宿舎にて
――人の苦しみを見過ごせぬ少女たちがいた。
競技会という名の華やかな舞台の裏で、彼女たちは誰よりも深く祈り、誰よりも傷つき、そして――変わり始めていた。
第19話「宿舎にて」は、病院での一件の直後。
東地区の聖女たちが“人を救う”という本来の使命と、“競技”という制度の狭間でもがく夜を描きます。
ここから物語は大きく動き出します。
帰りの馬車の中で、アンナは話し始めます。
「女神様は、みんなの苦しみを少しでも和らげたい、助けたい」
その声は静かだった。
「その心はただ苦しむ人たちを救いたい――その一心しかなかったそうです」
「深い友愛の心と、いつくしみの心をもって……人々に楽を与えたいと」
「苦しみをともにし、痛みを取り除いてあげたいと」
「それを決意したときから、ただそのために進んで行かれたと書かれてありました」
(まったく……ほんとにそこまで考えてたのかなぁ、って感じだけどね)
アンナは苦笑する。
けれど、馬車の中では誰も口を開かなかった。
三人の聖女とトリーは、アンナが語る物語にただ静かに耳を傾けていた。
やがて車輪の音が止まり、馬車が宿舎の前で止まった。
「アンナ様、三聖女の皆さん……がんばってくださいね」
「ありがとう、トリー聖女」
「まだ見習いです。トリーと呼んでください」
「はいはい、ありがとう、トリー」
ノルが微笑むと、馬車の中に柔らかな空気が流れた。
「ほんとに、一緒にいてくれてよかったです」
「これなら、なんとか続けられそう」
ベルもサンディも頷いた。
(トリーの回復薬だけじゃない……三聖女も、内側から変わりはじめているのです)
トリーがまず先に立ち上がり、ドアを開ける。
トリーに支えられながら、アンナと三聖女も順に地上へ降り立つ。
宿舎の入口には、すでにクロノ司祭が待っていた。
「なにをやらかしたんですか、アンナ様」
クロノ司祭は小声で詰問する。
「ルーツから聞きました。他地区の聖女たちは視察を終えてすぐに戻られたのに、あなた方だけが重体の患者を――しかも四人で――」
「はい。私です」
アンナは素直に頭を下げた。
司祭は深くため息をつく。
「やはり……。ですが、その件がいま一番の話題です。病院でも、審査員の間でも、報告が飛び交っていて……」
(弓の聖女のときもそうでしたが、本当に無茶をなさる……)
「ただ、一部では“聖女の本分を思い出させる行為だ”と賞賛の声もあります。まあ、明日の競技に支障が出なければ良いのですが」
アンナは笑みを浮かべる。
「食事の後にでも、ゆっくり話しましょう」
「……ええ、まずは腹ごしらえですね」
司祭は観念したように頷いた。
食堂では、暖かなスープの香りが満ちていた。
聖女たちは席につき、静かに食事をとる。
――倒れるほど力を使った日が、ようやく終わる。
クロノ司祭はその夜、自室に戻ってから報告のための会合を開いた。
集まったのは、デント執事、護衛のケルン、連絡係のルーツ。
「皆さんも聞いていると思いますが、今日の件で東地区はかなり注目されています」
「ええ。病院で待機しておりましたが、倒れたと聞いたときは肝が冷えましたよ」
「まさか今日とは……やっぱりやらかしたのはアンナ様か」ケルンが頭をかく。
「他地区では“もう東地区は棄権だ”と噂が広まっているようです」ルーツが報告する。
「しかし、帰ってきた聖女様方は思ったより元気でした」クロノが言う。
「それは……“作ったもの”が効いたんじゃないか?」とケルンが口を挟んだ。
「作ったもの?」
「トリーですよ。王城についたらすぐ資材を集めろって言い出してな。ルーツが案内して、俺たちは一晩中走り回ったんです」
「それでバタバタしていたのですね」
「そう。で、出来たのが……白くてぐつぐつ煮える液体。時々かき混ぜろって言われて、まるで魔法薬ですよ。火の前に座るトリーとアンナ様――あれはもう、魔女の会談にしか見えなかった」
一同は思わず笑った。
デント執事が口を開く。
「これは逆に、面白いことになりそうですね。他地区はもう諦めたと思っている。明日彼女たちが現れたら、どれほど驚くでしょう」
「それに、その“薬”が秘密兵器になるかもしれません」
「なるほど、メラノ侯爵にもいい報告ができそうですな」
こうしてその夜の会合は終わった。
だが――彼らはまだ知らなかった。
聖女たちの内側で、何かが確かに“変わり始めている”ことを。
第19話は「アンナの旅」の転換点となる回です。
アンナの行動が、単なる慈悲や優しさではなく“変容”の始まりとして描かれています。
宿舎での静かな時間の裏で、物語の波は確実に高まっていく――。
次回、第20話では、噂が広がり始める王都、そしてアンナたちの再起の姿が描かれます。
どうぞお楽しみに。




