12・亀裂
翌朝、アリアは少し寝坊した。柚子が珍しく起こしに来なかったのだ。
喧嘩した翌日なのだから仕方がないのかもしれない。アリアは小さくため息をつきながらもそもそとベッドから起きだした。
柚子に起こされない朝。昇も仕事に行っただろうし、小うるさい柚子も登校した後なのだから、思いっきり寝坊して昼近くまでごろごろ寝ていても良いようなものだが、アリアはそんな気分にはなれなかった。
アリアには喧嘩の原因が今ひとつわからなかったが、柚子の機嫌を損ねたのは事実なのだ。柚子が帰ってきたら謝ろう。そう思ったら、少しだけ気持ちが軽くなった。
腹ごしらえのために、パジャマのままキッチンへ行こうとしたアリアは、途中にある柚子の部屋に人の気配を感じたのだった。
緊張が走る。ぼんやりしていた頭はすぐに切り替わって、アリアは全神経を尖らせた。
誰がいるのか。
扉横の壁に背中を吸い付けるように立ち、柚子の部屋の物音に耳をそばだてた。
パソコンを操作するカチカチという音が聞こえる。
泥棒ではないようだ。だとしたら……。
アリアはやれやれと肩で息をついてから、音もなく扉を開けてするりと体を部屋に滑り込ませると、ノートパソコンに向かって熱心に画面を覗き込んでいる柚子の背後に気配もなく立った。
パソコン画面に目を走らせてその文面を読んだアリアは、思わず「まさか」と声を漏らしてしまった。
「きゃん!」
アリアの声に驚いた柚子は、変な驚きの声を出して椅子から飛び上がった。
「もう、びっくりさせないで!」
慌ててノートパソコンの画面を閉じようとする柚子の手首をつかみ上げたアリアは、厳しい顔をして画面を睨んだ。
「これ、昇の調査結果だね」
「痛い! アリア、手を離して」
アリアは画面がら目を離さずに、柚子の手を離した。
「これはなに?」
「……私に見せるのにわざと置いていったみたい」
柚子は観念してノートパソコンに接続されているUSBメモリを指差して言った。
「ねえ、アリア……捕まったりしないよね」
柚子が不安そうにアリアの顔を窺っている。
柚子に大丈夫だよと声をかけて安心させてやろうという余裕は、アリアに全くなかった。
パソコン画面の文面は、池袋駅で会った男の正体について記されていたのだった。驚きと動揺。アリアはその画面を凝視した。
『柚子へ。アリアは警視庁の刑事にマークされている。アリアが会った男は警視庁捜査三課の警部、氷室慎司だ』
その文面の下に隠し撮りされたと思われる氷室慎司の顔写真が貼られていた。アリアが池袋駅で会ったときよりも穏やかな表情に写っていたが、銀縁眼鏡の奥の鋭い瞳は紛れもなくあの男だった。
それは、恐ろしい事実を突きつけていた。
これが事実であれば、アリアは池袋駅ですりの現行犯として氷室警部に首根っこを捕まえられてしまったことになるのだ。
だが、氷室はなぜあのときすぐにアリアを逮捕しなかったのか。それに、アリアが女性であるという情報をどこから入手したのか。
アリアがいくら考えても答えは出なかった。
「アリアが探していたのは本当にこの氷室警部なの? まさか、捕まるなんてことないよね」
柚子は泣きそうな顔をしてアリアを見つめていた。
「柚子、学校をサボったらだめでしょう。行きなさい」
アリアは動揺を見せないように柚子に穏やかに言ったつもりだった。
「学校なんかこんなときに行っていられない! アリアが心配だもん」
「行きなさい」
「だって――」
「柚子がいてもどうにもならない。今の柚子は学校が一番大事なんだから、余計なことに首を突っ込まなくていい」
そう言ってから、アリアはすぐに後悔した。
アリアを見つめる柚子の目は、今にもあふれそうなくらい涙がたまっていたのだ。
「アリアなんか、捕まっちゃえばいいんだ!」
柚子は大粒の涙をはらはらと落としながら、捨て台詞を吐いて部屋を飛び出していった。
アリアは慌てて柚子を追いかけた。
「柚子、どこへ行くの!」
「知らない!」
柚子はアリアの方を振り向きもせずに鉄製の玄関扉を力任せに勢いよく閉めて、そのままマンションを出て行ってしまった。
やってしまった。
柚子に謝ろうと思っていたのに、アリアは機会を逃してしまったのだった。それどころか余計に怒らせてしまった。
そんなつもりで言ったわけではないのに。柚子に心配かけさせたくなかっただけなのに。
「どうしてうまく言えないんだろう」
アリアは自分が嫌になった。
警察の人間にアリアの存在が知られている今、アリアはかなり危険な状態ということになる。離れていたほうが柚子を巻き込まないで済むかもしれない。
アリアはそう思うことで自分を慰めた。
今は落ち込んでいる場合ではないのだ。氷室警部がアリアに近づいてきた目的を探って危険を回避する手立てを考えなければならない。
池袋駅であの男はアリアを警察には突き出さないと言っていた。他に何か目的があるに違いない。もしかして、Dを捕まえるために泳がされているのだろうか。
新聞ではDの情報は得られない。いまのところ情報源は昇に頼るしかないのだ。
アリアはノートパソコンの画面を見直した。
画面をマウスでスクロールすると、昇の報告書は氷室の顔写真の下に続きがあった。
『氷室慎司はキャリアだ。抱えている事件は渋谷で起きた水広宝珠宅の窃盗事件で、Dがマークされている。十無が氷室に呼ばれてその捜査に関わっているが、氷室の行動がおかしい。詳しく柚子に話したいからアリアには内緒で連絡がほしい』
「やっぱり十無はDの件でここを張り込んでいるのか。でも、私に内緒って」
昇は何を考えているのだろう。
昇があの男の情報をアリアにではなく柚子に先に知らせたのはなぜだろうか。
柚子は多分、これを読んで昇のところへ行ったに違いない。
「昇に電話しておこう」
アリアは昇の携帯電話に連絡した。
『アリアか。おまえ、柚子に何を言った?』
昇は呼び出し音が鳴ったか鳴らないうちにでて、アリアを非難した。
「もう柚子がそこにいるの?」
『ああ。ちょうどマンションの入り口にいて柚子に出くわした。今おまえに電話をかけようとしたところだ。今、タクシーに乗った。俺のアパートに柚子を連れて行く途中だ。柚子はしばらくそこに帰りたくないと言っている』
アリアは居間へ移動して、窓からマンションの玄関を見下ろした。タクシーが一台停まっているのが小さく見えた。
「そう……じゃあ頼む」
『おまえ、冷たいな』
やや間があってから昇が呟いた。
今は何が起こるかわからない状況なのだ。柚子と一緒にいないほうがいい。それが柚子のためなのだ。
アリアは内心そう繰り返して自分を納得させた。
「あの報告書を読んだ。どうして私に隠す必要があるの。柚子を巻き込まないで」
「それが喧嘩の原因か」
昇はやれやれというように小さく息をついてから、「おまえが、あの池袋駅で氷室慎司と何があったのか話してくれたら俺も話す」
と、条件を出してきた。
あんな屈辱的な出来事は言いたくなかった。アリアは口をつぐんでしまった。
「黙っているなら俺も言わない」
ヒロからの連絡がない今、頼れるのは昇しかいない。アリアは渋々昇に話した。
「……あの男に、すりを見破られた」
「なんだって! おまえ、氷室から逃げ切ってきたのか」
「ちがう、あの男が私を見逃した。捕まえないと言っていた」
「なにい?」
「私がDとつながりがあると思っているらしい。あの男は私を泳がせて、Dを捕まえるつもりかもしれない」
昇が携帯電話の向こう側で息を呑んだ。
「兄貴が、おまえのこと張り込んでいるのはもう知っているな?」
「うん」
窓の桟に寄りかかってアリアは外を窺った。五階の部屋からマンションの低い塀沿いにあるヒバの植え込みの影に乗用車が一台停まっているのがかろうじて見えた。十無が張り込んでいるに違いない。
「捜査本部に兄貴は加わっていない。氷室慎司は私的におまえを張り込ませているらしい」
「え?」
「俺の考えだが、氷室は兄貴にはDの捜査だといっているが、本当の狙いはアリア、おまえだと思う」
あんたを手に入れに来た。
あの男が言っていた台詞をアリアは思い出した。
その言葉が意味するものは何か。
「実は柚子に心当たりがないかこっそり訊こうと思っていたが、池袋駅でほかに何かあったんじゃないのか」
「なにもない」
アリアは即答した。
「本当に?」
「どっちにしても私の周りにいると危険なことは確かだ。もし、私に何かあったときは、柚子を頼む」
「おい、気弱なこと言うな」
「いや、万が一ってことだから」
アリアは無理に明るい声を出した。
「もしかして柚子をわざと突き放したのか」
「べつに。柚子が最近変で、なんにでも突っかかってくる。だから少し距離を置いたほうがいいかなと思って」
事実、アリアはそのことも気になっていた。
「……」
昇は納得したのか、それ以上は何も言わなかった。