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第八話 植物の罠

 目を覚ましたとき、まず冷たさが皮膚に沁みた。石の床の硬い感触が背中に残っていて、頭の奥はまだふわふわと霞がかかったままだった。

 瞬きを繰り返して視界を確かめると、そこはどこまでも薄暗く、ひやりと湿った空気が淀んでいる。


「……どこ、ここ……」


 掠れた声が漏れた。身を起こそうとすると、隣でかすかな衣擦れの音がして、ロイも目を開けたようだった。

 薄闇の中で彼の瞳を捉え、その瞬間に途切れる前の記憶が一気に脳裏に蘇った。玄関先の石畳、足元に広がった花紋、光を呑み込んだ渦。そして、意識を引き裂かれるように闇へ落ちていった感覚。


「連れ去られたみたいだな」


 ロイの低い声が響き、冷えきった空間に妙にはっきりと残った。私は息を呑み、ぐるりと部屋を見回した。石造りの壁や床は古びて苔むしており、湿気のせいかどこも暗くじめじめとしている。

 よく目を凝らしてみると壁一面には蔓がびっしりと張り巡らされ、ところどころに花や蕾が鈍く光を放っていた。


 立ち上がった途端、それらの蔓の一部が生き物のように反応した。しゅるしゅると音を立て、まるで蛇のような速さで伸びてきたのだ。


「……っ!」


 思わず身をすくめるとロイがすぐさま杖を振り上げ、淡い光を纏った障壁を張った。透明な膜が弾けるように展開し、迫り来る蔓を弾き返す。

 けれど蔓は止まらず、障壁に絡みつき、打ちつけ、爪を立てるかのように暴れ回った。結界の表面がぎしぎしと軋み、ひび割れそうな気配が伝わってくる。長くは保たない。


 心臓が喉に詰まるように高鳴るのを必死で抑えながら、私は目の前の植物たちを観察した。動揺している場合じゃない。見極めなければ。


 伸びてきたのは——あれは絡縛の蔓。音に敏感で、かすかな衣擦れや呼吸音すら捕らえて、しつこく絡みつこうとする性質を持っている。動けば動くほど狙われる厄介な植物。


 壁に這うのは毒絡の蔓。教本に特徴として記されていた斑模様がそれを示していた。切れば毒液を飛び散らせ、触れただけで強い麻痺をもたらす。うっかり手を伸ばすことすら許されない。


 そして——咲いているのは焔裂花。花弁は硬質で、外見はただ鮮やかな花のように見えるけれど、衝撃を受ければ一瞬で弾けて閃光と煙を伴って爆ぜる。どれも危険な魔法植物。


「どうしよう……どうしたら……」


 呟いた声は情けなく震えていた。胸の奥で思考が渦を巻き、けれど出口を見つけられない。


「焼けばいいんじゃないのか」


 ロイが簡潔に告げる。杖を握る手はためらいなく、今にも炎を呼び出す構えだった。


「だめ!」


 反射的に叫んでしまった。声に反応して絡縛の蔓がまた一斉に伸び、障壁が大きく軋んだ。私は慌てて声を潜めながら続ける。


「焔裂花は炎に触れると大爆発するの。そんなの、部屋ごと吹き飛んじゃう」


 自分の声が細かく震えているのが分かった。恐怖と緊張で息が浅くなる。ロイは短く私を見やったが、何も言わずに杖を握り直した。

 障壁の表面に走る光はみるみる薄れ、蔓の圧力で歪みかけている。時間はあまり残されていない。何か手を打たなければ。


 頭の奥で必死になって考える。蔓の性質、花の危険性。観察眼を研ぎ澄ませ、わずかな突破口を探す。

 炎魔法は使えない。焔裂花が爆ぜればこの部屋ごと木っ端みじん。切り裂こうにも、毒絡の蔓を切った瞬間に飛び散る毒液をどう防ぐか……。


 けれど、その時ふと考えた。ロイの防衛魔術。あの障壁なら、飛び散る毒液さえも防げるのではないか。


「ロイ、蔓を切り裂く呪文を教えて。それと障壁をもっと強くできる?」


 振り返ると瞳が鋭く細められる。彼は明らかに訝しんでいた。私が何をしようとしているのか全く理解できないという表情。けれど彼はすぐに、無駄な言葉を挟まずに答えてくれた。


「切裂呪文はラセレイト。それだけでいい」


 続けざまに杖を掲げ、彼の周囲から再び光があふれ出す。張り直された障壁は先ほどより厚みを増してきらめき、蔓の圧力を押し返すように震えた。


 私は杖をしっかりと握りしめ、障壁に叩きつけられている蔓へと向ける。声が震えていたがどうにか呪文を吐き出した。


「ラセレイト!」


 瞬間、杖先から閃光が走り、蔓の一本がまるで糸のように断たれた。

 心の中で自分を叱咤しながら、次の蔓に杖を向ける。光の刃が次々と奔り、障壁に叩きつけられる蔓を切り裂いていく。

 それから壁に這う毒絡の蔓にも杖先を向けた。ぶしゅ、と嫌な音を立てて毒液が飛ぶが、障壁に弾かれる。

 そばの焔裂花がかすかに揺れるたび、心臓が凍りついた。決して衝撃を与えてはならない。花弁に一つでも触れたら爆ぜる。

 私は呼吸を抑え、杖の角度に細心の注意を払いながら、一撃ごとに集中を注ぎ込んだ。 


「ラセレイト……!」


 声がかすれる。それでも呪文を重ね、ひとつひとつ蔓を断ち切っていく。やがて最後の一本が裂け落ちたとき、部屋の中にしんとした静けさが訪れた。


 私はようやく肩で大きく息をした。体中が重く、喉がひどく渇いている。


 そのとき。


 壁の一角が淡く光り、苔むした石が音もなく動いた。そこに小さな木の扉が現れたのだ。まるで最初からそこにあったかのように、ひどく自然に。


「……進めってこと?」


 私は杖を握り直し、隣に立つロイの横顔をちらりと見た。彼の瞳には警戒の色が揺れている。けれど道はひとつしかないのだと、冷えた空気が告げていた。




 扉を開けて廊下へ足を踏み入れた途端、肺を刺すような冷気とともに青白い霧が押し寄せてきた。袖口を口元へ引き寄せ鼻と口を覆ったけれど、布の薄さなんて頼りにならない。呼吸をするたびに喉の奥に微かな痺れが走って、舌の先まで苦味が広がってくる。


 隣にいたロイが素早く杖を掲げると、空気を裂くように風の魔法を放った。霧が渦を巻いて押し戻され、一瞬だけ視界が晴れる。けれど安心する間もなく、押し返したはずの霧はすぐに流れ込み、再び廊下を覆っていく。


 壁に目を凝らすと、並べられた鉢の中に奇妙な魔法植物が根を張っていた。つぼみは硬く閉じているのに、その先端から青白い靄が細く絶え間なく吹き出している。

 廊下は果てしなく長く伸び、終わりがあるのかも分からなかった。もし扉が先にあったとしても、そこに辿り着く前にこの毒に蝕まれるのは明らかだった。


 どうすればいいのだろう。額に浮かんだ冷たい汗を拭う余裕もなく、私は焦りのまま足を止めた。ロイの風魔法でも、この毒霧の根源を断つことはできないのだ。


 そんなとき、ふと胸の奥を掠めた記憶があった。そうだ、この中に——慌ててバッグのリボンをほどき、中を探る。布の擦れる音と手探りで小瓶がぶつかるかすかな音が響く。指先に冷たい硝子の感触が触れたとき、心の底から安堵が込み上げた。


 白露草の精油。大学の薬草園で分けてもらった、浄化の効力を持つ薬草から抽出したもの。念のためにと忍ばせておいたものが、今ここで手の中にある。


 震える手で栓を引き抜くと澄み切った清涼な香りが立ち昇った。精油を掌に垂らし魔力を込める。指先に熱が宿り、透明な雫が淡い光を帯びて細かい霧となって掌から空気へ溶け出した。


 するとどうだろう。青白い霧はたちまち揺らぎ、音もなく崩れ落ちていく。壁に潜んでいた蕾たちが苦しげに身を震わせ、散らしていた毒気を吸い戻すようにつぼみを硬く閉じていった。

 廊下に漂っていた不気味な冷気が引いていき、代わりに白露草の清らかな香りが辺りを満たす。


 私たちはようやく深く息を吸い込み、胸の奥まで空気を満たした。足元の力が抜けそうになるのを、なんとか踏み止まる。


 霧は晴れた。けれど廊下の奥はまだ影に包まれ、どこまで続いているのか分からない。足を踏み出す勇気を支えているのは、小瓶に残ったわずかな精油だけだった。




 暗い回廊をロイと並んで進んだ。石の床に靴の音が乾いた反響を返すけれど、その響きがかえって無限に続く通路の広さを実感させる。どこまで行っても同じ色の壁、同じ天井、同じ暗さ。終わりがあるのか、それとも私たちを惑わせるためにぐるぐると輪を描いているのか——そんな疑念すら胸を掠めた。


 さっき使った白露草の精油は小瓶にほんの少し残っているだけだ。次にまた何か仕掛けが待ち構えていたら、それだけでは足りないかもしれない。その考えが頭を離れず、掌の中に感じる硝子の冷たさが、不安の象徴のように思えてならなかった。


「……ロイ」


 声をかけると、隣を歩く彼がちらりと私を見る。薄暗い中でも灰色の瞳が鋭く光った気がした。


「誰が、こんなことを仕掛けてきたんだろう。私たちを狙って……」


 口に出すと言葉が廊下に溶けて消えるようで、返って心細くなった。ロイはわずかに眉を寄せ、足を止めずに言った。


「狙いは君か俺か、それとも両方か」

 

「わざわざ魔法陣を仕掛けて、こんな場所に転移させるなんて……。偶然じゃないよね」


 彼は短く頷いた。


「偶然なら、ここまで綿密な準備はできない」


 低く押さえた声には、冷たい確信の響きがあった。


「あの魔法陣、古い魔術の応用だろう。術式の構成から見て、誰かがかなり手を加えている。教本には載っていないはずだ」


「そんなのを扱える人って……」


 私は言い淀む。偉大な魔術師たちの姿が頭を過ぎるけれど、誰の像もはっきりとは結びつかない。


「限られる」


 ロイは淡々と補った。


「知識だけじゃなく、膨大な魔力も要る。学生や普通の術者には無理だ。少なくとも——」


 そこで一度言葉を切り、私を真っすぐに見た。


「少なくとも、俺たちが正面から挑んでも勝てる相手じゃない可能性が高い」


 胸の奥に冷たいものが広がった。足元の石畳が急に薄氷のように感じられて、歩みを進めるごとに砕け散りそうで怖かった。


 それに、さっきの部屋——攻撃性の高い蔓が壁から這い出し、毒の蔓が垂れ下がり、ぴくりとでもしたら焔裂花が爆ぜる部屋。

 知識のない人なら、蔓を見て炎で片づけようとしたかもしれない。焔裂花に対して炎を使えば、部屋ごと吹き飛ぶ。誰かはそれを分かったうえで仕掛けている。明確な殺意だ。言葉にするとなおさら、ぞっとする。


 それに、精油がなければあの毒霧の回廊で確実にやられていた。廊下はまだ終わりを見せない。石壁に手を触れると、ひやりと冷たい。脈打つ心臓の熱が、掌を通して吸い取られていくようで落ち着かない。


 私は小さく笑おうとしてみた。震えをごまかすために。


「もし帰って教授に報告できたら……『危険な魔法植物を全部見られた』って言えるかもね」


「笑い事じゃない」


 それきり、廊下の空気は静まり返る。私たちの足音だけが、先へと繋がっていく。たまに石の割れ目に小さな苔が光り、壁の表面に混じる古い紋様が淡く浮かんだ。

 私はその一つ一つを拾い上げるように、観察を続ける。考えることで、怖さを押し返そうとしている。


「用心しよう。また仕掛けがあるかもしれない」


 ロイがふと低くつぶやく。その言葉に私の肩が一度小さく跳ねる。私は白露草の小瓶を、ひと握りだけ強く抱きしめた。硝子の冷たさが現実を取り戻させる。

 怖い。けれど、怖いままでは前に進めない。準備は偶然でも、それをどう生かすかは私次第だ。震えても、進むしかない。

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