第三話 蒼炎草
森の奥へ進むほどに空気が波打つみたいに揺らめいて、吐く息が少し重く感じられる。魔力の流れが不安定になってきたのだとすぐにわかった。
いつかの講義で聞いた「魔力酔い」という言葉が頭をよぎる。長くここに留まれば、確かに気分を悪くする人もいるのかもしれない。
足元に転がっていた小石や枝が風にでも吹かれたかのように揺れ出したかと思うと、意思を宿したかのように宙へと舞い上がる。何の前触れもなく、矢のように私たちへと突き刺さるように飛んできた。
私は思わず身を縮めたけれど、すぐそばにいたロイが呪文を呟いて軽く杖を振りかざす。次の瞬間、透きとおったクリスタルのような障壁が生まれ、飛んできた破片が弾かれて散った。障壁は一瞬だけ揺らめき、森の緑を反射して淡く光る。
ぱしん、と破片が弾かれる音が耳に残っているあいだ、私はただ呆然と立ち尽くしていた。あんなにも自然に、あんなにも軽やかに障壁を展開できるなんて。
言葉を探すより先に、胸の奥で「やっぱりすごい」という感嘆が湧き上がってくる。森の危うさを前にしても眉ひとつ動かさず、必要なときに必要な術を放つその姿に、頼もしさと同時に不思議な遠さを覚えた。
しばらく進むと、花々が群れている場所に出る。見慣れた形をしていて、誰もがただの野草としか思わないようなありふれた花。なのに、なぜか足が止まった。
「……ん?」
視線を落とすとやはり違和感がある。花弁は同じなのに、葉の形がわずかに異なるものが混じっていた。気のせいではない。まるでそこだけ別の意図が潜んでいるみたいに、妙な不調和が見える。
そのときだった。隣を歩いていたロイの手が、無意識のうちにその花へ触れそうになっているのが視界の端に映った。
「ロイ、ちょっと待って!」
気づいた瞬間私は慌てて彼の袖を掴み、ぐっと引き寄せた。思いのほか強く引いたせいか、彼は目を丸くして私を見下ろす。
「……エヴァリー?」
少し驚いた声音に私の心臓が早鐘を打つ。けれど説明はあと。私は花の群れに向かって顕現呪文を唱え、杖先をそっと振るった。
すると花の内側がぐにゃりと歪み、白い花弁の奥から棘のように尖った牙がずらりと現れた。空気がびり、と震えるほどの異様さで、偽りの花が正体をさらけ出す。
「……やっぱり、擬態植物だよ」
息を呑みながら言葉にすると、ロイの視線がわずかに細められた。彼にとっても予想外だったのだろう。花びらに隠れていた牙は鋭く尖り、今にも獲物を噛み砕かんばかりに開閉している。
「触れると微量の神経毒でしびれるの。長く触れていたら昏睡状態にまで陥るかも。獲物を眠らせて、そのまま——」
言葉を切る。息を潜めるように囁きながら、私はその恐ろしい構造を観察した。花に寄せられた虫や小動物たちがその牙に捕らえられ、命を奪われていくのだろう。あんなにも可憐に見える姿の裏で、こんな仕組みを隠していたなんて。
ロイはしばし花の正体を見つめ、それから私へ視線を移す。その瞳に映るのは意外にもあの無感情ではなく、わずかに緩んだ気配。
「……助かったよ」
低い声が、森のざわめきの中で確かに届く。私は肩の力を抜き、少し遅れて笑みをこぼした。
進んでいくうち、耳の奥にかすかな音が届いた。ぱち、ぱち、と乾いた火花のような響き。
最初はただの枝が折れる音かと思った。けれど、規則的に続くその気配に、胸の奥でざわりと予感が広がる。まさか——。私は無意識に歩みを早め、枝葉をかき分けながらその音の正体を確かめに向かった。
木々の間を抜け出た瞬間、目に飛び込んできたのは淡い青の揺らめきだった。燃えるはずのない湿った苔の地面に、炎が幾筋も立ちのぼっている。風もないのに揺らぐその姿は夢の中の光景のようで、私は思わず息を呑んだ。
「……蒼炎草!」
喉の奥で言葉がほどける。ずっと書物の中でしか見たことのなかった植物が、今まさに目の前にある。青い炎に包まれた葉先は幻想的で、まるで夜空から星を摘んで植えたかのように輝いていた。
けれど次の瞬間、ばちん、と弾けるような音と共に小さな爆発が起こった。炎が散り、爆風が頬を叩く。ロイが杖を掲げ、透明な障壁を展開してくれていた。障壁が光を弾き返し、飛び散った火花は霧のように消えていく。
「……危険だな」
低く呟いた声に、私はうなずくしかなかった。無闇に近づけば、一瞬で爆ぜた炎に呑まれてしまう。
それでも目を離せなかった。憧れ続けてきた植物が、こうして目の前で青い光を放っているのだから。
「どうやってこの草を採取するんだ?」
そんな私の横で、ロイがふと問いかけてきた。その声に少しだけ驚く。彼は魔法植物に興味を示さないと思っていたから。けれど問われた嬉しさに、自然と口が動いた。
「蒼炎草の爆発は魔力が不安定だから起こるの。だけど時々ほんの短い間だけ、魔力が安定する瞬間があるんだ。その時、炎の色が白に変わる。だからその一瞬を狙って、根ごと掘り起こして瓶に詰めるの」
自分でも熱を帯びた声になっているのがわかった。ずっと本で学んできた知識を、実際に語れる喜びが胸に広がっていく。
「ただ……蒼炎草のそばに長くいると、立ち上る煙で中毒を起こす。幻覚や吐き気を伴って、重症になれば意識も保てなくなる。だから、時間をかけずに済ませる必要があるの。それでいて、魔力が安定するかどうかは運次第だから……本当になかなか手に入らないんだよ」
説明を終えるか終えないかのうちに、またひとつ爆発が起きた。地面から吹き上がるような衝撃で、私の髪がふわりと宙に舞う。熱を帯びた風が頬をかすめ、心臓が強く打ち鳴らされる。
焦燥と興奮が入り混じる。早く採らなければ、でも、白い炎が現れる瞬間を待たなければならない。息を整えるのも難しいほど緊張しながら、それでも私は目を逸らすことができなかった。危険と隣り合わせのこの場所でしか、この美しい光は見られない。
どうすればいいのだろう。爆ぜるたびに揺れる青い光を前に、私はただ足を止めていた。障壁に守られているとはいえ、あの炎のそばに近づくのは命知らずの真似だ。
けれど、ここまで来て手をこまねいているわけにはいかない。胸の奥で焦りが渦を巻き、ぐるぐると同じ思考を繰り返していたその時——ふと脳裏に閃くものがあった。
月影のシダ。
森の中程で見つけた、銀色の葉脈を宿す植物。魔力を安定させる効能を持ち、魔法薬作りには欠かせないもの。けれどさっき採取したのは人工的に改良されたものではなく、自然のままの個体だ。効力は比べものにならないほど強いはず——。
「……あれなら、もしかして」
私は小さく呟きながら、肩に提げた帆布のバッグに手を伸ばした。瓶の口をそっと外すと、中に収めてあった月影のシダの葉が淡く銀の光を宿していた。これなら、もしかしたら蒼炎草の魔力を安定させられるかもしれない。
「何を……」
ロイが低く呟いた声が耳に届く。私は答える間もなく、浮遊呪文を唱えて杖を振った。銀の葉が宙に浮かび、青い炎の揺らめきへとゆっくり滑っていく。
炎に葉が落ちたその瞬間だった。ぱち、と小さな音を立てて、蒼炎草の炎が色を変えた。
青が透きとおるように薄れ、純白に塗り替えられていく。周囲の空気までが澄みわたり、先ほどまで弾けていた爆ぜる気配が嘘のように静まり返った。
「やっぱり……!」
思わず声が弾む。私の予想は正しかった。胸が熱くなるのを感じながら、慌てて獣皮のグローブをはめ、スコップを握りしめる。
根をできるだけ傷つけないように、と言い聞かせながら、私は両手に力を込めて土を掬った。蒼炎草の根は思っていたよりもずっと細く、透き通るように白い。
掘り起こすたび炎が脈動して、まるで生き物の息遣いを聞いているような感覚になる。周囲に満ちる魔力のざわめきが、ほんのひととき穏やかに鎮まっているのがわかった。月影のシダの効果は本物らしい。
この安定がいつまで続くかはわからない。だから、できるだけ素早く作業を進めなければならない。緊張と高揚が溶け合って、世界がくっきりと鮮やかに見える。
一株を掘り上げて瓶に収めた瞬間、これまで味わったことのない達成感が胸いっぱいに広がった。蒼炎草に——目の前の奇跡に自分の手で触れたのだ。
「ロイ、ついてきてくれて本当にありがとう。あなたがいなかったらここまで来れなかったよ」
私は振り返って、そっとそう口にした。ロイは何も言わずにただ視線をこちらに向けた。青白い光に照らされたその横顔は、やはり硬い石のように寡黙だった。
私はバッグの奥からもうひとつ瓶を取り出し、笑みを浮かべて問いかける。
「使う用途はないと思うけど、売ったら高価だし……ロイも一株持っていくといいよ」
差し出した瓶を見て、彼はほんの一瞬眉を動かしただけだった。そして、わずかに首を振る。
「俺はいいよ」
そのあまりにも素っ気ない声に、思わず顔を上げる。
「えっ、どうして?」
私が驚いて問いかけると、彼は白い光に照らされたまま、低い声で短く言った。
「取りすぎたらいけないんだろ」
思いがけないその言葉に、私は息を呑む。私がふと口にしたことを覚えていて、しかも植物のことを案じてくれるなんて。……人への態度は決して優しくないけれど、心根は思いやりのある人なのかもしれない。
「あなたって、意外と優しいんだね」
そう口にすると、炎に照らされたロイの横顔が微かに嫌そうに歪む。眉がわずかに寄り、視線が逸らされる。でも、それでいいと思った。むしろその表情の奥に、少しだけ本当の彼を見たような気がしたから。
きっとまだ距離はあるのだろう。でもこうして、彼が感情を表に出してくれるようになっただけでも、私にとっては大きな一歩だ。
「……用が済んだなら帰ろう。もう一度言うけど、そばから離れない。勝手に道を外れない。危険があれば必ず指示に従うこと」
ロイはそれだけ言って踵を返した。私も慌ててあとを追う。振り返れば蒼い炎はもう木々の影に溶け、憧れていた景色は遠ざかっていく。
「ロイこそ、植物には不用意に触れないようにね。擬態してる食獣植物がいるかもしれないから」
隣に追いついて口にすると、やはり返事はなかった。けれど危険な森を共に抜けたというだけで、朝に抱えていた不安やこれまでの印象が揺らいでいく。
——思ったより、悪くない一日だったな。そう思って足を進める。道の上では蔦がうねりながら伸びていて、その一本を私は軽やかに飛び越えた。




