13・二人の関係(一)
アリアは東昇との電話を切ってから、窓の外に小さく見える乗用車を双眼鏡で観察した。
乗っている人影は見えない。東十無の張り込みはもう四日目になる。今までも、アリアは十無に張り込まれたことがあった。だが、今回は様子が違う。昇の話でその理由がはっきりとわかった。
氷室慎司は私的に十無を動かしている。
ずっと十無だけの張り込みなのでおかしいと思っていたが、これで納得できた。
相手は警視庁の警部だ。そう易々とアリアが探りを入れられる相手ではない。十無と接触して氷室警部の情報をうまく引き出すしか方法はないのかもしれない。マンションのすぐそばに十無がいるのだから、今までのようにからかい半分に十無を茶化しながら氷室のことを聞き出してみることはできるだろう。
そう思ったものの、アリアは十無と顔を合わすことに躊躇していた。十無とはしばらくまともに会っていない。十無のほうがアリアを避けているような感もある。
「焦らなくても、きっと向こうから行動を起こすはず」
アリアは氷室警部の出方を待つことにした。その判断は正解だった。
もしアリアが十無のいる車にひょいと顔を出していたら、アリアが東十無と親しそうに話しているところに氷室警部が出くわし、張り込み対象に情報漏えいをしていたのではなどと嫌疑をかけられて、十無の立場がなくなっていたかもしれないのだ。
アリアがレースのカーテンを閉めて窓に背を向けたちょうどそのとき、氷室警部が張り込み中の十無の車に顔を出したのだった。
「ご苦労様。東さん、差し入れです」
助手席にするりと体を滑り込ませた氷室は、弁当が入ったビニール袋を東十無の膝の上にのせた。
「こんなものより人をよこしてくれませんか。寝不足でもうろうとしてきた」
十無は丁寧な物言いではあったが不満をそのままぶつけて、仏頂面で氷室警部を睨んだ。
氷室は髪の乱れもなく一分の隙もないスーツの着こなしをしている。それに比べて、張り込み四日目に入った十無は、無精髭こそ生やしていなかったが、やつれた顔に前髪がばさりと顔にかかり、スーツもしわだらけでどう見ても残業で疲れきったサラリーマンだった。
畜生。こき使いやがって。いったい何様のつもりだ。
十無は体力の限界が来ていた。氷室にいい顔はしていられない。
「何か動きはありましたか」
十無の言動に氷室は動じる様子もなく、事務的に状況を訊いてきた。
「今朝、八時過ぎに、同居している矢萩柚子が泣いてマンションを出てきたところ、東昇が出くわしてタクシーで連れて行った。アリアに動きはない」
十無ははき捨てるように報告した。
「そうですか、ご苦労様。では、一日私が代わります」
銀縁眼鏡の奥で氷室は薄く笑った。
警部が張り込みまで交代するというのか。そこまでして何が得られるというのだ。十無は引っかかった。
「どうかしましたか。早く自宅へ帰って十分休息をとってください」
運転席から動こうとしない十無を、氷室がいぶかしげに見ている。
「氷室、何を考えている?」
上司だとか、弱みを握られているなどということはすっかり十無の頭から飛んでいた。疲労がピークになりその辺の判断がなくなっていた。
「勿論、Dの捕獲です。ほかに何があると言うのです」
十無のぶっきらぼうな投げかけに氷室は冷静に答えた。だが、十無は引き下がらなかった。
「俺にはそう見えない。あんたの目的はほかにある」
「どう思おうと勝手ですが、捜査をかき回さないように」
「目的はアリアだろう?」
「あんなチンピラを捕まえたとして何の得がありますか」
氷室は鼻で笑った。
「違う、アリアの何かを探っているんじゃないか。これは、あんた個人で動いていると言ったな。アリアだけマークしても、成果が上がるとは思えない」
「そんなことはありません」
「昇を尾行していた奴らをここへ回したらどうだ」
「……あれは、刑事ではない。興信所の人間だ」
少し間をおいて氷室はそう答えた。
十無ははったりをかけたのだった。つけられていると昇から聞いていたが、氷室の指示だという確証はなかった。しかし、刑事ではなく興信所まで使っていたとは。
「余計な詮索はしなくていい。東さんの刑事生命に関わりますよ」
いいように使われて頭にきていた十無は、氷室の脅し文句にもひるまなかった。
「こんなことをしていたら、あんたも同罪じゃないか」
「私は警察に未練はないですから。でも東さんは違いますね。この仕事が好きでしょう?」
氷室は警察をやめる気でいるのか。十無は氷室の考えが益々わからなくなった。
「何を企んでいる? 何のためにアリアに会ったのだ」
「アリアの部屋は三〇一号室でしたね」
氷室は十無の質問を無視して、レースのカーテンが閉められている三階の角の部屋を見上げた。
「氷室! 答えろ」
「……東さん、言葉遣いに気をつけるように」
氷室は銀縁眼鏡越しに冷ややかな視線を十無に向けた。
「……」
言葉が過ぎた。氷室の言うように十無はこの仕事が好きだった。やめるようなことにはなりたくない。十無は感情を抑えて口をつぐんだ。
「まだ帰らないのであれば、一緒に来てください」
氷室は車を降りて、マンションのエントランスに足を向けた。何かを企んでいる氷室を一人にして帰るわけにはいかない。十無は後についていった。
エレベーターの前に立った氷室は、眼鏡越しにちらりと十無を見て口の端をあげた。
「まさか」
氷室は驚いている十無を見てにやりとし、エレベーターに乗り込んだ。十無も閉まりそうになったドアを手で押して慌てて乗った。
氷室は視線を扉に向けてニヤニヤしながら腕組をしている。
氷室がどこへ行こうとしているのか明白だった。しかし、まさかそんな馬鹿な真似はしないだろうという思いも十無にはあった。
十無が氷室を制止しようか迷っているうちに、アリアの部屋の前まで来てしまった。




