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第七話 逃げ出したマンドラゴラ

 裏庭にはまだ朝の光が柔らかく差し込んでいて、湿った土の匂いが立ち込めていた。不安を抱えながら足を進める私の隣にはロイがいる。

 彼は何も言わず、ただ無表情のまま歩調を合わせているけれど、「仕方なく」という空気が漂っているのは私の気のせいじゃないはずだ。


 裏庭はいつも通りの静けさを保っているように見えたけれど、よく目を凝らせば普段とは違う乱れがあちこちに残されている。花壇の端はむしゃむしゃと齧られたようにえぐられ、さらに鳥の餌入れがひっくり返って餌が土に散らばっていた。


 ロイは杖を掲げると、低く呟いて呪跡解析呪文を唱えた。空気の中に淡い光が広がり、地面には魔力の痕跡が浮かび上がる。

 ……根で引っ掻いたような跡。薄青の炎のように尾を引いて、裏庭から森へと続いていくのが分かった。


「……やっぱり森のほうだな」


 彼の淡々とした声に、私はうなずきながら足元に落ちていたものを拾い上げる。乾いた根の破片。指でひっくり返すと、柔らかな若芽のような部分がまだ青々と光を帯びていた。


「この根、まだ若い個体のものだよ。あの子はここを通ったんだ」


 私は拾った根をノートに挟み込み、息を吐いて足を踏み出した。草の葉先に朝露が光り、鳥たちが騒がしく囀る。

 森へ続く道は薄暗く、微かな木漏れ日が道標のように瞬きながら誘っている。心の奥底にはまだ焦りと不安が渦巻いているけれど、もう後戻りはできない。




 森に足を踏み入れると、空気がねじれているのを感じた。湿り気を含んだ風が肌をかすかに撫で、足元に広がる苔が淡い緑の光を宿している。

 ふと視線を凝らせば、光が揺らめくたびに地面の輪郭が歪んでいる。これが魔力の乱れ。放っておけば幻惑に絡め取られ、同じ場所をぐるぐると回る羽目になる。


 私は鞄から小瓶を取り出した。中には乾かした薬草の束が入っていて、苦い香りの立つそれに火を灯せば灰緑色の煙が広がっていく。

 煙は魔力の揺らぎに触れた瞬間にざわりと震え、やがてゆるやかに波を鎮めるように森の奥へと流れていった。道の歪みがほどけていくのを目にして、胸の内でそっと息をつく。これでようやく、痕跡を正しく辿れる。


「行くぞ」


 少し離れた場所で呪文を唱えていたロイが短く告げる。彼の魔力が地表に浸透し、根の擦れた跡や踏み荒らされた土の模様が淡い光で浮かび上がる。呪跡は森の奥へ奥へと続いていた。


 大学の裏手の森は調査や演習で使われて、学生にとっては馴染み深い場所だった。それでもうっかり足を踏み外せば蛇に噛まれることもあるし、木の根に潜む毒虫に刺される危険だってある。

 だから普段なら必ず香液で虫を遠ざけるのだけれど、今はそうもいかない。マンドラゴラは香りに敏感で、気付かれた途端にまたどこかへ消えてしまうかもしれない。

 腕や首筋を這う小さな虫の感触に神経を尖らせながらも、我慢するしかなかった。

 

 ロイは前を歩き、杖を軽く振るだけで進路を塞ぐ蔓や枝を音もなく断ち切っていく。その背中は頼もしいけれど口数は少なく、時折こちらを振り返る目は「足を止めるな」とでも言いたげで、私は小走りに追いつくたびに緊張で喉が乾いていった。


 やがて辿った痕跡の先、茂みの陰で小さな影が蠢いた。耳を澄ませば、かすかな齧る音。

 覗き込むと、つややかな葉を揺らしながら、マンドラゴラが夢中になって草を齧っていた。まさか、こんなに近くに……。

 一瞬掴めるかもしれないと手を伸ばしかけたが、その気配を察したのか、マンドラゴラは跳ねるように葉を震わせて地を蹴った。


 一目散に走り出したその姿を追って、私も駆け出す。小さな根の足とは思えないほど素早く、地面をひっかくたびに土が飛び散る。すぐに追いつけると思った矢先、マンドラゴラはするりと土に潜り、姿を消した。


「待って!」


 呼びかけも虚しく、次に現れたときには近くの木の根を伝ってするすると垂直に登っていった。まさか、あんな動きができるなんて。教本には奔るマンドラゴラのことなんて載っていなかった。

 ロイは杖を振って蔓を断ち切り、私の進む道を素早く切り開く。その動作は迷いがなく、苛立ちすら見え隠れしていたが、だからこそ頼もしかった。

 その動作に導かれるように再び走り出すと、マンドラゴラは上へ、そして次の瞬間には枝の陰から反対方向へ飛び降りていた。予想外の動きに心臓が跳ねる。


「右じゃない、左だ」


 ロイの声に我に返り、足を踏み出す。速さでは敵わない。けれど、あの子が選ぶ道筋はいつも安全そうな方だ。陽の当たる草むら、茂みの影、岩陰——小さな植物が無意識に求める安息の地を先回りすれば、必ず出会える。


「ロイ、あの先……!」


 私は叫び、草陰の窪地を指さした。ロイは迷うことなく呪文を唱え、岩のひとつが重い音を立てて転がり、マンドラゴラの退路を塞ぐ。小さな影が驚いて跳ねるのを見届けながら、私は捕縛呪文を放った。


 私の声に応じて走った呪文はまるで生き物のように伸びて、逃げ惑うマンドラゴラの身体にぴたりと絡みつく。小さな根足をばたばたと振り回しながら必死に抵抗するけれど、縄はするすると締まり、やがてマンドラゴラを土の上に転がした。


「……やった!」


 思わず声が弾んで、私は急いで駆け寄った。マンドラゴラは甲高い鳴き声をあげながら身をよじり、まるで泣きじゃくる子どものように見えてしまう。けれど、ここで情にほだされるわけにはいかない。

 私はしっかりと両腕に抱え込み、用意していた保管箱の蓋を開ける。中には敷き詰めておいた湿った土が待っていて、そこに収めるとマンドラゴラは落ち着いたように動きを止めた。


 深く息を吐き、汗ばんだ額を拭う。胸の奥に広がった安堵は、言葉にできないほど大きい。やっと捕まえた——もう逃がさない。


 背後から足音が近づいてきた。ロイが杖を収め、こちらへ歩いてくる。いつもの落ち着いた足取りで、何ひとつ乱れていないように見える。けれど、さっきまで私のために蔦を切り払い、岩を動かし、道を作ってくれたのだ。


「ありがとう、ロイ。本当に助かったよ」


 私が頭を下げると、彼は眉ひとつ動かさずに答えた。


「大学の指示だ。君に感謝されることじゃない」


 いつも通りの無表情で冷たくも淡々ともとれる声。だけど、私は彼に何度も助けられた。だから自然に笑みがこぼれる。


「私はあなたに感謝してるから」


 ロイは一瞬だけ目を伏せ、それから何も言わずに歩き出した。その背中を追いかけるように、私は保管箱を抱えてついていった。


 森の小道を戻るあいだ、頭上の枝葉が風に揺れてざわめく音を立てる。陽の光が木々の隙間からこぼれて、苔むした地面にまだらな模様を描いていた。

 群れから少し遅れて飛んできた小鳥が木の上で短く鳴く。世界はいつも通りに見えるのに、胸の奥では達成感と疲労が重なり合い、夢の中を歩いているようだった。



 ◆



 それから、変異株のマンドラゴラは教授が引き取ってくださることになった。教授はあの子を「研究に値する」と言ってくださり、その言葉に私はほっと息をついた。

 不安はまだ消えたわけではないけれど、少なくともあのマンドラゴラが無為に森を荒らすことはなくなったのだ。


 報告を終えて研究棟の廊下を並んで歩きながら、私はちらりと隣をうかがった。ロイはいつものように口数少なく、澄んだ色の瞳をまっすぐ前に向けている。


「マンドラゴラ、すっかり大人しくなってたね」


 声をかけるとロイは一瞬こちらを見やり、それからすぐに視線を元に戻して答えた。


「さすがに観念したんだろ」


 素っ気ない返事ではあるけれど、話しかければ応えてくれる。もう以前のように拒絶されてはいなくて、私は口もとを綻ばせて続けた。


「それにしても、あの蔓を切る魔法すごかったよ。防御だけじゃなくてあんなこともできるんだね」


 彼はほんの少しだけ顔をこちらに向け、短く返す。


「別に大したことじゃない」


「ふふ、そう言うと思った」


 そのときのロイは表情を崩さなかったけれど、ほんのわずかに足取りが緩むんだようにも感じた。私の視線を避けるみたいに前を向き直す姿がなんだか照れ隠しにも見えて、くすぐったい気持ちになる。


「褒め言葉はね、素直に受け取るものだよ」


 静まりかえった廊下に自分の声が思いのほか優しく響いた。ロイは何も否定しなかったから、その沈黙すらも嬉しく思えた。


 玄関の重たい扉を押し開けると、夕暮れの光が差し込んできた。石畳の上に落ちる二人の影は並んでいて、私にはそれがひどく心強く映る。

 遠くからは鳥の最後の鳴き声が聞こえた。ここで別れて寮に戻ろうと、私は軽く息を吸う。


「じゃあ、今日はありがとう。また——」


 そう言いかけた瞬間——足元がふいに、花びらが散るような光で満たされた。


「……え?」


 石畳の上に、花紋を思わせる繊細な魔法陣が広がっていく。淡い光の線が瞬く間に円環を描き、私とロイの足元を包み込んだ。空気が震え、視界がにじむ。思わず後ずさろうとしたけれど、地面が吸い寄せるように重く、脚が鉛のように動かなかった。


「下がれ!」


 隣でロイの声が鋭く響いた。杖を抜き放つと同時に、彼の口から呪文が紡がれる。眩い光の刃が奔流のように走り、足元の紋様を真っ二つに断ち割ろうとした。

 一瞬、紋様は砕け散ったように見えた。けれど——次の瞬間にはまるで嘲笑うかのように再生し、逆に光を呑み込みながら渦を巻いた。


「なっ——」


 言葉にならない声を上げたところで、視界全体がぐにゃりと歪んだ。目の前のロイの輪郭さえ揺らめき、遠ざかっていく。体が傾くのか、世界が傾くのか、自分でも判別がつかない。耳鳴りがして、心臓の鼓動が遅く、深く沈んでいくように響く。


「エヴァリー!」


 ロイの声が確かに私の名を呼んでいた。何かを必死に唱えるその声が耳に届いたのに、言葉の輪郭は霞んでしまう。最後に見えたのは渦巻く光の花紋の中で、杖を構え続けるロイの姿だった。

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