弓聖
森を越える前の静かな朝。
旅の一行の中で、ただ一人、剣士ケルンは弓の修練に励んでいました。
しかし、その練習に現れたアンナが、彼の運命を変えることになります。
弓を手にした聖女――
それは、神の息吹そのもののような一射。
見守る者たちは誰もが言葉を失い、ただその光景に魅了される。
けれどその時から、トリーもクロノ司祭も気づいていました。
――あの瞬間、アンナの中にいたのは本当にアンナだったのか?
「神と人との境界」が静かに揺らぐ第六話。
聖女アンナの“覚醒”が始まります。
森を越える前の準備の朝。
ケルンは一人、宿舎の裏手で弓を練習していた。矢は的に届くものの、どこかぎこちない。額に汗を浮かべ、弓を握りしめている。
「うーん……やっぱり、何か違うんだよな」
独りごちながら、ため息をつく。そこへ宿舎の扉が開き、アンナとトリーが姿を見せた。
「練習しているのですね」とアンナ。
「トリーから言われた通りにやってるんだが……これ、いったい何の意味があるんだ?」
「続ければ、きっと形になります」
アンナは静かに答える。
「そうなのか? こんな練習、聞いたことがないし、正直続かない……でも、やるしかないんだよな」
ぼやきながら、ケルンは矢をつがえ、弦を引く。放たれた矢は、的の端に刺さった。
その様子を見て、アンナが小さくつぶやく。
「疑問があるようですね」
そう言うと、彼女はゆっくりとケルンの手から弓を受け取った。
「お嬢様、弓など扱えるのですか?」とトリーが驚く。
だがアンナは答えず、ただ静かに立ち上がった。
風が吹く。金の髪が揺れる。
その姿は、朝の光の中に立つ女神のようだった。
弓を構え、呼吸を整え、放つ――矢は一筋の光となって、的の中心を貫いた。
「……!」
ケルンは言葉を失う。
その動作には、よどみも力みもない。流れるようでいて、すべてが調和している。まるで彼女が弓そのものと一体になっているかのようだった。
アンナは弓を下ろし、静かに言葉を紡ぐ。
「弓を射るとは、あなた自身を射ることです。
続けなさい。いつか、あなたの弓は――あなた以外の、もっと大いなる力が射るようになるでしょう。
その時、あなたはこの国で最も優れた射手と呼ばれるはずです」
そう告げると、アンナは弓を返し、背を向けた。
残されたケルンは呆然と立ち尽くす。
やがて、何かに導かれるように、無言で再び弓を手に取った。
その姿は、もはや迷いのない射手だった。
アンナとトリーは静かに宿舎へ戻る。
歩きながら、トリーがぽつりと尋ねた。
「……お嬢様が弓を引かれるのは、初めて見ました」
「ええ」とアンナは微笑む。それだけで、後の言葉はなかった。
その微笑に、トリーは言い知れぬ震えを覚える。
(お嬢様はいったい何者なの……? あの一射、あの気配――人ではない)
背筋を冷たいものが走る。
それでも彼女は黙って、アンナの背を追った。
宿舎の扉を開けると、クロノ司祭が待っていた。
アンナは軽く会釈をして自室に下がる。
残されたトリーが司祭に向かい、口を開く。
「司祭様……いまのお嬢様、あれはアンナ様ではありません。
わたしには、もっと別の年長の方がそこに立っておられるように見えました。
弓を射ったことなど一度もないはずなのに……。あの一射には、言葉で説明できない何かがありました」
「お嬢さんは……アンナ様ではないのですか?」
「違います。……けれど、間違いなくアンナ様なのです」
トリーは混乱したまま言葉をつなぐ。
クロノ司祭はしばらく黙し、やがて深くうなずいた。
「わたしにもわかりません。
けれど、何かが始まっている――そのような気がします。
いまは見守るしかありませんね」
「はい。どんなお姿でも、アンナ様はアンナ様です。
わたしはお嬢様に、最後までついて行きます」
「……そうですか。それなら心強い」
司祭は穏やかに微笑み、窓の外を見た。
「明日は国境越えの難所です。早く休みましょう。夜明け前には出発です」
その言葉を最後に、二人は静かに席を立った。
――外ではまだ、ケルンの放つ矢の音が、夜気に響いていた。
お読みいただきありがとうございます。
本話では、アンナの中に潜む“もう一つの存在”が初めて明確な形をとって現れました。
彼女の放った矢は、ただの技ではなく――神の意志の顕現です。
トリーとクロノ司祭の「理解できないものを前にして、それでも信じる」という姿勢も、
この物語の核心に関わっていきます。
次回は、**国境を越える試練の地”**へ。
そこに待つのは、何か、旅の真の目的の兆し。
どうぞ続きもお楽しみに。




