第六話 薬草室の午後
薬草室の扉を開けた瞬間、胸の奥で小さな鐘が鳴るように空気が変わったのを感じる。硝子張りの天井から差し込む光は七色に揺らぎ、床や鉢植えの葉に散らばって世界を染め上げていた。
漂う花粉や魔力を帯びた小さな粒子が光を受けてきらきら瞬き、まるで妖精たちが舞っているみたいに見える。私にとって、この部屋は秘密の宝石箱のような場所だった。
荷物を台に置き、髪を耳にかける。袖口を少し捲って棚に並んだ鉢植えの葉に手を伸ばすと、しっとりとした緑の感触が指先に伝わった。翡翠色に透き通る葉脈は今日も元気そうだ。
魔力を蓄えた水晶の水差しを両手に抱え、蔓の広がる鉢に注いだ。水が零れるたびに青白い光が揺れて葉脈を透かし、植物たちは小さな囁きで応えてくれるように葉を揺らしている。私はノートを開き、インクを吸った羽ペンを走らせる。
——今日の葉の色:翡翠色。花のつき方:南向き。
細かな記録の一行一行が積み重なって、厚い紙束になっていく。水やりをひと通り終えて記録もすべて書きつけると、胸の奥で小さく息が抜けた。
葉の色も茎の張りも花芽の具合も、だいたい順調。水晶の水差しを抱え直しながら、「よし」と誰にでもなく小さく呟く。
けれど安心したのも束の間、壁際に絡んでいた蔓が突然うねるように伸びて、乾燥中の植物を下げた棚をぎしりと揺らした。この部屋はいつだって穏やかというわけではない。気を抜くと、すぐに牙を見せてくる。
「ちょ、ちょっと待って、その棚は……!」
慌てて杖を取り出し、詠唱を口にする。杖先から走った淡い光の帯がするりと蔓に絡みつき、ばたばたと暴れるのを締めつける。乾燥植物たちが揺れて、鉢植えが危うく倒れるところで何とか抑え込み、心臓が早鐘を打った。
「……もう、驚かせないでよ」
そうつぶやいて深く息を吐く。ところが落ち着く暇もなく、すぐ隣の鉢で、つぼみがぱん、と弾けるように開いた。
濃い紫の花弁が鮮やかに広がり、途端に甘い香りが室内いっぱいに漂う。胸いっぱいに吸い込んでしまったらしく、頭がふらりと揺れて視界が霞む。
エーテルの花——危険な魔力を含んだ毒花が咲いてしまった。慌てて口元を袖で覆い、片手で封じの粉を掴み取る。
ばらばらと振りかけると花の中心で火花のような光がぱちりと弾け、香りが一気に収まっていく。気が抜けたみたいに花弁はしおれ、空気も静けさを取り戻した。
私は壁に手をつき、しばらく深呼吸を繰り返す。少し震えた指先を見下ろしながら、思わず笑ってしまった。
——他の学生の中には、この部屋に一歩入っただけで「気味が悪い」と顔をしかめる人もいる。制御の利かない植物、思いがけず牙を剥く花。
けれど私にとっては、どんな危うさもどんな気まぐれもここにある命の証であり、私を惹きつけてやまない輝きそのものだった。
私はそっと机へ近づくと、椅子の背に体を預ける。一息ついて、引き出しからお気に入りの陶器のティーセットを取り出した。
乾燥させたレモンバームとカモミールをひとつまみ。香り立つ茶葉をポットへ落とすと、水魔法で澄んだ水を生み出して注ぎ、杖先で軽く縁を叩いて炎魔法で温度を上げる。
香り高い湯気がふくらみ、ガラス張りの天井から射す光を受けてきらめきながらゆらゆらと昇っていく。
「ふう……これでよし」
琥珀色の液体をカップに移しそっと口に運ぶ。柔らかい甘みとすうっと鼻を抜ける清涼感が、頭の芯まで解きほぐしていくようだった。
薬草室のざわめき、かすかに漂う土と葉の匂い、それらすべてが調和してまるで小さな楽園のよう。私は思わず目を細め、しばし現実を忘れる。
けれど、ふと。
微かな物音が、平穏を破った。
——カサリ。
植木鉢が並んだ窓際から、乾いた土の崩れるような音がする。最初は気のせいだと思ってカップを口に運ぼうとしたけれど、またひとつ、確かに何かが這うような気配がした。私は視線をめぐらせて、音のした方へ目を向ける。
視界に飛び込んできたのは——鉢の縁を、もぞもぞと乗り越えようとする小さな影。
「……うそでしょ」
それは私が丹精込めて育ててきたマンドラゴラだった。けれど、普通のそれとは違う。根が脚のように動き、まるで意志を持って歩くかのように土を蹴っていたのだ。
——変異株だ。その言葉が脳裏をよぎった瞬間、私とそのマンドラゴラの目がばっちり合った。
しんとした沈黙。お互い数秒だけ固まり、時が止まったような間が流れる。けれど次の瞬間、我先にとばかりに奴は鉢から飛び降りた。
「あ、ちょっと!」
カップを慌てて机に置き、私は立ち上がる。けれどマンドラゴラは信じられない俊敏さで床を駆け抜けた。カサカサと根を鳴らし、机の脚を蹴り、棚の影へと潜り込む。私が手を伸ばすたびに、するりと方向を変えてすり抜ける。
私は杖を抜き取って、捕縛の呪文を唱えようとした。ところがその瞬間、背後から蔓がするすると伸びてきて、私の手首に絡みつく。
「えっ、ちょっと待っ——」
ぐいっと引かれ、杖が無惨に奪い取られた。必死に引っ張り返そうとするも、蔓の力は予想以上に強く、あっという間に杖は向こうへ持っていかれる。
呪文も唱えられず、手ぶらのまま床を駆け回るマンドラゴラをばたばたと追いかける。まずい、これは本当にまずい。頭の中で警鐘が鳴り響く。
そのとき、冷たい風が頬をかすめた。……窓。今日は風を通すために大きく開け放してあったのだ。
嫌な予感がする。そして、私の勘は見事に当たった。マンドラゴラは窓辺に駆け上がる。そして振り返るように私を一瞥し、まるで「捕まえてごらん」とでも言うように一瞬だけ小さく跳ねた。
「お願い、待って! 教授に怒られるの! 本当に!」
私の必死の訴えも空しく、マンドラゴラはひらりと身を躍らせ、外の光の中へ飛び出していった。根が風を切る音が聞こえたかと思うと、影はすぐに庭の茂みへと消えていく。
私は窓辺で固まったまま、喉から乾いた息が漏れた。足は勝手に外へ飛び出そうとしているけれど、頭の中は大混乱だ。杖を取り返さなければ何もできない。だけどマンドラゴラが外で騒ぎを起こしたらもっと大変なことになる。
これは——まずい。本当に、とてつもなく、まずい。
◆
「……と、いうわけなんです」
言い終えてから、自分の声がやけに小さく頼りなく響いたことに気づいた。私は椅子に沈み込んで、頭を深く下げたまま動けなかった。
ローレルトン教授の研究室はいつ来ても独特の空気がある。薬草の匂いが入り混じって、鼻の奥をくすぐる。窓辺には奇妙な鉢植えがずらりと並んでいるけれど、私が知らず可愛がっていた変異株に比べればどれもおとなしいものだ。
その教授の机の前で、私はほとんど懺悔のように今日の出来事を報告していた。ティータイムの小さな安らぎから、逃げ出したマンドラゴラを追い、杖を奪われ、結局取り逃がしてしまったこと。
中庭にいた学生たちに聞き込みをしたものの、誰も目撃しておらず、おそらく裏庭から森のほうへ逃げたであろうこと。
しばしの沈黙ののち、重たい溜息が教授の口から落ちた。
「……変異株だとは、流石に私も予想していなかったよ」
教授は机上の資料をぱらりとめくり、私のほうを一瞥すると、指で額を押さえながら続けた。
「そのまま放置しておけば、森の生態系に予期せぬ影響を及ぼす可能性が高い。ひとつの変異株が、土壌や他の植物にどう干渉するか——」
私は唇を噛んだ。単なる失敗では済まされない。教授の言葉は、冷静であるがゆえにひどく重たく響く。
「ミス・エヴァリー、君に回収を任せる」
その一言に、思わず背筋をぴんと伸ばした。ああ、やっぱり……と内心で項垂れつつ、声に出してため息をつくのはぐっと堪える。
そもそもこんなことが起こったのは私のせいだ。逃げ出した変異株のマンドラゴラは私が世話をしていた鉢から生まれて、取り逃したのも私なのだから。
けれど教授はそれで話を終わらせなかった。資料を軽く指先で弾きながら続ける。
「安心しなさい、一人では行かせない。ロイ・グレイフォードを同行させよう」
「えっ」
その名を耳にした瞬間、思わず身を乗り出してしまった。ロイ……? あのロイが? 私は瞬時に頭の中で彼の顔を思い浮かべた。冷ややかな灰色の瞳と、余計な言葉を一切挟まない物言い。
——あの人が、私の不始末になんて付き合ってくれるのだろうか。くだらないとか自分で行けとか、冷たく一蹴されるんじゃないの。
教授の机の木目を見つめたままぐるぐると思考していると、その迷いを見透かしたように声が落ちた。
「生態系への影響は重大な案件だ。大学側の正式な指示として、明日の講義は公欠扱いにする。君とミスター・グレイフォードの二人で追跡にあたりなさい」
「……公欠」
つまり、本当に大学公認の任務だということ。彼が私のためについてきてくれるんじゃなくて、あくまで大学の仕事として動く。少なくとも「嫌だ」と言って背を向けることはできない。
ほんの少し胸の奥の重しが軽くなるのを感じた。気楽になったわけではない。失敗すれば私の責任だし、森に逃げ込んだマンドラゴラを見つけ出すのは相当な大仕事になるだろう。
それでも、大学が正式に彼を同行させると言ってくれるなら……孤立無援で飛び込むよりは、ずっと心強い。
「……承知しました。必ず回収してみせます」
言葉にしてしまえば、不思議と腹は据わるものだ。私は椅子をそっと引き立ち上がる。扉の向こうに待っているのは、逃げ足の速いマンドラゴラと若干態度に不安のある同行者。
けれど逃げるなんて許されない。あの時取り逃したのは私。失敗を取り返す機会を与えられたのなら、今度こそ責任を果たさなければ。




