11寂しい気持ち(2)
読んでもいない新聞に目を泳がせながら、アリアは少し冷静になり、冷たいひとことを柚子にぶつけたことを後悔した。
「都合が悪くなったら怒鳴るの」
柚子はアリアの側に立ってぽつりと言った。非難するというより、悲しそうな声だった。
アリアはどきりとして思わず柚子を見上げた。
柚子は硬い表情で立ち尽くしていた。昇は居心地が悪そうに紅茶をすすりながら、視線はアリアと柚子の顔を行ったりきたりしていた。
言い過ぎた、謝ろう。アリアがそう思ったとき、柚子の手がさっとアリアの鼻先をかすめて、アリアの手元から新聞を取り上げた。
「アリア、ヒロなんか放っておいて、私と組んでよ」
まったく予想もしてなかったことを言われたアリアは、口を半開きにしたまま言葉が出なかった。
昇も目を丸くして、かじりかけのトーストを手にして固まっている。
柚子の真剣な瞳にアリアは即答できなかった。
だが、答えは決まっていた。アリアは一呼吸置いてから椅子に座りなおして柚子と向き合った。
「未成年者とは組めない」
「今更、そういうこと言うの? 自分だって、ずっと前からヒロとやってきたじゃないの」
「だから、そんな風になってほしくないから――」
「都合のいいときだけ保護者ヅラしないでよね」
「そんなつもりで言っているんじゃない」
「なによ、私だけ除け者なの」
「違う」
「だってそうじゃない。私に何でも話してよ。一緒に住んでいるのに、これじゃ他人と一緒よ!」
「柚子!」
柚子はばたばたとスリッパの音を立ててキッチンを出て行った。柚子の部屋のドアが勢いよく閉まる音が響いた。
いつになく柚子の口調は攻撃的で、アリアの言葉は空回りするだけだった。あからさまに喧嘩腰の柚子の態度に、昇も圧倒されて呆然としている。
朝の穏やかな日差しが差し込むキッチンに似つかわしくない一方的な喧嘩のあと、取り残されたアリアはため息をついた。
「何を考えているのか……近頃急に怒り出すことが多くて」
取り繕うように昇に話し掛けても、昇は腕組をして難しい顔をアリアの方に向けているだけだった。
「柚子の気に触るようなことしたかな」
アリアは紅茶を口に運んでまたため息をついた。昇の視線はアリアを攻めているようだった。
「なあ、お前って鈍いな」
「何が」
「本当にわからないのか」
昇は呆れたように大袈裟に頭を横に振り、アリアのほうに上半身を乗り出して小声で言った。
「柚子は毎日ヒロのことばかり考えているお前を見ているんだぞ。苛々しないほうがおかしいぜ」
「別にヒロのことなんか心配してない……」
「そうじゃなくて、あーまどろっこしいな。お前にとってヒロは何だ? そろそろはっきりさせろ」
「はっきりって……」
「好きなのかってことだ」
「それは……」
ヒロへの気持ちは未だにどう言い表していいのかわからない。アリアは言葉に詰まった。
「だ、か、ら、お前のその態度が周りをかき回しているんだぞ」
吐き捨てるような言い方だった。昇までもが何故か苛々している。
「いいか? ヒロから離れるかずっと一緒にいるか、決めろ」
「昇には関係ない」
「関係ある! 前に俺はおまえのことが好きだって言っただろう? このままだと、俺の気持ちは宙ぶらりんになる。それは嫌だ」
「でも……」
「いいな、わかったか」
アリアはテーブルの空になった皿に視線を落として押し黙った。
いつかはヒロから離れることを覚悟しなければならない。今、その時が来たのかもしれない。ヒロの気持ちに応えてこなかったのだから、いつまでもヒロを独占していられない。ヒロはDといるのだからいつまでも甘えられない。
でもアリアはどうしても気持ちを割り切れなかった。
ヒロは逆らえない絶対者であると同時に、あらゆるものから守ってくれる存在だった。安心を約束してくれる、居心地のいい関係なのだ。ヒロから離れるということは、その居心地のよさを手放すことになる。それは母と生活していた頃の孤独な状態に戻ってしまうのではという恐怖につながってしまう。
アリアは自分で自覚していなかったが、ヒロの気持ちを利用して、ヒロがアリアから離れていかないようにしているところがあった。ヒロとアリアは共依存の関係なのだ。
「俺がもう一度告白したのに何のリアクションもないのな、お前。ちょっと悲しいぞ」
「ごめん、いろいろ考えていたから……」
アリアはヒロのことを考えるだけで精一杯だったのだ。
「俺のことも考えてくれないか」
アリアは自分は男だからと言おうとしたのだが、おもむろに立ち上がってアリアの背後に回った昇に、抱きすくめられた。
「前にも言ったけど、俺は男でもかまわないぜ?」
先回りされた。アリアの耳元でささやいた昇の吐息がアリアの耳元にかかる。
「ちょっと、昇離れて」
「嫌だ」
昇はわざと吐息を首筋にかかるように話しているようだった。十無は絶対にこんなことはしないとわかっていても、耳元で囁く声が十無と錯覚させる。
アリアは昇の腕に両手をかけてみたものの、鍛えている昇の腕力に歯が立つはずもなかった。
体中が熱をもち、鼓動が早くなるのをアリアは自覚した。そんな反応を昇に感ずかれたくなかった。
「私は……困る」
アリアは震える声で搾り出すように言った。
「自分の気持ちから逃げるな。こんな状態はいつまでも続けてはだめだ。苦しいだけだ」
昇の片手がアリアの頬に添えられた。暖かい手。
「どうにも、ならない」
寄りかかりたくなるような力強い腕。ヒロがいない今、アリアは寂しさで昇の腕に頼りたいような衝動にかられた。
「どうにかしろ。柚子だって苦しんで……いや、まずはお前の気持ちを整理しろ」
「柚子?」
柚子がどうしたというのだろう。意外な言葉を聞いて、アリアは少し冷静になった。
昇はアリアからゆっくりと離れてアリアの傍らに立った。
「いいか、朝起きたとき、横にいてほしいと思う奴が誰なのか、よーく考えろ! それがヒロではないのなら、ヒロとは縁を切れ」
「柚子がどうかした?」
「いいから、まずは考えろ!」
昇はそう言って腰を屈めたかと思うと、どさくさ紛れにアリアの頬にキスをした。
「アドバイス代だ」
「昇!」
突然のことに、アリアはサングラスの下に隠された顔を高潮させた。
昇はウインクをしてからくるりとアリアに背を向け、キッチンを出て行った。
柚子のことはうまくはぐらかされてしまった。それは、アリアに嫌な引っ掛かりを残したのだった。




