メラノ侯爵
国境の森を抜け、聖女一行の旅は新たな局面を迎える。
その道中、彼女たちを待っていたのは「弓の聖女」の噂を聞きつけた貴族からの招待だった。
豪奢な屋敷、格式ある晩餐、そして聖女たちの胸に去来する不安と誇り。
旅は次第に、祈りと政治の交錯する舞台へと歩みを進めていく。
馬車の中で、クロノ司祭は護衛のケルンと並んで座り、届いた封書を手にしていた。
封蝋には金の獅子の紋章――この地区の領主、メラノ侯爵家の印。
「侯爵様からの招待状だ。『弓の聖女にぜひお会いしたい』とある」
「……弓の聖女、ってアンナのことですよね」ケルンは苦笑する。
噂はもう広まっているのか、と。
アンナは少し考えてから言った。
「正直、あまり気が進みません。貴族の方との会談は……」
「わたしも、ちょっと苦手です」ベルが肩をすくめた。
「うん……あんまり関わらない方がいい気もする」ノルは視線を落とす。
一方で、旅商人ルーツが明るく口をはさむ。
「メラノ侯爵は女性に人気ですよ。若い娘さんたちには特にね。礼儀正しいし、見た目も整っているんです」
「ふーん、そうなの? だったら、私は別にいいわよ」サンディが軽く笑った。
結局、一行は招待を受けることになった。
次の宿泊地は――メラノ侯爵邸。
侯爵邸は、領都の中央にそびえる白壁の大邸宅だった。
門をくぐると、整然と手入れされた庭園、噴水の音、香のような花の匂い。
旅の埃をまとった馬車が、その中を静かに進む。
「立派すぎて、落ち着かないですね……」トリーが小声でつぶやく。
「まあ、たまにはこういうのもいいでしょう」クロノ司祭は柔らかく微笑んだ。
玄関では、黒服の執事と女性の侍女たちが待っていた。
「お待ちしておりました。メラノ侯爵家執事のデントと申します。ようこそおいでくださいました」
その声は穏やかで、よく響いた。
一同は応接間へ通され、上等な茶器で紅茶が供された。
「旅の途中で恐縮ですが、当主メラノ様が、どうしても聖女様方にお会いしたいと申しておりまして」
「ありがたいお申し出です。私どもも光栄に思っております」クロノ司祭は丁寧に頭を下げた。
その後、それぞれの客室へ案内された。
白大理石の浴室に香油の湯、絹のシーツ。教会の宿舎とは比べものにならない豪奢さだった。
「すごい……これが貴族の生活なのね」ベルは目を丸くする。
「旅の疲れも取れそうです」ノルは頬をほころばせた。
トリーはアンナの同室として、衣装や身支度の手伝いに追われる。
やがてメイドが入浴の準備を告げた。
聖女たちは湯に身を沈め、ようやく緊張から解き放たれたように息をついた。
その少し前――侯爵邸に向かう馬車の中では、別の話題が持ち上がっていた。
「侯爵様の招待ってことは、やっぱり会食になるのよね?」ベルが不安げに言う。
「たぶんそうでしょう」アンナは頷く。
「マナーとか、全然わからないのよ……恥をかいたらどうしよう」
サンディとノルは顔を見合わせる。
「まあ、出されたものを静かに食べればいいのよ」
「でも、どのフォークを使うとか、そういうのもあるんですよね……」トリーが小声で補う。
そんな中、クロノ司祭が静かに口を開いた。
「昔、遠い国の使節団が、初めての晩餐会に招かれたそうです。
何も知らず、相手の動きを見ながら食事をした。
礼儀の違いはあっても、そこに真摯さと節度があった。
その国は“教育ある民”として尊敬を受けたそうですよ」
ベルは目を瞬かせた。
「……つまり、わからなくても、見て学べばいいってこと?」
「その通りです。焦らず、観察して、静かに微笑む。それで十分です」クロノ司祭は笑った。
アンナも言葉を添える。
「大切なのは形じゃなく、心の姿勢です。聖女として、それを忘れなければ恥じることはありません」
その言葉に、馬車の中に静かな安心が広がった。
かくして――侯爵邸での晩餐の幕が上がろうとしていた。
メラノ侯爵邸での夜は、きらびやかでありながら、どこか緊張をはらんだものとなります。
侯爵の狙いは単なる好奇心なのか、それとも……?
アンナたちの“旅の表舞台”が、いま静かに始まろうとしています。




