第九話 行き止まりの部屋
やがて、回廊の先に扉が見えた。脈が早鐘を打つのをはっきりと感じる。ここまでの道のりで嫌というほど思い知らされてきた。この場所は明らかに、人の命を奪うことを目的に作られている。
この先に待ち受けるのは、これまでよりいちばん恐ろしいものかもしれない。私が足踏みしていると、ロイがためらうことなく取っ手に手をかけた。
あっ、と声を上げる間もなく、扉は軋みを立てて押し開かれる。けれど開いた先に広がったのは、私が思い描いていたどんな部屋とも違っていた。
そこには、なにもなかった。
壁も、天井も、床さえも、すべてが一枚の岩から削り出されたようにどこまでも滑らかで、つなぎ目ひとつない。飾りも窓も、古びた石材の継ぎ目すらも見えない。
あまりの無機質さに逆に息が詰まる。世界から色も形も奪われたような空間に、ぽつりと放り込まれたみたいだった。
隣に立つロイは一言も発さず、ただ杖を握り締めたまま目を細めていた。その横顔は氷のように張りつめている。気配がなくても油断はできない、そう言わんばかりに。
私は喉をひとつ鳴らし、魔力を練って顕現呪文を唱えた。淡い光が波紋のように広がり、部屋の空気を震わせる。けれど——何も起こらなかった。ただ光が壁に吸い込まれて消えるだけ。
もう一度、今度は焦る気持ちを抑えて詠唱を重ねる。すると視界の端で一瞬、何かが反射した。鋭い光が刹那だけ私の網膜を焼いた。慌ててその方向を見やる。だけどそこには、ただ何もない滑らかな壁があるだけだ。
おかしい。確かに光った。錯覚ではない。胸の奥がざわつく。私はもう一度呪文を唱える。すると同じ場所でまた一瞬、鋭い光が走った。
——ある。何かが。けれど、それは顕現呪文では輪郭を掴ませてくれない。
ロイはすぐに杖を掲げ、低い声で呪跡解析呪文を唱えた。鋭い光の糸が走り、壁を縦横に照らす。しかし彼の眉間に寄る皺が示すとおり、結果は空振りだった。
「何も出ない」
低く言い捨てる声が空洞に吸い込まれるように広がる。
——違う。絶対に、何かがある。ここまで来て空っぽなはずがない。
必死に思考を巡らせながら、私は肩から提げたバッグを前に抱え込み、かき乱すように中を探った。これまでの部屋はすべて、魔法植物が鍵だった。この部屋ももしかしたら——。
中を探れば何か見つかるかもしれない。そう思って私は必死に手を突っ込む。薬草の乾いた匂いと、瓶や紙片が擦れる音。ひとつひとつ取り出しては床に並べる。
白露草の残り、粉末にした銀樹の樹皮、棘を持つ種子、乾いた根。手当たり次第に取り出していく。
息が荒くなる。けれど、どれもこれも違う。ロイの視線が私の散らかした薬草や瓶を冷静に追っていた。私は指先を震わせながら、なおもバッグの底を探り続けた。答えが眠っているとすればきっとこの中だ。
するとふと、新たな小瓶が指先に触れた。取り出してのぞいてみれば、さらさらとした粉末と、微かな草いきれ——見覚えがある。私は慌てて取り出し、震える手のひらに乗せる。
「……露光草の粉末……」
思わず口をついた。魔力に反応して光を放ち、その流れを可視化するという。呪跡解析呪文が作られてからというもの、使われなくなった植物。
「……これなら」
自分に言い聞かせるように呟き、私は壁に近づく。足音が空っぽの石室に吸い込まれていく。心臓がひどくうるさい。ひとつひとつの鼓動が耳の奥を叩く。
指先で粉末をつまみそっと壁に振りかけた。すると灰色の石がまるで息を吸うみたいに淡く光り始め、光の筋が走って絡み合い、文字のような線を形づくっていく。
胸が熱くなったのも束の間、目にした文字が私を凍らせた。古代語。読めるには読めるけれど、理解するのが難しい。
——汝ラ二人ノ影ノ内一ツ消ユル時、真ノ道ハ現レン。
私は口の中で繰り返した。
「……汝ら二人の影の内一つ消ゆる時、真の道は現れん……?」
影? 言葉遊び? なぞなぞ? それとももっと悪いこと? 喉が渇き、舌が口に貼りつく。
「影……?」
私が呟いたとき、背後で低い声がした。
「どっちかが死ねば出られるってことだろ」
その冷ややかな響きに思わず息を呑んだ。振り返ると、ロイは壁を見据えたまま眉ひとつ動かしていない。表情には何の揺らぎもなく、ただ現実を読み上げて淡々と口にしただけとでも言うようだった。
「そんな……そんなわけ、ないでしょ」
声が震えてしまった。反論したかったのに言葉は喉でほどけて、空気を噛むような音だけが漏れる。
「悪趣味だな」
ロイが吐き捨てるように言った。その声は怒りというより、冷たい諦めに近かった。
「……仕方ない。コイントスで決めよう」
「え?」
あまりに唐突で意味がわからなかった。私の目の前で、ロイが本当に銀貨を取り出す。鈍い光を放つコインが、彼の指先でひらりと回る。
「ちょっと待ってよ! 何言ってるの、ロイ!」
私は叫んだ。声が石室に反響し、幾重にも重なって耳を刺す。
「俺は死にたくないしな」
彼の声は冷たいほど落ち着いている。
「こういうのは話し合いで決められるものじゃない。どっちかが決めないとここで立ち往生だ。二人で餓死するよりましだろ」
「そんなの……そんなの冗談でもやめてよ」
「冗談じゃない」
彼は本当にコインを親指に乗せ、はじこうとしていた。指先に力がかかる瞬間が見えた。
「待って!」
私は彼の手首を掴んでいた。自分の指が白くなるほど力を込めて。
「他に方法があるはずだよ。まだ何も試してないじゃない!」
「試すって、何を」
ロイの視線が冷たく私を射抜く。その奥にためらいの色を見つけたいのに、何ひとつ読み取らせてもらえない。私の焦りも懇願も、すべて薄いガラスの向こうに跳ね返っていくみたいだった。
私は咄嗟に床に膝をついて視線を巡らせる。床の石はひやりとしていて、散らばった小瓶の底が小さく鳴った。光のない空間に、薄い草の匂いと薬液の香りが立ちこめる。
「……何か……何か使えるものがあるかも」
自分に言い聞かせるみたいに呟き、ひとつひとつ小瓶を並べていく。乾いた薬草の束、刻んだ根、灰色がかった鉱石の瓶、粉末になった葉……。
手のひらの上に置いて何度も確かめる。指先が震えて瓶がころころと転がる。
なんとしてでも解決法を見つけなくてはいけない。手元の薬草を見つめながら、記憶の引き出しをひっくり返す。講義で習った魔法薬、教授から聞いた逸話、古い書物の余白に書き込まれた注釈——何かがあるはず。何か、この場を打開できるものが。
小瓶の中で液体がゆらりと揺れた瞬間、ふと胸の奥で一筋の光が走った。
「……ジュリエットの水薬」
——緑青色の装丁、厚い紙、かつて魔法薬学の教授が淡々と指先で示した一行。仮死状態にする薬。死んだように見えるのではなくて、本当に心臓が止まる。だが三日後には目を覚ます——そう記されていたはず。
「もしかしたら、これで道が開けるかも」
唇が乾いている。震えながら言葉を絞り出すと、目の前のロイが眉を寄せた。
「ここで調合する気か」
「できるよ。材料は全部ある」
彼の言葉には、驚きよりも苛立ちに近い温度が混じっていた。私の口からは胸の奥の震えを押し隠すように、言葉だけが先に転がり出た。
ロイは視線を落とし、床に散らばった薬草の束や粉末をひとつずつ見やる。
「……揃ってない」
彼は指先で薬草の束をひっくり返し、瓶を光にかざしては置き直していく。その言葉に言い訳を挟む余地はなかった。私が集めてきたものは、教本の頁の上に並ぶ理想の材料とは違っている。
「でも、これは同じ成分を含んでる。反応しちゃいけない危険な組み合わせもない。時間と手順さえ守れば……きっと形にできる」
指先が薬草の茎をつまみ上げ香りが立ち上った瞬間、魔法薬学の講義で教授が言った言葉が脳裏に浮かぶ。薬は知識だけでなく、手の感覚で調合するものだ。
「副作用のことを考えろ。死ぬより酷いことになるかもしれない」
刃物のように鋭い声が突き刺さる。けれど、もう足を止めることはできなかった。私たちは閉ざされたこの場所にいて、道は目の前に現れていない。何もしなければ、ここでゆっくりと衰弱していくしかないのだ。
「私が飲むよ」
目を開けたとき、自分の声が震えているのがわかった。
「私が作って、私が飲むから……あなたは私を連れ出して」
ロイが顔を上げた。その瞳の奥に、一瞬だけ揺れる光があった。けれどすぐに、石のような無表情に戻る。
「馬鹿なこと言うな」
「馬鹿なことなんかじゃない!」
声が響き、石の壁に反射して何度も返ってくる。
「何もしないでここで死ぬ方が、ずっと馬鹿だよ……!」
指先は震え続けている。それでも私は薬草を選び、小瓶の栓を抜いた。草の匂いと苦い薬液の匂いが混じり合って鼻を刺す。視界の端で、ロイが黙ったまま私を見ているのがわかる。
「お願い、信じて。必ずなんとかするから……。あなたは私をここから連れ出して」
持ち運び用の調合道具をひとつひとつ広げる。小さな刃で薬草を刻む音がかすかに響く。粉末を匙で量り、小瓶の中で混ぜ、布きれで漉し、指先で温度を確かめる。
大学の薬学室で使っていたクリスタルのフラスコや精密な秤はここにはない。あるのは荷物に忍ばせてきた、簡素な器具だけだ。
それでもやるしかない。指先の震えを押さえながら、私は香りの変化や色の移ろいをたどる。瓶の中で薬草の緑がじわりと褐色に変わり、粉末が溶けて淡く光を放ち始める。
火加減を調整するとき、隣にいたロイが黙って杖をかざした。杖先からこぼれる淡い炎が瓶の下にゆらめく。炎の芯は揺れず、温度は一定に保たれていた。
材料が完全ではないぶん、工程は一歩も狂わせられない。彼が調整してくれる炎の温度が、いまは何よりもありがたかった。
そして最後の粉末をひとつまみ落とした瞬間、小瓶の中に微かな光が走った。まるで息をするように液体が一度淡く輝いてから落ち着き、深い青に沈んでいく。
私は長い息を吐いた。出来上がったそれは、教本に描かれていた挿絵と同じ色、同じ粘度に見える。見える——けれど、それが本当に同じものかどうかは、飲んでみなければわからない。
私は小瓶を持ち上げ、指先に伝わる冷たさを確かめる。私の怯えが伝わって、水薬の表面は震えている。視界の端でロイが口を開いた。
「……俺が飲む」
その声は大した抑揚もなく、ただ静かに空気を割った。理由は言わない。問いかけても、たぶん答えてはくれないだろうという確信があった。私は首を振って答える。
「だめ。魔法の腕は、あなたの方がずっと確かだもの」
喉の奥に言葉が引っかかって、思うように声にならない。けれど、ひとつひとつ押し出すようにして続けた。
「私はロイを連れて、ここから一人で出る自信なんてない。あなたの力が必要なの」
「エヴァリー——」
彼が何か言おうとしたのを、私は遮った。胸の奥にある怖さを押し殺し、両手で小瓶をしっかりと握る。
「ロイ、私はあなたを信じてるよ。だからお願い、あなたも私を信じて」
もうためらってはいけない、と自分に言い聞かせる。もしこの場で怖じ気づけば、どちらかの命は必ず失われる。それなら、たとえこれが毒に変わっていても、試すしかない。
視界の端でロイの腕が伸びてきた。けれどその指先が触れるより早く、私は瓶の栓を抜いた。青い草と薬品の混じった香りが鼻を刺す。息を吸い込んだ瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
私はそのまま、一気に小瓶の中身を飲み干した。液体が舌の奥で重く沈み、喉を通る瞬間、微かな熱を残した。
世界の色が少しずつ遠ざかっていくのを感じる。心臓の鼓動が静かに、そして不規則に跳ね、胸の奥の痛みが薄れていく。視界の端で、ロイの姿が霞んでいく。その輪郭だけが、最後まではっきりと私を見ていた。




