困惑
メラノ侯爵の晩餐会は無事に終わった。
豪奢な食卓の裏には、王国の思惑と教会の計略が静かに流れていた。
そしてその夜、聖女たちはそれぞれの部屋で一日を振り返る。
誰も知らぬ場所で、運命の糸が静かに結び直されようとしていた――。
「みなさん、立派でしたよ」
帰りの回廊でクロノ司祭が穏やかに声をかける。
その言葉に、聖女たちはほっと息をついた。
部屋に戻ると、ベルがベッドに倒れ込む。
「ふぅ……さすがに疲れましたね」
「でも楽しかったですわ!」
「うん、最後のお菓子は最高!」
「ほんと、あれだけで幸せになれそう」
三聖女は顔を見合わせて笑った。
緊張に凍りついていた時間がようやく溶け、少女たちは安らかな夢へと沈んでいった。
その頃、クロノ司祭は自室へ戻る前に、別棟の宿舎を訪ねていた。
明日の出発に備え、ケルンと打ち合わせをするためだ。
「みんなの具合はどうだい?」
宿舎の入口に腰掛けていたケルンが顔を上げた。
「良い宿だ。食事もうまいし、軽く一杯出た。みんなご機嫌だよ」
「負傷者は?」
「早めの処置が効いた。熱も出てない。――聖女様のご加護だな」
クロノは胸をなでおろし、二人は小声で椅子を引いた。
夜の静寂の中、会食の話が始まる。
「メラノ侯爵が、我々を後援すると言ってくれた」
「なんと……それはすごい」
ケルンの声が低くなる。
「侯爵は若いが、評判は上々だ。使用人たちの話では、頭が切れて人望もあるらしい」
「なるほどな。――それにしても、あの会食がただの挨拶で済むわけがない」
クロノが苦笑する。
「今回の競技会、どうやら一筋縄ではいかぬようだ。だが、面白くなってきた」
「苦労も倍増だろうがな」
二人の声が重なり、夜風に紛れた。
「結局、鍵を握るのはアンナ様か」
「ああ、彼女の存在が流れを変えていく」
「王城についたら、調べることが山ほどあるな」
「動けそうなのは――」
ふたりの口から同時に名が出た。
「ルーツ、だな」
「商人の鼻は確かだ。儲け話の匂いを嗅ぎつけるのは一級品だよ」
「すでに“自分を使ってくれ”と言い出してる。口の回転は剣より速い男だ」
クロノは小さく笑った。
「後援するというのは、つまり“勝て”という意味だ。中途半端な結果は許されん」
「教会筋は動かせるが、それ以外はつてが薄い。王城ではルーツに頼るしかないな」
夜は、そんな密談の響きを抱えて更けていった。
一方その頃。
見習い聖女のトリーは、アンナと同じ部屋に戻っていた。
嬉しそうに微笑むその顔には、誇りと喜びがあった。
――自分の仕える主人が、あの大広間で誰よりも輝いていたのだから。
就寝の支度を整えながら、アンナが口を開いた。
「最後に出たお菓子、美味しかったわね」
「本当に。見たこともないほど精巧でした」
「これからもっといろんな味を知るかしら」
「ええ……きっと」
(こういうところは、昔のお嬢様のまま……)とトリーは微笑む。
だが、次の言葉は真剣な響きを帯びていた。
「お嬢様、今日の会食はご立派でした。本当に……驚くことばかりです」
「お嬢様はまるで、別人のように見えました」
アンナは少し黙り、やがて微笑む。
「変わった……そうかもしれないわ」
その笑顔は、光の奥に翳りを含んでいた。
「私が、私でないみたいでしょ?」
「……ええ、正直に言うと、そう思います」
アンナはトリーの手を取る。
そしてその胸に顔を埋めた。
「トリー……わたしにも分からないのです」
「言葉が、わたしの中から勝手に流れ出すの。身体が、導かれるように動くの」
「怖いのです。――このまま、もっと変わってしまいそうで」
その声は震えていた。
トリーはそっと抱きしめ返し、静かに囁く。
「大丈夫です。私はお嬢様の味方です」
「どんなに変わられても、私はお嬢様についていきます」
アンナの呼吸がゆるみ、やがて微笑が戻る。
「ありがとう、トリー……本当に、あなたがいてくれてよかった」
「さあ、お休みになってください。明日は王城ですから」
二人は並んでベッドに入り、灯が消える。
トリーの温もりの中で、アンナは穏やかに眠りに落ちた。
――トリーは思う。
(お嬢様は変わられた。でも、眠る姿は昔のまま)
(忘れ物の多い、少し甘えん坊なお嬢様……)
だが、その優しい寝顔を見つめながら、トリーの胸に確信が生まれていた。
(この旅には、何か大きな運命が動いている。わたしたちは、その渦の中にいるのだ――)
そう思いながら、彼女も静かにまぶたを閉じた。
長い一日は、静かな夜の祈りとともに幕を下ろした。
アンナが抱いた“恐れ”は、女神に選ばれた者だけが知る孤独の痛み。
そしてトリーの“誓い”は、その光に寄り添う影のように、彼女を包み始めた。
次章――
聖女たちの旅は、ついに王都という渦の中心へと踏み入れる。




