トリー
前回の旅立ちの夜――
アンナは女神の光に包まれ、不思議な声を聞きました。
それは夢だったのか、それとも啓示だったのか。
そして始まった王都への旅。
焚き火の下で交わす小さな会話が、
やがて一人の少女の運命を変えていきます。
優しい侍女トリー。
いつも控えめで、誰よりも他人を思いやる彼女の中に、
アンナは“見えない光”を見つけました。
「人の心の奥にも、女神様はおられる」――
アンナがそう信じて差し出した手の先に、
思いがけない奇跡がはじまります。
今宵の物語は、
ひとりの少女が“聖女”として
静かに目覚める夜の章です。
護衛は六人。三人ずつ交代で夜の見張りに立ち、三時間ごとに持ち場を変える。
アンナたちは馬車の中で二人ずつの交代だ。二時間少しで交代することにしていた。
焚き火の明かりがかすかに馬車の中を照らし、
アンナと侍女のトリーはその番をしていた。外では護衛の男たちが火を囲み、夜風に背を向けている。
他の三人――サンディ、ベル、ノルはすでに眠っていた。
アンナがふいに小声で尋ねた。
「トリー、セイントのテストって受けたことある?」
「ええ、子どもの頃に簡単なのを。でも、何もありませんでしたよ」
「ふーん……そうなんだ」
そう言ってアンナはトリーの顔をじっと見つめた。
少し間をおいてから、彼女は小さく言った。
「トリー、ちょっと外に出てみて」
ドアを開け、ポンと馬車から降りる。トリーも慌ててあとを追った。
お嬢様が時々突拍子もない行動をとるのは、いつものことだった。
少し離れたところに切り株があった。
二人はそこに腰を下ろし、満天の星を見上げた。
「ところでトリー、あなたには“本当の名前”があります」
「……はい? 本当の名前?」
アンナは微笑んで言った。
「あなたはセイントです」
「お嬢様、何をおっしゃってるんですか。わたしなんて――」
トリーは困ったように笑うが、アンナの瞳は真剣だった。
沈黙が落ちた。
アンナはそっと彼女の手を取り、両手で包むように握った。
「女神様は誰の心にもおられます。いつも私たちの幸せを祈っておられるの」
「……はい?」
「お願いがあります。あなたの力を貸してください。あなたにしかできないことがあるの」
「わたしの……力?」
トリーは戸惑いながらも、
「お嬢様のためなら、なんでもします」と穏やかにうなずいた。
「では、今から言うことをしてみてください。それが第一歩になります」
アンナは小さくうなずき、夜の静寂の中で二人は何かを始めた。
どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
空気が冷えてきて、焚き火の煙が細く伸びている。
「もうそろそろ交代の時間ね。戻りましょう」
アンナが言い、二人は馬車へ戻った。
夜は静かに過ぎ、朝がやってきた。
朝日が差し込み、旅の二日目が始まった。
この日は馬車の配置を入れ替え、アンナとトリーは後方の荷馬車へ。
車輪が動き出すと、トリーが静かに口を開いた。
「昨夜のことですが……なぜ、私がセイントだと?」
アンナは笑みを浮かべた。
「ずっと見てきたからですよ」
「あなたが嘘をついたところを見たことがありません。
人を悪く言うのも、乱暴な言葉も使わない。
困っている人がいれば自分のものを分け与え、
虫さえも殺さずに外へ逃がしてあげた――
それが、聖女の姿ではありませんか?」
「そんな……当たり前のことですよ」とトリーは照れくさそうに言った。
「いいえ、それこそが根にある“光”です」
アンナの声は、いつになく強く、確かな響きを持っていた。
「昨夜お願いしたこと――続けていますか?」
「ええ、途切れ途切れですが……」
「それでいいんです。できるだけで十分。あなたならきっと、応えてくれます」
アンナはそう言って微笑んだ。
昼ごろ、一行は中規模の街に到着した。
教会へ向かうと、クロノ司祭と町のマーチ司祭が出迎えてくれた。
「遠路ようこそ。今夜はここでお休みください」
「では、そうさせていただきます」
二人が話していると、トリーが立ち上がって言った。
「それでは私は宿で――」
だが、アンナがすっと前に出た。
「お願いがあります」
アンナはトリーの手を取り、司祭たちの前へ。
「この方――トリーに、セイントの判定をお願いします」
マーチ司祭とクロノ司祭は顔を見合わせた。
「判定はすでに……」
「いいえ、この方は――」
アンナが神聖な言葉を口にした瞬間、司祭たちの表情が変わった。
試験が行われた。
トリーは指示通り、聖具を見つめて答えた。
「ハイ……見えます」
その反応は確かだった。
司祭たちはうなずき合い、静かに告げた。
「この方には、聖女の資質があります。見習いとして認めましょう」
黒いベールが授けられ、トリーはそれを受け取った。
アンナは満面の笑みで彼女の手を取った。
「トリーもセイントになったわ!」
サンディたちも拍手し、仲間として迎え入れた。
トリーは深く頭を下げ、静かに言った。
「見習いでも、皆さまのお世話はきちんと務めさせていただきます」
アンナは頷き、そっと呟いた。
「やっぱり、思った通りだった」
サンディが尋ねる。「どうして分かったの?」
アンナは笑って答えた。
「カンがね、ピンときたの」
笑い声が広がる。
夜は静かに更け、五人のセイントは小さな部屋で寄り添って眠った。
それは、長い旅の始まりにふさわしい、あたたかな夜だった。
お読みいただきありがとうございました。
第2話「トリー」は、“優しさそのものが聖性である”という
この物語の根幹を示すエピソードでした。
トリーは特別な力を持っていたわけではありません。
けれど、嘘をつかず、誰かを傷つけず、
ただ誠実に生きてきた――それだけで充分だったのです。
アンナが見た光は、奇跡ではなく「人の心の清さ」でした。
女神の声に導かれたアンナの眼差しが、
ひとりの侍女の中に“光輪”を見つけた瞬間、
この旅は単なる競技会への道ではなく、
魂の覚醒へと変わっていきます。
どうぞ、次話もお楽しみに。




