しの間お世話になります」
柚子はおどけたように言ってくすりと笑った。
だが、十無は尚も真面目な顔でこう続けたのだった。
「柚子、この先アリアと別に暮らすことも考えたほうがいい」
「まさか、十無がアリアを捕まえるの?」
思わぬことを言われて、柚子は顔を強張らせた。
「親戚がいるのだからそこへ身を寄せたほうがいい」
「絶対嫌!」
柚子の声は悲鳴に近かった。
「アリアは他人だろう? それともお前、アリアのこと……」
「私からアリアを取り上げないで!」
枯れていた涙が再び溢れ出した。
自分の弱いところを見られたくない。
柚子は昇の部屋に駆け込んだ。
「おい!」
「来ないで。一人にさせて!」
十無に向かってドア越しに叫んだ柚子の声は、震えていた。
誰にも必要とされない、一人ぼっちは嫌。
柚子は興奮状態で思考が混乱していた。
「……ごめん。余計なことを言ったかもしれない。まず落ち着け。俺はこれから部屋で仮眠を取る。晩飯は適当に食べてくれ。夜中に仕事に行くから、朝も会わないで済むだろう」
そう言ってから、十無はドアから離れた。
十無に悪気はない。精一杯、気遣ってくれているのだ。それは柚子にもわかった。
十無の言うように、柚子はアリアのところへ転がり込んだだけの存在に過ぎないのだ。矢萩孝介がアリアの父親だとはっきりしたわけではないのだから、柚子と異母姉妹なのか、今の時点ではわからない。ただの他人でしかない。
そんなことはわかっていたが、柚子はどうしようもなく心細かった。
一人にしないで。と、心の中で叫んでいた。




