1・罠
深夜午前二時。満月が柔らかな光を落とし、十五夜のお月見にはもってこいの夜。
閑静な住宅街の、主が寝静まったとある屋敷内で、暗闇に紛れて働く二人がいた。
「ヒロ、ちょっと拍子抜けだったわね」
「ああ、こんなに易々とことが運ぶとは。怪盗Dとしては物足りなかったか」
Dの耳元で囁いたヒロも、まだ屋敷の廊下にいるにもかかわらず、緊張感がなくなっていた。
「あら、そんなことないわ。簡単なほうがいいに決まってる」
言葉とは裏腹に、Dは戦利品のネックレスを指先でぐるぐると回しながら歩き、手持ちぶさたにしていた。
大粒ダイヤのトップがついたそれは、その重さでよく回った。屋敷に侵入して目当てのこのネックレスを手に入れるまでに三十分とかからなかったのだ。
先日、Dはコンサート会場でこのネックレスを身につけている老女を目にしたのだった。その瞬間、そのダイヤの輝きに魅了されてしまった。加工するイメージが次々と頭に浮ぶ。そういった宝飾品には滅多にお目にかかれない。Dはどうしても自分で手を加えてみたくなった。
「アレが欲しいわ」
傍らにいたヒロに囁いた。
早速それは実行に移された。仕事としては単純作業だった。まずは二人でそのまま老女の後を付けて自宅を確認した。高級住宅街の一角にある古い屋敷だと容易にわかり、金持ちなら多少貰ってもかまわないか、などと自分勝手な解釈をし、良心の呵責を沈めた。
Dは基本的には黒い金やその宝飾品しか狙わない。そうすることで別の意味で身の危険を伴うが、警察に追われる心配が少なくなるのだ。だが今回は違う。ただ、あのダイヤに魅せられたのだ。
あとはこの屋敷の住人を把握して生活サイクルを熟知する。住人はクラッシックコンサートに来ていた老女と、付き添っていた老紳士の二人だけだった。
水広宝珠七十歳。宝の玉とは、両親がよほど大切に思って名づけたのか。他に通いの家政婦が三人、毎日朝七時から夜八時までやってくるだけだった。
コンサートに付き添っていた老紳士は、夫と思いきや、執事だった。だが実際には家の修繕から庭の手入れなどの力仕事、その他諸々の雑用仕事のほうが多いようだった。
水広宝珠は二十代で離婚し、夫が子供を連れて出て行っていた。その後事業に成功して財を成したらしい。
近所の人の話では、水広宝珠はここ数年で視力が低下し、明かりがわかる程度になってしまったとのことだ。そのため、滅多に外出することがなくなり、月に数回、気に入ったコンサートへ執事に付き添われて出かけるのがせいぜいとのことだった。訪ねてくる知人もいない。どうやら仕事以外の付き合いはないらしい。就寝は二十三時。執事もその一時間後には床に就く。それらの情報から、深夜が決行に適しているとDは判断した。
セキュリティはヒロが下調べしたのだが、報告を聞いてDは驚いた。警備会社と契約していないのだ。塀は高く、一見、入り辛そうに見えるが、入ってしまえば外界の視線は届かないためやり易い。おまけに木々が茂っている。こんな穴場があっていいのかと思うほど、泥棒に来てくださいといわんばかりの無防備な屋敷だった。
ここまで調べ上げるのに一日で充分だった。
調べ上げた内容からは、年老いた孤独な老女の姿が浮かび上がった。Dは思わず自分の行く末に重ね合わせてしまった。
もしかしたら自分もこんな孤独な余生を送るのだろうか。
そんなことを想像してしまったDは、背筋に冷たいものが抜けていった気がした。
先のことを考えていても仕方がない。Dは気を持ち直して『仕事』に専念しようと頭を切り替えた。
「こんな大きなお屋敷に二人っきりなんて、もったいないわねえ」
Dは絨毯張りの長い廊下をぶらぶら歩きながら呟いた。
「おい、さっさと出よう」
暢気に屋敷内を観察しているDに、ヒロが痺れを切らせて声をかけた。
「少しくらい、いいじゃないの」
普段『仕事』のとき、Dはこんな無駄口は叩かないし、『仕事』が済めば、速やかに退散していた。
だが、今回、Dは気が緩んでいた。簡単すぎて拍子抜けしてしまったということもあるが、ヒロがいることで安心しきっていた面もあった。深夜に二人きりでちょっとお散歩がてら……の感覚しかなかったのだ。
それが、まさかこんな事態になろうとは、Dには全くの予想外だった。
「おや、珍客だね」
不意に背後から女の声がして、Dは息を呑んだ。緊張が走り、Dとヒロはほぼ同時に振り向いた。薄暗がりの廊下の四、五メートル先に、薬で眠らせておいたはずの老女が立っていた。不覚にも気配を読めなかったのだ。ヒロも悔しそうに舌打ちした。
何故、起きているのか。念のため執事と供に薬で眠らせておいたはずなのに。いや、そんなことより今をどう切り抜けるかが先決だ。後を追われたとしても、年寄りの足だ、逃げるほうが早い。下手に人質にするとあとが厄介なことになる。
Dは混乱しながらも咄嗟にそう判断した。
ヒロもDと同じに判断したのだろう。老女を確認するや否や、ヒロはDに目配せして窓から逃走しようと桟に足をかけた。
とその時、「動くな!」と、女主人の背後から男の低い声がして、黒光りする金属の先端、銃口が見えた。
「その場に立って、ゆっくりと両手を挙げなさい」
先ほどの男の渋い声が二人に命令した。廊下が暗くて声の主の顔は見えないが、銃口はヒロを正確に捕らえていた。月明かりで見えたそれは、猟銃ではなく短銃だった。暴力団とつながりがあるようには思えないが、年代もののようでモデルガンには見えない。本物だろうということはDにもわかった。
まさか飛び道具が登場するとは。
Dは体を動かせず、頭の芯が凍ったようになった。
ヒロは観念したように、桟にかけていた足をゆっくりと絨毯に戻して両手を挙げた。
こうなっては抵抗できない。Dもゆっくりと両手を挙げた。
銃口がヒロを狙いながら、その持ち主が老女の横まで歩み寄った。
窓からの月明かりで男の姿がはっきりと見えた。ガウンを羽織った白髪の老紳士、執事だった。
「年よりは眠りが浅くてねえ」
執事の横で老女、水広宝珠はとぼけたことを言っている。
度胸のいい狸ババアねと、Dは頭の中で悪態をついた。
水広宝珠をどうにかして取り押さえてやろうと画策していたDだったが、ヒロが動くなと目で合図してきたので思いとどまった。
「爺さん、ここは日本だぜ。そんなものぶっ放したら、正当防衛にはならない」
「なんだって? 最近耳も遠くなってね」
執事に代わって、女主人がまたとぼけたことを言った。主人に忠実な執事は静かに次の指示を待っている。主人が撃てと言えば撃ちかねない気負いを感じさせた。執事には動揺は見られない。その落ち着き払った態度から、銃の扱いに手慣れているとDは感じた。
同じ判断をしたのだろうか。腕力では絶対にヒロの方が勝っていると思えるのだが、ヒロは苦虫を噛み潰したような顔をしたまま動かなかった。
「宝珠様、いかがいたしましょうか」
「そうねえ。中野、見た目は悪くない?」
「そうですね。男は長身で細身ですが筋肉質。身も軽く俊敏でした。見目も良い。女の方も身のこなしから察するに、熟練しています。やや年を食っているかと思いますが、悪くないでしょう。今までの中では上々かと思います」
執事と女主人のひそひそ話がDにも聞こえた。
年を取っていて悪かったわね。なに人のこと値踏みしてるのよ。Dは額をぴくりとさせた。それにしても、最初から観察していたような口振り。おまけに今までにもこんなことをしていたような素振り。
いったい何を企んでいるのだろうか。Dにはさっぱり見当がつかなかった。
「さて、取引をしようじゃないの」
水広宝珠は意外な言葉を発した。
Dは耳を疑い、思わずヒロと顔を見合わせた。
「あんた達は耳が悪いのかねえ。もう一度言うよ。取引をしようと言っているの」
「残念ですが、あなた達には取引に応じるしか道はないのです。さもなくば、警察に突き出されることになります。決して悪い話ではありません。どちらかといえば良い話です」
両手を挙げて立ったまま呆然としているヒロとDに、執事は決断を迫った。
「事情はよくわからないけれど、私達はうまくはめられたのね」
「そういうことになるのかしらねえ」
ほほほと、水広宝珠は目を細めて笑った。
「腕がだるいわ。もうおろしていいかしら?」
「どうぞ」
女主人はあっさりと応諾した。その余裕はどこから来るのだろう。理由はすぐにわかった。ヒロが目で天井のほうを見るように合図してきたのだ。そこにはさっきまではなかった防犯カメラが、しっかりと二人を捕らえていた。
古めかしい建物に、不釣合いな最先端の防犯カメラが突き出ている。それは天井に隠されていたようだった。あちこちに同じようなものがあり、初めから逐一観察されていたに違いない。本来、防犯カメラは防犯のためにあるものだ。玄関などの外回りに設置して威嚇する。または万が一、泥棒に入られたとき、犯人の映像を撮って犯人の手がかりになるように設置するのが普通だろう。泥棒に入り込まれるところをじっと黙って見ていたとは悪趣味極まりない。
今回、危険がないと判断していた二人は、覆面をしていなかった。顔もしっかり撮られているのだろう。悪あがきはできないとDは悟った。ここは話を聞くしかない。Dはそう決断してヒロのほうを向き、「仕方ないわね」と言って諦めたように苦笑した。
「賢明な判断です」
執事はにこりともせず、銃を懐へ収めた。そして、こちらへどうぞと言い、女主人の手を引いて二人の先を歩いた。
「すまない。調べが甘かった」
ヒロが歩きながらDの耳元で囁いた。
「いいのよ。あなたのせいじゃないわ」
勤めて明るく返した。
そう、これはヒロのせいじゃない。気の緩みを作った自分の失態だ。防犯カメラの記録をなんとしてでも処分しなければならない。まずは素直に従って探りを入れなければ。
「さ、こちらのお部屋へどうぞ」
通された部屋は客間のようだった。和洋折衷の大正モダンを思わせる造り。
どっしりとした別珍のソファが中央にワンセットあり、高い天井からはランプ風のシャンデリアが降りている。煌々と明るい電灯の下にいる泥棒ほど間抜けなものはない。泥棒を気遣ってなのか、その明かりはつけないでいてくれた。その代わり部屋の隅にあるスタンドライトが灯され、十五帖ほどの部屋はほの暗かった。
執事は水広宝珠の座る椅子の背後に控えるようにして立った。どこまでも従順な執事。それはまるで一昔前の映画のワンシーンのように様になっていた。
Dとヒロは女主人と向かい合うように座った。
テーブルの上には、既にお茶のセットが用意されていた。こうなることを予測して事前に置いてあったようだ。
明かり程度しか見えないはずなのに、水広宝珠は器用にお茶を淹れた。
「真夜中のティータイムね」
水広宝珠はなぜか楽しそうだった。
午前三時を過ぎている。物好きな老人と、盗みに入った泥棒が向かい合ってお茶をしている図。
なんともおかしな絵だ。Dは意外な展開に気分がハイになり、声を上げて笑いたくなったのをなんとか我慢した。
「吟味した結果、あなた方が今までで一番適任だと確信しました」
紅茶を勧めながら、水広宝珠はにっこりと微笑んだ。
今までで……ということは、この女主人はやはり今までにも同じことを繰り返していたのだ。
高価な宝飾品を見につけてコンサートに出かけていたのも、それを狙う泥棒を意識してのことだったのではないか。
撒かれた餌に引っかかったのだ。
ヒロとDは顔を見合わせて曖昧な笑みを浮かべた。
何をさせられるのだろう。こんな突拍子もないことをする婆さんだ。とんでもないことを考えているに違いない。そう考えると、恐ろしくてDはもう笑うしかなかった。