第五話 私の目で見るもの
渡り廊下に出ると、夕方の光が高い窓から差し込んで、古い石造りの床に淡く反射していた。窓の外では中庭の芝生の上に魔法陣を描いた学生たちがいて、青白い光の線が宙に漂っている。
そのすぐそばでは炎魔法の練習をしているらしい二人組がいて、ひとりが呪文を唱えるなり火球が大きく膨れあがった。横に立っていた友人の袖を危うく焦がしそうになって、わっと慌てて飛び退いた学生の声が渡り廊下まで届き、周りから笑い声と小さな拍手が起きる。
「ねえウィニー。この前のエルダウッド森林での調査、どうだった?」
隣を歩く友人が、肩から下げた革の鞄を揺らしながら私に身を寄せてきた。
「すごく面白かったよ! もちろん大変なこともあったけどね。森そのものが生きてるみたいで、気を抜いたらすぐ足を絡め取られちゃいそうだったの」
「やっぱり。エルダウッド森林なんて本当によく行ったわね」
彼女は半ば呆れて、半ば感心したように目を丸くする。私は少しだけ笑って続けた。
「一緒に来てくれた子のおかげで上手くいったんだ。正直、ひとりじゃどうにもならなかったと思う。すごく助けられたの」
そう言うと友人は「ふーん」と短く答えた。言葉以上に、声音の温度で彼女の気持ちは伝わってくる。
「ロイ・グレイフォードと一緒だったんでしょ? まあ、顔が綺麗なのは認めるけどね。あの人、性格は全然よくないって有名よ。前に告白した子がひどい振られ方したって話、聞いたことない?」
「ひどい振られ方?」
「そう。あっさり『興味ない』って一言で済まされたって。相手の子、泣き崩れちゃったらしいよ」
「そうなんだ……」
私はつぶやくように答える。意外というよりも、むしろ納得してしまった気持ちのほうが強い。確かに彼は、わざわざ優しい言葉で断ったりはしないのだろう。
「だからね、あまり関わらないほうがいいと思うわ。あんなのと一緒にいたら、あなたまで変な噂を立てられるかもしれないし」
心配そうに言うその声はまっすぐで、私のためを思っているのが伝わってくる。それでも、私は首を横に振った。
「……でも、悪い人じゃないよ。人当たりがよくないのは確かだけど、少なくとも私にとっては……必要なときにはちゃんと助けてくれたし」
友人は「えー……」と声を伸ばしながら、わかりやすく眉をひそめた。呆れと驚きが混じった顔を横目に、私は小さく笑ってしまう。
怒る気にはなれなかった。心配してくれているのがわかるから。でも、自分の意見を変える気もなかった。
人の噂や評判はどうあれ、私がこの目で見たこと、感じたことがすべてだと思う。あの森の奥や先日の薬学室で、確かに私はロイに助けられた。その事実は、誰にどう言われても否定する気にはなれない。
「……私はね、自分の目で見た姿を信じたいと思うの」
そう答えると友人はあきれ顔のまま、でもそれ以上は何も言わなかった。窓の外からはまた火花がはじける音と、それに混じる笑い声が聞こえてきた。大学の空気は少しばかり煙たいけれど、生き生きしている。
私は渡り廊下の窓から見える空に目を向けた。昼間の濃い青が少しずつ薄紫に変わり始めていて、そこを鳥の群れが横切っていった。
◆
抱えていた本や道具の重みを両腕に食い込むように感じながら廊下を進んでいた。石の床を靴音が規則正しく打ち、窓から吹き込む風が赤い髪を揺らす。
ほんのわずかな涼しさに次の講義までの慌ただしさを一瞬忘れたところで、視線の先に人の輪が見えた。
廊下の先で数人の男子学生が立ち止まり、笑いながら何かを話している。その中心に立っているのはロイだった。周りよりも頭ひとつ分ほど背が高く、姿勢は相変わらず揺るがない。
教室へ入るには輪の前を通りすぎる必要があって、そのまま歩みを進めようとしたその時だった。
「一緒に森に行ったのって、あのウィニフレッド・エヴァリーだろ?」
耳に自分の名が飛び込んできて、思わず足が止まる。心臓が一拍変に高鳴って、逃げる必要なんてなかったのに、咄嗟に壁際に身を寄せてしまった。
……どうしよう。名前が出ている今、平然と前を通るのも気まずい。かといってこっそり行こうにも、この髪の色は隠せない。赤毛は、群衆の中にあっても炎みたいに目立ってしまうから。
私は立ち尽くしたままそっと視線だけを動かして、彼らの輪を覗く。するとその時、笑いの響きに混じって思いがけない言葉が胸を突いた。
「ああ、あの赤毛の」
「魔法植物ばっかいじってる変わり者だろ」
「この前土まみれになってるのを見かけたよ。あれじゃ誰も寄りつかないよな」
笑い混じりの声音。悪意というより、ただ軽い冗談の延長なのかもしれない。けれど私は瞬きを忘れ、まるで足下が崩れたかのように重心を失う。
まさか、こんなふうに噂されるなんて——鼓動が大きすぎて、まるで耳の内側から叩かれているようだった。息を吸ってもうまく肺に届かない。
彼らは笑いながら言葉を重ねる。誰も本気にしていないように見えるからこそ、逆に逃げ場がない。私の存在は彼らにとってからかう対象でしかないのだと、その声色が証明している。
ロイは何も言わない。輪の中心に立ちながら、視線を動かすこともなくただ聞いている。その無反応が余計に心をざわつかせた。
否定してくれるだなんて、期待はしていない。それでも何を思って聞いているのかが気になってしまう。
その時、ひとりの学生が笑いを強めて言い放った。
「あんな色の髪じゃ落ち着きもなさそうだ。足を引っ張られなかったか?」
その言葉に血の気が引く。窓からの風に揺れる自分の赤い髪が視界に入り、無性に目を逸らしたくなる。今この瞬間にロイがどう答えるのか、それを耳にするのも恐ろしくて、思わず背を向けた。
離れよう。講義には遅れてしまうけれど、それでも——
「くだらないな。興味がないんだ」
低く抑揚のない声が鋭く空気を切った。廊下に響いたその一言で、先ほどまで続いていた笑いが途切れる。まるで刃で切り落とされたように、すべての音が絶たれた。
「迷信に縋るのは大学で学ぶ者のすることじゃないだろ」
その声音には、私を庇う響きなんてなかった。ただ雑音を切り捨てるような、淡々とした冷たさがあるだけ。なのに、心臓の鼓動がさらに強く胸を打った。驚きとも安堵ともつかない震えが、指先まで駆け抜ける。
背を向けかけた足が、そこで止まってしまった。逃げればよかったのに。私は物陰で立ち尽くし、両腕の中の本をぎゅっと抱え直す。
私のために言ってくれたわけじゃない。そんなことは、すぐに分かる。ロイはそこまで思いやり深い人じゃない。誰かを庇ってやるような言葉を投げる人でもない。
ただ、赤毛は落ち着きがないだとか、そんな根拠のない迷信をくだらないと切り捨てただけ。彼はいつだって、思ったことをはっきり口にするだけの人。
それでも。
それでも、心の奥が熱を帯びていくのを止められなかった。暗がりに、不意に灯がともったみたいに。
なぜこんなにも、ほっとしてしまうんだろう。違うと分かっているのに、私は勝手に嬉しいと思ってしまう。
そんなふうに立ちすくんでいると、校舎全体に鐘の音が鳴り響いた。大きく沈んだ響きが石造りの廊下を揺らし、授業の始まりを告げる。
輪の中にいた学生のひとりが「あ、やべ」と短く声をあげ、慌てて鞄を肩に引っかけた。つられるように他の学生たちもばらばらと散っていき、廊下のざわめきがほどけていく。
残されたのは少し強く吹き込んだ風と、まだ鼓動の速い私だけ。
ようやく壁際から身を離す。足を動かすたびに重ね持った本やバッグの中の瓶がかすかに揺れて音を立てた。
教室の扉を押し開けたとき、ちょうど出席をとっていた先生の視線とぶつかってしまい、鋭い目がこちらを射抜く。
私はそっと会釈をして席へ向かった。椅子に腰を下ろして深く息をついたとき、やっと少しだけ体の力が抜ける。
——やっぱり、ロイは噂に聞くような人じゃない。
胸の奥でそう呟いたとき、肩にかかっていた重みがほどけていくような気がした。性格がよくないだとか、告白した子を手酷く振っただとか、そんな好き勝手な噂話の通りの人だとは思わない。
私はやっぱり、自分の目で見た彼を信じたいと思う。確かに無愛想だけれど、余計な飾りをつけずに思ったことをはっきり口にする姿勢は正直で信用できる——。
そんなことを考えていると、現実の声がいきなり私を呼び戻した。
「……エヴァリー、ミス・エヴァリー!」
はっとして顔を上げると、先生の視線がまっすぐこちらに向けられている。教室の空気がぴんと張り詰めているのを感じ、私は慌てて「はいっ!」と声を上げた。周りの数人が小さく笑うのが耳に入る。どうやら当てられていたらしい。
急いで黒板の文字と教科書の該当箇所を交互に追い、口の中が乾くのを感じながら答えをつなぎ合わせる。なんとか言葉を紡ぎきったとき、どっと肩から力が抜けて思わず息を吐いた。
……焦った。確かに、私に落ち着きがないというのは本当なのかもしれない。
けれどそれは、あの学生たちが笑って言ったように「赤毛だから」というわけじゃない。髪の色と性格をむりやり結びつけるなんて、滑稽にすら思える。
それに、ロイが言っていたもの。迷信に縋るのは、大学で学ぶ者のすることじゃないって。
その言葉を思い出すと胸の内がひそやかに澄んでいくようで、自然と口元に微笑みが浮かんだ。誰にも気づかれないように、そっと自分だけの笑みを灯す。ほんの少しだけ。自分の中で、確かにそうだと頷くみたいに。
そうやって、心の奥に確かめるように繰り返すのだ。私は、私が見たものを信じる。噂や思い込みではなく、自分の目に映る真実を。




